2022/08/06

仏教、禅の根底にあるもの

仏教と禅について長々と書いてきましたが、盤珪について書いたことで、目標としていた地点までたどり着くことができました。「禅・Buddhism」はここで終わりにしたいと思います。今後、仏教についてまとまって書くことはないと思いますが、単発的に書くことがあれば、「仏教その他」に書く予定です。

仏教の根本思想は諸法無我です。それは、「我」、すなわち「私」には実体がないということであり、まぎれもない非二元の思想です。特に、大乗仏教の唯識、唐の時代の禅の根底には明らかに非二元の思想があります。また、日本に伝わった仏教の根底にも非二元の思想が流れています。

言葉は違えど、彼らはセイラーボブと同じことを言っています。一言で言ってしまえば、「私が私だと思っているものは実在しない」「世界は私の意識の中にある」ということです。さらに付け加えるなら、いわゆる「悟り」などというものはないということ。もともとそうであるということ。

仏教を学べば学ぶほど、それは非二元の思想であるとわかりました。セイラーボブが教えていることは、彼も言っているとおり、仏教の伝統の中にもあることです。非二元を学んだあとで仏教を学ぶとそれがよくわかります。

仏教の中に非二元の思想があるというのは、Wikipediaでも書かれていることですし、セイラーボブやその関係者も語っているところです。ちょっと調べものをしていて、アマゾンでグレッグ・グッドのダイレクトパスの著者紹介を読んでいたら、こうありました。

著者について

グレッグ・グッド Greg Goode
南カリフォルニアで育つ。カリフォルニア州立大学で心理学、ドイツのケルン大学で哲学を学び、ロチェスター大学で哲学の修士号と博士号を取得。アメリカ哲学実践者協会(APPA)認定の哲学カウンセラー。西洋哲学、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、大乗仏教など広い知見をベースにした自己探究を、著書やコンサルティングを通じて指導している。

彼も大乗仏教をベースにしているんですね。

また、ジョーン・トリフソンも、推薦本のコーナーで、たくさんの仏教関係の本を推薦しています。ということは、多くの非二元の語り部たちも大乗仏教や禅を研究しているということです。いまさらながらですが、書き足しておきます。

また、仏教のあれこれを読んでわかったのですが、セイラーボブの話の中には、仏教をネタ元にしているものがたくさんあります。盤珪や唐代の禅僧の話を読むと、ネタもとだと思われる話がたくさん出てきます。おそらくボブは、鈴木大拙の英語本を読んでいるのではないでしょうか。

ちなみに、カテゴリーを「禅・Buddhism」として、なぜ「禅・仏教」としなかったかというと、仏教関係の書籍は、漢文読み下しで書かれたものや、古い漢字で書かれたものが多く、読めないものが多い。苦労して読んでも、言っていることがよくわかりませんでした。日本語で書かれたものは中国経由の漢字に影響を受けて書かれているので、理解しにくいからだと思います。

そこで、では同じことを英語で書かれたものはどう言っているかと調べると、それがとってもわかりやすい。そこで、英文サイトや文献から理解することにして、カテゴリーを仏教とするよりBuddhismとした方がよいだろうと思ってそうしました。

当初は英文で書かれたものをたくさん読もうと思ったのですが、思ったほどはかどらず、結局は日本語の現代語で書かれたものに頼った場合の方が多かったのですが、そのままBuddhismにしています。

仏教や禅関係の原典は、漢文もしくは漢文読み下し文が読めないと読めない。そのため、学者が書いた現代語訳を読むしかない。それでも、多くの場合、非常用漢字の古い文体で書かれたものが多くて、簡単には読めない。
鈴木大拙や柳田聖山の本でも、おいそれとは読めない。小川隆先生など、現役の先生の本はなんとかなるが、少し前の時代の学者の本はそう簡単には読めない。

そういう点で、円覚寺の横田南嶺老師のYouTube(「盤珪禅師語録」)は、とてもありがたかかったです。もう何度も繰り返し聞いています。
横田南嶺老師がいなかったら、「不生の仏心」ということの本当の意味がいまだにわかってなかったと思います。横田南嶺老師のYouTubeは、私にとっての貴重な情報源にもなっています。

また、佐々木閑先生のYouTubeも引き続き聞いています。佐々木先生は、仏教をわかりやすく解説されています。私の仏教、禅に対する理解は、この二人のYouTubeによるところが大きいです。もし、コロナがなくて、YouTubeでの講義や法話がなかったなら、仏教も盤珪もしっかりと理解することはできなかったと思います。

佐々木閑先生や横田南嶺老師の話を聞いていると、随所で、「自我という実体はどこにもない」という話が出てきます。そして、悟りとはそのことに気づくことであるということも出てきます。

釈尊が教えていたもともとの仏教は、現代の日本の仏教のように葬儀をしたり戒名をつけたりというものではなく、修行をして悟りを開くためのものでした。この場合の「悟り」は理解という意味に解釈してください。ちなみに、戒名を付けるようになったのは日本の仏教だけだそうです。

すべての仏教の教えの中に非二元があるというつもりはありませんし、セイラーボブの言っていることと全部同じだというつもりもありません。でも、盤珪や禅の話を聞けば聞くほど、仏教の根底にあるのは「一つのもの」「非二元」だと思えてならないのです。

またいつか、禅や仏教について書くと思いますが、禅と仏教については、ひとまずこれで終了とします。仏教や禅の話はなんだかよくわからなかったという方は、「盤珪禅師語録」を何回も聞くことをおすすめします。また、佐々木閑先生のYouTube(架空の自我意識世界には実体があるのか?)も参考になると思います。

仏教が何を目指しているかというと、自我の消滅です。自己と他人の区別はないということです。自我があると思っている間、人は欲望を追い求めます。そのため、欲望を追いもとめないことによって自我を消していくのが仏教の修行です。(参考:横田老師のYouTube人は自己を変えることができるのか

仏教といっても範囲が広く、説き方も様々です。私が学んだのは、そのほんの一部であり、かじった程度のものです。
佐々木閑先生横田南嶺老師のサイトでまた非二元関連の良い話に出会った時は、随時このブログで紹介させていただきます。