2022/08/20

The Spiel ⑱ 2007年 あの部屋の真実

Sailor Bob Adamson, 2007. Truth's in that room・あの部屋の真実

この動画は2021年5月にセイラーボブのサイトに公開されたものですが、作成は2007年です。太字はセイラーボブの発言。聞き取り不能な箇所を一部省略しています。

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ナレーター:週三回、メルボルン郊外の自宅で、セイラーボブは来訪者すべてを歓迎します。このDVDは私の初めての夜のセッションを編集したものです。

まだよくわかりません。私は単に探求しているのか、それとも無という真実、あの部屋の真実に通っているだけなのかわかりません。

それはアドヴァイタ、非二元と呼ばれています。アドヴァイタは、ゾクチェン、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、その他の宗教の伝統の本質と同じものです。というのは、それらはどれも究極的に、非二元、他には何もない一つのものを指し示しているからです。他には何もないという言葉を付け加えるのは、「一つ」でさえ、他に何かがあるのではないかと暗示させるからです。

(チャイムが鳴ってボブが招き入れる)
ナレーター:少し遅れてやって来る人もいますが、ボブが気にする様子はありません。

ここでは、あなたはもともとあなたが探しているものなのだということから始めます。私はあなたに何も教えません。何かを伝えることもありません。私はどんな体にも話かけていません。私はどんなマインドにも話しかけていません。言い方を変えると、肉体として現れているもの、心身という有機体に話しかけているのではないのです。私はあの「私は在る」に話しかけていて、それが私です。その「私は在る」は思考の私は在るのことではなく、存在の感覚のことです。存在の意識、すなわち、自分が存在するという認識のことです。

偉大な知恵、言葉は「我はそれなり、汝それなり、これがそれだ、あれがそれだ」。あらゆるものの根底にあるものが、彼らが「それ」と呼ぶものです。それと彼らが指摘、話すものは、それからやってきて、それへ帰ります。それゆえ、それには分離がありません。そのため私は、「あなたはもともとあなたが探しているものなのです」と言うのです。

私たちはみな、私は在ると知っています。それは思考の「私は在る」のことではありません。それは実在のことです。「私は在る」は、存在の感覚、すなわち知性としての意識が翻訳されたものを表しています。自分が存在しているという認識が思考の私はあるとして翻訳されたものです。

その翻訳、思考が起こっている時でさえ、その認識はそこにあります。もしある思考が終わると、また別の思考がやってきますが、その根底には依然として、その認識があります。詳しく調べてみて、それが決して変化しないことを理解してください。それはいつもそこにあります。

私たちはそれを実在と呼びます。でも、それもまた概念です。実在が存在するためには、非実在が必要です。非実在なくして実在はありません。また、実在なくして非実在はありません。その二つの言葉がなかったら、あなたはどこにいますか?それは見ることと同じです。見るという思考が起きる時、私はこれを見る、私はあれを見ると言います。

でも、私は見るという思考なくして、偽の見る人、主体が存在しえるでしょうか? 私が椅子、テーブル、その他のものを見るなど、私たちが見るという概念が対象物を作ります。対象物なくして主体はありません。また、主体なくして対象物はありません。それは互いに打ち消しあい、根底となる見ることだけが残ります。

そしてあなたは、見ることなくしては、見る人、主体も、見られるものもありえないということを理解します。つまり、見ることが機能として今この瞬間に起こっていることなのです。ここに、誰か見ることが起こっていない人がいますか? ここに、聞くことが起こっていない人がいますか? 存在意識、すなわち意識が存在しない人がいますか?
つまり、それは何かを達成したり、手に入れたりすべきものではないのです。それなしでは、ここでは何も起こっていないということは明らかなことです。

星々がどうのように軌道の上を動いていくのかを見てください。どうやって地球は太陽のまわりをめぐり、潮が満ちては引き、季節がやってきては去っていくのか、どうやって種が芽吹いて木となり、草や葉となり、繭がかえって幼虫となり虫となり、さなぎが蛾や蝶となり、すばらしい色をまとうのか、どうやって白と黄色の卵から鮮やかな孔雀となるのか。どうやって精子と卵子が一緒になってこの人間というパターン、考える能力、発明したり、芸術や科学技術を創造したりする能力を持つものをつくるのか見てください。

それが意味しているのは、この顕現としての森羅万象には知性が内在しているということです。内在する認識、その知性について私は話ているのです。その知性はあなたが手に入れることができるもののことではありません。観念化することができることでもありません。見ることができるものでもありません。その自然な状態が本当のあなたであり、その自然な働きは自然の中の森羅万象と同じもので、自らを認識しています。自らパターンとなり、自ら機能します。

それゆえ、あなたはもともとあなたが探しているものなのですと言うのです。というのも、あなたがそうでなかったことなどなかったからです。一つの知性エネルギー、他には何もない一つのものが、思考、フィーリング、感情など、この顕現のすべてとなって現れています。森羅万象はその表れです。私たちはそれを知っていて、それを現象世界と呼びます。世界が現象でできています。辞書で「現象」という言葉を調べると、「そのように現れているもの」です。

現象の反対は非現象、非顕現です。顕現は非顕現がなければ存在しません。非顕現の現象の定義は、実際に存在するものであり、それが実在です。それには姿や形がありません。でもあなたはそれから逃れることも、それを否定することもできません。思考や概念、イメージでそれを掴むこともできません。言葉やラベルなしでは、それはあるがままなのです。それは今までも、これからもそうです。

実在としては、何も起こっていません。何も生まれ出てはいません。そのように見えているだけです。それが意味することは、自己という束縛から自由だということです。それは存在しておらず、あなたはいつも自由だということです。でもそれは理解されず、私はこの自己である、私は分離した存在であると信じられてきました。私とは自分のことであり、自分は良くない、制限されている、自己評価が低い、不幸だ、偉大だ、すばらしい、世界で一番など、どんな観念やイメージも「私」という思考に付け足しました。

そしてその心理的な絵やイメージを自分だと信じているのです。それを私たちは自己の中心、エゴと呼びます。心理的な絵、イメージには実体も独立した性質はありません。詳しく調査してみると、そのイメージは絶えず変化しています。あなたが5年前に自分に対して抱いていたイメージと同じイメージを今抱いていますか? 一週間前は? 一か月前は? あなたが子供だった時は? 

あなたは人々の言ったことを身に着け、そして身に着けたことを手放し、自身のイメージは絶えず変化しています。そこには何か確かで実体のあるものはありません。それには間違った信念に形作られた観念以外、独立した実体のあるものはありません。それを理解すると、この思考、すなわち分離した存在という間違った信念は存続することができません。

これが虚偽だとわかれば、それは存続することができません。信念なくして、どうしてそれを何かと結びつけることができるでしょうか? それが私たちに推論する力ついて以来、ずっとやってきたことです。幼い子供に推理する力がついて、みんながジョニーと呼ぶ存在は「私」だ。波動としての「私」という思考は常にその反対へと動きます。「私」の反対は、「私ではない」です。思考としての「私」がやってくる以前は、あるがままに見ていたものが、推理する能力によって、これは私ではない、これは自分ではない、となり、「私」ではない、「自分」ではないものとなります。

その「私」や「私ではない」という思考とともに、分離の感覚が生まれます。それはそれ以前にはなかったものです。分離の感覚は不安、傷つきやすさとなります。自身が何かから分離、孤立していると感じると、それが何かわからず、傷つきやすさ、不安となり、それをどうしてよいかわかりません。そしてあらゆることが、自身が自分に対して身に着けたイメージに関連付けされることになります。

「私」はこれが好き、嫌い、恐ろしい、腹が立つ、怒りを覚える、みじめだ、罪悪寒を感じる、よくない、あらゆることがその参照点に関連付けられ、それによって、良い悪い、心地よい、苦しい、幸せ、苦しい、などとなります。それはすべて過去の経験にもとづいています。それは死んだイメージであり、すでに死んだ何かに関連しています。死んだ何かが、どうやって残された生を知ることができるでしょうか? そうするためには、死んだものによって実際生きている生を、思い出し、回顧することとなります。どうして偽の参照点が有効な参照点となりえるでしょうか? どうして死んで無効な参照点で有効な理解をえることがでしょうか?

それはあたかも川からバケツ一杯の水を汲むようなものです。汲んだ水はよどみ、死んだものとなります。それが、私たちが繰り返しやっていることです。絶えず、死んだイメージを参照しているのです。私が何かを手に入れる、何かやる、何かになると考える時はいつも、自分はもともと理解していない、知らない、完全ではないという考えにもとづいています。その、完全ではないという信念ゆえに完全さを永久に追い求めることとなります。

仏陀やその他の偉大な伝統のメッセージは、あなたはこの心理的な苦悩から自由になることができるというものです。それはそうあるべきではないのです。いにしえの人たちは、苦しみからの平和、理解について語っています。そして人々はマインドの平和について語ります。心が平和であったことも、こらから平和になることもないということを誰も理解しません。なぜなら、マインドの本質は振動することだからです。それはそのように働きます。
マインドが働かない時が平和なのです。

そこに観念が無い時、マインドはありません。観念がなかったら、あなたは何を言うことができるでしょうか? 平安の他に何と言うことができるでしょうか? 観念がなかったら、平安だと言うことさえできません。それはただ、あるがままです。それゆえ私は、平安はあらゆる理解を超えると言うのです。観念やマインドでは理解できないのです。それが自然な状態です。それがまさしく今あなたがいる場所なのです。

あなたがここにいる時、それはいつも今です。人々は、外に行った時はどうかと言うのですが、あなた外に行けば、そこが、ここ、そして今になるのです。詳しく調べてみてください。どこにいても、いつどんな場所にいても、今ここ以外ではありませんでした。調べてみてください。それがなすべきことのすべてです。今、あなたがたの何人かは、調べて、それをちゃんと理解しました。ここでは何も隠し事はありません。そしておそらく人々はこのビデオを見たいと思うはずです。みなさん全員によい知らせがあります。質問や自分の意見を言うことをためらわないで。今まで長い間探求してきたのですから。(笑い)
ジム、何か言いたいことはありますか?

ジム:私には(あなたの話は)十分に役立ったと思います、ボブ。あなたの話を最初に聞いたときは驚きました。そして、とても不快でした。というのも、思い出せるかぎり昔から私が頼ってきたものが、私の問題の原因だということが驚きだったからです。この存在を信じていることに働きかける必要があると知って不快になったのです。(一部省略)

ボブ:それはすべての人に共鳴を起こします。というのも、もともと誰もがそのことを知っているからです。もともとそれを知っているのですが、観念化という雲に覆われていて見えなくなっているのです。でも、あらゆる人がそれなのです。それは限られた人たちのためだけの特別なものではありません。それは認識(知る働き)そのものであり、それを否定することはできません。それは、そのもの自らを再認識するということです。

男性A:それで、その空間、時間のない意識と私たちが描写するものは、実際にはあなたは何も言うことができません。というのも、それには特質も質量もないからです。そのためあなたは、言葉や心理的な概念として実際にそれを言うことができません。それは何なのですか?

それは心理的な概念でも理解することはできません。推論する力が身に備わって以来、私たちはそれを概念で理解しようとしました。でも、ニサルガダッタはビデオの中で言っています。あなたが概念で理解しようとすると失敗する。あなたは必ず失敗する。というのも、それを観念化することができないからだ、と。それを一言で言うなら、非観念の意識です。
キャサリンはどうですか?

キャサリン:その点に関しては、私が調査してみると、そこには意識をしている何かがあるのですが、それにラベルを貼ることはできません。というのも、私が調査するやいなや、それはそれではないからです。聞くこと、見ることは知る働き(認識)と同様に、そうしたことに対して私が何かを言うことができないからです。それはただそこにある何かです。生と呼ばれるもの、あるいはそれ以上のもの。それはマインドが落ちたようなもの。マインドではないもの。それはミステリーのようです。

そうした見方も悪いことではありません。あなたは、いにしえの人たちがやった、「これでもない、あれでもない」というのを自然にやっているようなものです。あとには何も残らず、無だけです。
マンガスはどうですか?

マンガス:私はずっと、世界の中で分離した存在だという考えにそそのかされてきました。私が経験してきたのは鬱状態です。もう長い間そうです。まだその状態かどうかはわかりません。でも、ここで実際に私が感じるのは、「私がどこに存在するのか調べる」という基本的な問いを十分に調べていないような気がします。私は理論も知的なアプローチの仕方も完全に理解しています。分離した「私」という思いを強めてしまうと、苦悩や痛みが大きくなるということもわかっています。でも、その分離した自己という幻想をちゃんと見抜いてその痛みを和らげる能力が私にないように思うのです。

あなたは理解しています。そこには「私」はいなということを見抜きましたね? 

マンガス:ええ、そう思います。

では、曇りの日に外へ出てみてください。曇りの日には太陽が雲で覆われていて、一日中太陽を見ることができません。でも、その日、太陽が空から無くなった瞬間があると思いますか?

マンガス:いいえ。

消えません。それと同じことです。見た目の上では思考という雲に覆われています。あたかも思考という雲が自ら輝く意識を覆っているのです。でもあなたは根底にある本質を知っています。時々は雲がそれを覆い隠しているように見えます。時々は光がもれてきます。それによって、あなたはいつもそれであり、これからもそれであると知るのです。どんなに雲が厚く見えていたしても。そのため、真実を知れば間違った思考の束縛から解放されると言われているのです。
私は青い海や蜃気楼の中の水、太陽と雲などの例えを使ってそれを指し示そうとしています。

アンガス:でも、私は本当に真実を知っているだろうかと思うのです。というも、それは例えば、何かが、オーケー、このアウエアネスの中で住んで、どこに喜びがあるのだ、と言うのです。というのも、人生の喜びをえることをあきらめたくないのです。アウエアネスの中に住んで、喜びたいのです。ちょっと変に聞こえるかもしれませんが、お金が欲しい、まだ手に入れてない、といったようなことです。

自分に問うてみてください。「そのことを考えなかったら、今何が問題なのか?」と。

マンガス:ええ、やりましたよ。最初の頃に。

(思考を)休止しましたか?

マンガス:ええ。

思考が休止している時、「それは喜びではない」と言うことができましたか?

マンガス:いいえ。

「それは喜びだ」と言うことはできましたか?

マンガス:いいえ。

それが至福です。

マンガス:それでは十分ではありません。(笑い)

それとともに十分長く留まってください。そうすれば、精妙さとともに、もっとそれに気づくようになります。

マンガス:それが私にとっては重要です。

そうです。ほんのちょっとだけ垣間見て、これではない、これでは十分ではないと言って、また古い習慣に戻り、マインドの中に答えを見つけようとします。その感覚がやってきたら目を閉じて、絶えずそこにあるもの、精妙なその本質とともにいると、幸福な感じが、どこにいてもあります。それには原因がありません。原因のない喜びです。

それは悲しみの反対ではありません。喜びと悲しみ、愛と憎しみ、心地よいと苦しい、といったことはどれも心理的な観念化です。それには浮き沈みの大きな起伏があります。私たちは精妙な原因のない愛、繊細な喜び、自然な慈しみが見えません。そうしたものすべてがそこにあります。勇気、美、愛。そして私たちはそれにラベルを貼ります。でもラベルがなければ、それは単なる感覚です。その感覚を掴んでください。それが本質、自然な状態です。見ることです。何かをしようとすることが罠なのです。

ジム:何か技法をもちいることの問題は、そこには依然として「私」がいるという信念が背景にあって、思考を分離しようと思考を見て、問題が解決しても、また同じ問題が繰り返し起こってくるということです。でも、それはもっと簡単なことです。私は、深いだとか、良いとかいう思考がやってきた時、「そのことを考えなかったら、今何が問題なのか?」と言うことです。そうすれば、他の人が自然に身につけることをえられます。自然に身に着けることができない人もいますが、それは、ゆるい上着を自分のアイデンティティとして身につけているようなものです。

女性:私たちが見ていないものがとてもはっきりわかりました。私たちが自分だと思っているものより、私たちが見ていないもののほうが実在であるということです。それは誰でも手に入れられるものです。それは純粋な可能性であり、確かな考えとして存在するものです。

私はそれを無努力の生活と呼びます。多くのことがこれによってなされます。時々それが不思議に思われるほどです。

女性:ええ、奇跡的です。

盤珪は、不生の中ではあらゆるとことが解決していると言いました。

女性:ええ。疑いありません。

どうして不生を思考と交換するのですか?

キャサリン:それが私がここへ通うのが好きな理由です。ボブは、明白なことや、それほど明白ではないことを指摘してくれますが、ボブが指摘するとそれは明白なことになるのです。あるのは今だけで、みんなが言うように、あらゆることが起こっていても、それはオーケーです。というのも、物事が起こっていても、そのことについて考えなかったら、何も問題ではないからです。それはいつもそこにあり、それはいつも今であり、今までも、そしてこれからもそうです。

何年も前、海に出ている時、何度も赤道を超えました。でも、そこに通過するような門があったことは一度もありませんでした。(笑い)それで思いついたのですが、宇宙船に乗って下を見ても国境はないでしょう。私たちは、あまりにも多くのありもしない信念や物事を貼り付けています。それをそこに探してもありはしないのです。もしそこに行為者がいるという信念があると、バン! また評価するための参照点が起こります。そこから、良い悪い、心地良い不快、幸せ不幸と判断します。でも、もしその参照点がなかったら、どうやって判断するのでしょうか? それは互いに無効なものとなります。
あなたは、ほんの少し前を生きることができますか?

キャサリン:いいえ。

できません。思い出すことはできます。今この瞬間にできるのは、それを思い出すことだけです。ほんの少し未来を生きることはできますか?

キャサリン:いいえ。

それを想像することはできますが、未来を生きることはできません。それが起こっているのはいつですか? 今です。今から出ることはできますか? できません。つまり、そこから逃れることはできないのです。もしそうしようとしても決してできません。それをやろうとしても、それが起きるのは今この瞬間です。それは、見ることを試みることではなく、あなたが何をしていようと、常にそれなのです。

キャサリン:見ることは自然の知性であるという言い方はできますか? 

信心銘ではこう言っています。空(くう)がここにある。空がそこにある。それでも無限の宇宙があなたの目の前に広がっている。それは、宇宙が消えると言っているのではありません。それは空ではあるが、見た目の上ではそこにあるように見える。それは見られる客体としての場面ではありません。というのも、そこには見る人がいないからです。そこには境界がなく、制限のないものです。

女性:そこには大きな喜びの感覚があります。ここやあそこに。何が起ころうと、何であろうと、喜びを感じるのです。

マンガス:これはむしろゲームのようなものです。このゲームをプレイして、ここ、この場所のようなところへたどり着く。もしそこで、真剣に座って耳を傾けると、ゲームをプレイするのを止めます。

もしあなたが真剣に座って耳を傾けると、ゲームをプレイする「私」はいないということを理解します。今、「私」がいないとすると、それはいついたのですか? 今存在しないなら、それは一度も存在しなかったということを、あなたは理解します。そのゲームはあなたという存在によってプレイされたのではなく、本質があらゆる多様性となって現れたものであり、その本質は決して変化しなかったのです。それはうわべ上でそう見えているにすぎません。

キャサリン:それでもゲームは続くのですが、もっと楽しくなります。

男性:そのとおり。

キャサリン:それがニルバーナ(涅槃)です。

何も為すべきことがないと知って、あなたの心配事は何ですか?

マンガス:何もありません。

あなたはきっとまた尋ねるでしょう。

マンガス:ええ、処方箋を。

いくつの理解がありますか?

マンガス:二つ?(一同笑い)

一同:ありがとう。