2020/07/22
The Spiel ⑰(Meeting 7th April 2016)
Sailor Bob Adamson - Meeting 7th April 2016
ここではあなたに何も教えはしないし、何も伝えはしない。
あなたに、どこを調べたらよいかを指し示し、自分で調べるようにと促しているだけだということを最初に理解してください。
というのも、あなたが何を信じていようと、何を理解していようと、あなたに何かを教えたり伝えたりする人はここにはいないし、またこれは何か新しい考え方ではないからです。
もし調べてみると、このことはすべての偉大な伝承の基礎となっているとわかるはずです。ヒンズー教ではこれをアドヴァイタと呼びます。アドヴァイタは非二元と翻訳されています。そして彼らはそれを、「他には何もない一つもの」と表現します。
「一つのもの」という言葉さえ、他に何かがあるということを暗示しかねないので、他に何かがあるという考えを打ち消すために、「他には何もない」という表現を使っています。
他には何もない一つのものを理解把握するためには、なぜ私がそれを教えることも伝えることもできないのかを理解しなければいけません。なぜなら、あなたはもうすでにそれだからです。なぜなら、それがそこにあるすべてだからです。
それがマハーヴァキヤの偉大なマントラ、我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなりです。
それはヒンズー教の中にだけあるわけではありません。仏教の基礎を調べてみると、同じことが別の言葉で言われています。概念化されない、永遠に新鮮な今ここにある意識。そして、ただそれだけ、他には何もないと続きます。それによって、概念化されない永遠に新鮮な意識のことを指しています。
もしあなたがこのことを詳しく調べてみると、それはあなたと、この部屋の中にいるすべての人のことを描写しているとわかるはずです。この部屋にいる人で、今ここにいることに気づいていない人はいますか? すなわち、今ここにある意識があなたではありませんか?
そこではあらゆる種類の概念が続いているかもしれませんが、理解して欲しいのは、その概念の背後には概念化されない永遠に新鮮な今ここにある意識があり、ただそれだけ、他には何をないということです。もう一度言うと、あなたはそれ以外のものではありえません。
キリスト教やその他の伝承の中では、真実、実在、神、どんなラベルを貼りつけようと、それは全知、全能、偏在のもの。それは三つのもののことを言っているのではなく、一つのものの三つの様相のこと。それは、蒸気、水、氷がH2Oの三つの様相であるのと同じです。
偏在は全面的な存在、全能は完全な力、全知は完全な知性。その完全性の中で分離はありますか? もう一度言うと、すべてはそれです。私は誰かに語りかけているのではありません。私は誰かのマインドに語りかけているわけではありません。私はそのI am(私は在る)に話しかけているのであり、それが私です。それは私の存在の感覚で、それがマインドによって、I am(私は在る)と翻訳されたものです。
ただそれだけ、他には何もありません。加えて、それによってあなたは体とマインドは実在ではないと理解できます。それは他の顕現と同じようにパターンとして現れたものです。それは聖典の中では、顕現はマヤ、すなわち幻影と言われています。それは現象としての顕現です。
そしてそれは対となる反対の極となって現れます。それ以外の方法では起こりえません。昼無くして夜は無く、静寂無くして音はありません。冬無くして夏は無く、動き無くして静止はありません。それは常に二元的に振動します。加えて、そえは束の間のものです。マヤ、幻影は束の間のもので絶えず変化しています。
体を見てください。あなたは気づかないかもしれませんが、それは絶えず変化しています。細胞は今も常に出来ていて、あらゆる種類の顕現と同じように入れ替わっています。それは絶えず変化しています。私は思考のI am(私は在る)のことを言っているのではなく、存在の感覚のことを言っています。
あなたはそれを否定することはできません。この部屋にいる誰かで、I'm not(私はいない)と言える人はいますか? 私たちは皆それぞれ、I am(私は在る)と知っています。でもあなたは、自分はこの体とマインドの存在であるという概念上のイメージを持ちました。
それは、あなたに考える力が備わった時に始まり、それが学校、社会、国家や他のみんなによって強化され、自分はこの人、存在であると信じるようになりました。人(person)という言葉はどこから来たのですか?
古代の言語、ラテン語のpersona、マスクから来ています。私たちは、マスクを身に着けたのです。それは実在ではないのですが、概念上のパターンとして受け入れるようになりました。それが、私たちが人(person)と呼ぶものとなりました。
もう一度指摘しておくと、非二元の中には二元性は全くありません。私達は、自分は人、分離した存在であるという考えを受け入れ、人、分離した個人であるという考えを絶えず強化してきました。
調べてみると、それはそのように現れます。それは現象としての顕現です。辞書によると、顕現とは「そのように現れるもの」と定義されています。それは見た目上だけのものであると指摘しています。見た目の上でだけそのように見える現象としての顕現です。
それは一つの本質がパターンとなり、すべてとなって現れ出たものです。仏陀はそれを「認識する空」と呼びました。認識や知る働きで満ちた空であり、私たちがすべてを認識するということではなく、空そのものが認識し振動してパターンとなっています。
それを調べて、それが真実かどうかを理解しなければいけません。聖典によれば、真実を知ると、真実があなたを解放するとあります。もし真実を知らないと、あなたが妄信していることが心理的な問題を引き起こします。
それがトラブルを引き起こし、程度の違いはあるものの、多くの人に何かしらの心理的な問題を引き起こします。ここでは、心理的な問題は不要です。あなたは自分で調べることによって、その心理的な問題を見抜くことができます。
なぜなら、虚偽は調査に耐ええないからです。もしあなたが調査して、それが調査に耐ええないなら、それは虚偽であり、あなたはそれから自由となります。あなたは虚偽を二度と信じられなくなります。調査してそれが虚偽とわかり、信じるエネルギーを与えなかったら、それはもはや生存、存在できなくなります。
そしてまた別のことを指摘しておきます。信じるということは、調べもしないで理由なく何かを受け入れること。そうだと言われた物事を肯定的な知識や証明もなく受け入れることです。
もし私が、あなたは「自分が在る」と信じているのか、それとも知っているのかと尋ねると、あなたははっきりと、私は在ると知っていると言うでしょう。あなたの概念上のイメージを否定することはできるかもしれませんが、(being)自分が存在するという事実を否定することができる人は誰もいません。
こうしたことは私たちの本質を指摘していますが、私たちは降りかかる概念や信じること、イメージの中で道に迷いました。どうしてこれは起こったのでしょうか。私達はみなこうしたことを信じていますが、それを調べてみる必要があります。
「私はこの体とマインドを使います」と言いますが、本質的には自分は体でもマインドでもないと知っています。あなたは「私の体」「私の家」「私の車」「私のコート」「ドレス」などと言いませんか?あなたはコートですか?あなたは車ですか?
調べてみると、同じことをあなたの体、そのエネルギーのパターンにあなたが貼り付けたラベルについても同じことが言えます。体は何でできていますか? 詳しく調べてみると、体は構成要素でできていることがわかります。それは空気、土、火、水、空間でできています。それはこの部屋のあなたの周り、あなたの外側にあるものと同じものでできています。
でも、確かめてください。あなたはその構成要素ですか?あなたはその空気ですか?あなたは自身を空気と分離することができますか?あなたが信じている存在を、構成要素と切り離すことができますか? できるなら、自身を空気と分離してください。あなたは自身を空気と切り離せないとわかるはずです。あなたは息を長く止めていることはできません。
体の80%は水です。水を体から取り出せるかやってみてください。それはできないとわかります。体から火、体温を取り出してください。そうすると低体温症で死んでしまいます。可能なら地球から出てみてください。空間から出てみてください。あなたが調べてみると、あなたは何からも分離できないことを理解します。
本質的に、あなたはこうしたものすべてなのです。でも、マインドによって見た目の上では分離して切り離され、自身のことを個人、人(person)だと思っています。そしてあなたが自分だと思っている、このマインドと呼ばれるものを見てください。
もしあなたが自分はマインドだと考えるなら、誰かこのマインドと呼ばれるものを見せることができますか? どんな形をしていますか? 形、固さなど? それは体のどこにありますか?
「私の体」という時と同じように、「私のマインド」という時、私はマインドではないということを知っています。私は家ではないし、私は車ではないのと同じです。同様に、あなたはマインドであるはずがありません。つまるところ、体とは何ですか? 精妙なレベルにおいて、マインドとは思考に他ならないと知るでしょう。思考はマインドと呼ばれるものです。
そして、あなたが自身のことをマインドだと思っているなら、どの思考があなたなのですか? 存在の感覚がマインドに翻訳されて「私は在る」という思考となります。もしあなたが思考なら、毎晩あなたが眠りにつく時に、いともたやすくそれを手放しているということに気づくのではないですか?
もしあなたがその思考なら、その思考が無くなったら、あなたは終わりになるのではないですか。でもそうはなりません。あなたは翌朝目覚め、夜の間は思考が続いていなかったのに、昼間になるとたくさんの思考がやってきて、それは必ずしも「私は在る」という思考ではないが、思考は続いていきます。
ということは、あなたはある特定の思考ではないということになります。どうしてあなたは、自身が信じているような、体とマインドの存在であると言うことができるでしょうか? もう少し詳しく調べてみてください。
あなたはいつ始まりましたか? 生まれた時とあなたは言うでしょう。でも、この部屋にいる人で、自分の生まれた時のことを覚えている人はいますか? あなたはおそらく、二歳から二歳半ぐらいまでは思い出すことができるでしょうが、それより前のことは覚えていません。
それならどうして、私は生まれたということができますか? あなたが信じている存在が生まれたとどうして言えるのですか? それはできません。
マインドを見てみると、以前も指摘したとおりそれはヴァイブレーションです。それはどのように機能するか見てください。それがどれほど機械的に機能するかを見てください。それはとても役に立つ道具ですが、破壊的でもあります。
詳しく調べると、それは絶えず反対の極へ振動するのがわかります。それを見て調べてみてください。それは記憶、過去にいるか、未来、期待、想像のどちらかにいます。善悪、快不快、幸不幸、愛と憎しみ、肯定否定。それ以外のやり方でマインドが機能するかを見てください。
そして、私たちは学んだ言葉によって限界を作っています。善悪、快不快。それがストッパーになっていて、そこが終わりの地点です。シェクスピアは何百年か前に言いました。良いとか悪いとかは何もない、思考がそう決めているだけだと。
ニサルガダッタは同じことを、「あなたの想像以外何もあなたを苦しめはしない」と言いました。想像(imagination)とは何ですか? imaging inという風に分解してください。イメージを作ることによって、それを現実だと受け取っています。ああいった絵はイメージです。
後ろの鏡を見てください。それは鏡によって映し出されています。それは実在ですか? それはそのように現れているだけですか?それは実在ではないとわかるはずです。あなたが自分だと思っている概念上の存在も実在ではないということがわかるはずです。
あなたが調べてみると、それは単なるイメージにすぎません。あなたがこれを調べると、それは粉々になります。幼い子供は、私(I)や、私に(me)をどうすることもできません。幼い子供は、これは私、これは私ではないと考えるようになります。私は幼いジョニーだ、それは私に当てはまる。私は小さいジョニーだ。私はいいやつ。私はあまりよくない。
すべてのことをそういう風に見るようになり、それは私には当てはまらいからジョニーではない、私ではないと考えるようになります。そうやって、最初の分離感がやってきます。言葉によってイメージ、考えとともに概念上の分離がやってきます。それは私ではない。「それは私ではない」がやってくるやいなや、分離の感覚が生まれ、不安になり、傷つきやすくなります。
そして自分の周りに安全を探し始めます。当然、両親、愛情ある家庭があれば安全を感じるようになります。そしてその生涯には何が起こりますか。家族が部族となり、部族が大きければ大きいほど、より一層安全に感じます。そして今日ではそれが国家となり、国家は不安と傷つきやすさゆえに戦争を起こします。
両親、学校、社会、国家はこのことに気づきません。しかし、歴史を遡ってみるといつも、そのことに気づいて指摘した人たちがいて、そういう人たちは救済者とか預言者とか呼ばれていました。誰も世界を救いはしませんでしたが、もし彼らが言ったことを調べれば、もっと良い解釈を与えることができます。
でも、人々はメッセージを見ずに、メッセンジャーを崇め、メッセージを忘れました。そこで私はメッセージを見るようにと言います。私(I)や私に(me)には大したことはできません。私たちはそれに出来事、経験、条件付け、形を加え、自身がそこにいるというメンタルイメージを作り上げました。
それを調べることなく、「私」という思考を付け加えました。私はボブ。オーストラリア人。いいやつ。私は幸せ。私は落ち込んでいる。不幸な子供だった。あらゆることがやって来て、概念のイメージを作り上げました。そうしたイメージが「私」という思考を形成しています。
純粋な知性が機能する代わりに、この概念上のイメージが機能しています。そのイメージを私たちは自己の中心、基準点またはエゴと呼びます。概念上のイメージを持ち、それがエゴとなり、一方では聖典の中で、エゴを取れ、エゴが問題だと言っています。
それを取り除くために何でもしようとします。でもここで私は、そんなものは存在しないと言います。私たちは架空の概念に縛られています。そのエゴがすべての心理的な苦悩の原因であることに気づいてください。それは原因と結果であり、カルマと呼ばれるものです。
それは心配のもと、不安のもととなります。それは不幸と抑圧をもたらします。その「私」だけが心配をします。その「私」だけが恐れを抱きます。「私」だけが不幸になり、「私」だけが落ち込みます。「私」にすべての概念を付け加えています。そうが「私」のもととなっています。
そこで尋ねてみてください。原因なくして結果があるでしょうか。カーマと呼ばれるものがあるでしょうか。あなたが調べてみると、原因なくして結果はないとわかります。そうやってあなたは、「私」がすべての問題の原因であると知るでしょう。その結果がストレスとなり、心配となります。
それを取り除くためには自身で調べてみることが必要なのではありませんか。このエゴ、「私」がフィクションであると知ることが必要なのではありませんか。それを調べてみて、それがどう機能するか見てください。
何かが起こり、そこにはいまだに小さな子供がいて、それをありのままに見て自然に過去の記憶と関連付けする機能が働きます。何かが起こり、それを好む。どうしてですか。過去にそれを経験して、それが良かったのでそのことを好む。そして、自分の好きなことを留めておきたい。
いにしえの人々が指摘したように、それは束の間のものだということを理解しません。それをどんなに愛し、そんなに執着し欲しようとも、それが留まることはありません。それはとても普通の退屈なこととなり、変化し去っていきます。それはあなたの体と同じように変化していきます。
私たちは、それが変わってほしくない。それでどうしますか。何らかの力が手に入ったらと考え、「私」に頼るようになります。「私」は抵抗します。「私」は変化することを拒絶しようとします。抵抗は対立だとわかりますか。あなたのどんな抵抗も対立です。そして、どんな対立も病気です。
もしあなたが恐れていて心配し、不安なら、それは病気なのではありませんか。あなたが怒っていて落ち着かないなら、それは病気ではありませんか。それが心理的な苦悩をもたらし、あなたはそれを取り除くことができず、閉じ込めます。
何かが起こり、あなたはそれが嫌い、以前に経験したからと思い、それを取り除こうとします。そしてそれがそこにあることに抵抗します。そしてまた対立、また病気です。そうやって心理的な苦悩に常に悩ませられることになります。というのも、あなたは絶え間なく対立しているからです。
あなたはそのことから自由になることができます。あなたは心理的な苦悩に悩まされる必要はありません。私はここで、たわごとを言っているわけではありません。私は事実を語っているのです。私は何年もの間悩まされてきました。そして今この部屋にいる多くの人が同じ状態にいると思います。
もし調査して、それが虚偽のものであるということを理解したら、虚偽は調査に耐えません。虚偽をもはや信じることはできなくなります。それは束の間のものであり、もし信じるエネルギーを与えなかったら、消滅、崩壊します。
この「私」がフィクションかどうかを調査することが必要です。あなたはそれにしがみつきたいかもしれませんが、それはあなた次第です。私はあなたの代わりにやることはできなし、何かを教えることもできません。でも、もし何かが心に響き、何か心を動かされるなら、内在する知性に響いたなら、それが本当かどうかを調べてみてください。
そうやって調べてみるか、たわごとだと片付けるかはあなた次第です。
みなさんは今、見ています。それは事実ですね。今朝目が覚めて目を開けてすぐ、あなたは見ています。昨日も一昨日も、その前そうでした。そしてあなたは、見る働きは変化していないということに気づくはずです。
見る働きは全く変化していませんが、内容は変化します。聞くことに関しても同じです。今朝目が覚めてから、聞く働きがあります。もし深く眠っている時に誰かが声をかけても気が付かなかったかもしれませんが、聞く働きも同じです。聞く働きは変化しませんが、内容は変化します。
見る働きは起こり、聞く働きも起こっています。自分に問いかけてみてください。私の目は「私は見る」と言うだろうかと。私の目は「ボブ、あれを見ろ」「あれはいい」「あれは良くない」とは言いませんが、あなたの目はどうですか? それが本当か調べてください。
あなたは自分の目は何も言わないが、見る働きをつかさどる器官だということがわかるでしょう。それを通して、見る働きが起きています。そして思考が、「私は見ている」と翻訳します。見る働きを翻訳する器官はマインドです。
忘れないでいただきたいのは、単に「私」が誰かを見ているのではないということ。私はボブ、いいやつ。その概念上のイメージが見ていると思っています。私たちはうわべのものにイメージを与えています。その概念上のイメージが見ていると思っています。
聞く働きが今機能しています。私の耳が「ボブ聞いて」「あれは心地よい音」「あれは不快な音」などと言いますか? 私の耳は何も言いません。耳は聞く働きが起きる器官です。見る働き、聞く働きは目と鼻に起こっていますが、思考によって概念化が行われます。そのイメージを思考に関連付けています。
それを調べてみてください。そして、「私は見ている」という思考が本当に見ることができるのか自問してみてください。目を閉じて、あなたの思考が部屋の中を見ることができるか調べてみてください。あなたは思考では何も見ることができないとわかるでしょう。聞くことも同じです。私の耳が「私は聞いている」と言うでしょうか? 「私はボブ」「オーストラリア人」。そういった概念上のイメージを貼り付けています。その概念上のイメージが見ている、聞いていると思っています。
「私は見ている」という思考は見ることはできません。「私は聞いている」という思考が聞くことはできますか? 手で耳をふさいで、思考で聞くことができるか調べてみてください。「私は気づいて(aware)いる」という思考がアウエアネスですか? 私は気づいているという思考がアウエアネスではありません。
「私は選ぶ」という思考が思考を選んでいますか? あなたは自分で思考を選んでいると思っていますが、もし思考を選んでいるのなら、どうしてあなたは不幸でみじめなのですか? あなたは、思考を選ぶことも思考が見ることも聞くことも気づいていることもできないとわかるでしょう。このエゴは全く何もすることができないということに気づくでしょう。
それには実体、独立した性質はありません。それ自体では存在することができないとわかるでしょう。あなたはその体を持ち、そこに思考が現れて、耳、目、肺、心臓などの器官を通して、生命の本質が現れています。死体にどれだけの思考がやって来ますか。死体は話すことも見ることもできません。
それはまるで、たくさんの情報が詰まったコンピューターのようなもの。電源を切ったら、そこから何を引き出せますか? 同じように、この体とマインドの存在から生命の本質を取り除いたらどうなるでしょうか。死体は何もすることができません。
あなたは、「私はこれができる、あれができる」と言うでしょう。例えばこの家は誰かのマインドの中にあったアイデアです。テレビやコンピューターも誰かのアイデアでした。そして人々は「私が作った」と言います。でも、生命の本質無くして、設計図を書くことができたでしょうか?
認めるべきは認めましょう。生命の本質が働いて、パターンとなり、姿形となり、顕現となって現れました。あなたはそれです。偉大なマントラ、マハバキャにあるように、汝それなり、それ以外のものではありません。そして、あなたの言語の中にも本質的に同じことがあります。
あなたは「あれは椅子」「あれは車」「あれは椅子」「あれはビル」「これは私」「これはあなた」と言います。それらはすべて本質的にはそれなのです。私たちはそれにラベルを貼りました。ビル、カーペット、椅子、すべてに言葉のラベルを貼り、うわべの上では区別しました。それは一つの本質がパターンとなりすべてとなって現れたものです。
あなたはそれです。その線にそって、調べてみてください。もしやりたくなければやらなくても構いませんが、ちょっとだけあなたのエネルギーをそそいでみてください。違った言葉を違ったやり方で聞くことによって、ちょっとした理解が起こってくるでしょう。
これは少数の人たちのためのものではありません。人々はあなたに20年30年40年と探したあとで理解できると言うかもしれませんが、どうして20年30年40年も理解できないのでしょうか? 彼らは知的な人々です。彼らは他の多くのことをマインドで解決してきました。どうしてこれを解決できなのでしょうか?
なぜなら、このことはマインドでは解決できないからです。マインドで解決することは不可能です。マインドの性質は振動することです。調べてみるとわかるのですが、どうやってマインドの外に出るかといくら調べても、どの方向へ行っても、それはマインドの中なのです。
マインドから外へ出る方法はありません。あなたがマインドの真実を理解することはありません。どうやったらマインドの外へ出ることができるでしょうか? マインドから出る唯一の方法は full stop(全停止)です。
「もし考えなかったら、何の問題があるといいうのか」。ほんの一瞬思考を休止して、思考なしで何を言うことができるかやってみてください。あなたは何もいうことができないと理解するでしょう。それでも、あなたが消えることはありません。呼吸も止まりません。あなたの心臓も止まりません。
あなたはそこにいて、指の爪も伸び続けます。食べ物も消化され続けます。体のたくさんの機能が思考無しで働き続けています。あなたは、思考以前に存在するということを理解するでしょう。あなたは思考を超えたものです。
そして次の思考がやって来た時、その背後にあるもの、純粋な知性エネルギー、すなわちアウエアネスなしではそれが起こりえないということを理解するでしょう。
私があなたに、「あなたは今、気づいて(aware)いませんか?」 と尋ねるとあなたは、「いいえ、気づいています(aware)」と答えるでしょう? ということは、あなたは気づいているということです。
人々は何年にもわたって、アウエアネスというものを探し続けますが、あなたはいつでももうその状態にいました。それは単に気づけばいいだけのこと。私は今ここにいて、気づいて(aware)いる。それはマインドでは理解することができないものです。
なぜならそれには、前も後ろも高さも深さも始めも終わりないからです。それでもそれはそこにあって、自然に機能しています。でも私たちはそれにアウエアネスというラベル貼り、それを探そうとします。そして瞑想や、なんやかやをして探し、道に迷ってしまいます。マインドでそれを見つけることはできません。
マインドをほんの一瞬休止しても、あなたは消えたりしません。あなたは純粋な知性と思考の違いを理解するでしょう。思考が止まっていても純粋な知性は今ここで呼吸、鼓動、成長をつかさどっています。では、始めてください。
以下質疑応答。(略)
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質疑応答は質問者にマイクが無いので、聞き取れない箇所も多いのですが、この動画は比較的クリアですので、英語が大丈夫な人は聞いてみてください。
なお、一部聞き取り不能な箇所を割愛しています。