2022/08/13

ドキュメンタリー「エンライトメントなどというようなものはない」

ドキュメンタリー「エンライトメントなどというようなものはない」
No such thing as Enlightenment - DOCUMENTARY 

このドキュメンタリーは2021年12月12日にボブのサイトに公開されたものですが、作成されたのは2016年です。

この動画はボブの関係者によって作成されたものですが、わざわざタイトルで「エンライトメントなどというようなものはない」と言っていて、とても貴重なものだと思います。
ボブが「エンライトメントはない」とはっきり言っている動画はそれほど多くありません。このブログの中では、「セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑱」の「1998年アムステルダムでのTVインタビュー」がありますが、ミーティングの中で「エンライトメントはない」と語ることはそれほど多くありません。「エンライトメントはない」ということは、参加者の共通認識になっているからです。なお、ここでいうエンライトメントとは、悟り、覚醒、目覚め、自己実現のことです。

このドキュメンタリーは、ボブやその他の人の発言を断片的に編集したもので、その大部分は対話形式のものではなく、それぞれの発言は連続したものではありません。以下、太字はボブの言葉です。

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私はあなたに何も教えることはできません。何かを伝えることもできません。私ができるのは、方向を指し示し、指摘された場所をあなたが自分で調べるように求めることだけです。

誰かに向かって話しているわけではありません。私が話しているのは非二元です。誰かの体に向かって話しかけているのでもなければ、マインドに向かって話しかけているのでもありません。あなたという体とマインドの存在に話しかけているのではありません。

私は「私は在る」に話しかけていて、それが私です。その「私は在る」に話しかけているのは私(私は在る)です。ただそれだけ、他には何もありません。

ナレーター:ボブ・アダムソンは、1928年にオーストラリア メルボルン郊外の農場で生まれた。16歳の時、初めて酒を飲み、以来、すっかりアルコール中毒となった。17歳で海軍に入ったが、飲酒問題のせいで二年半後に解雇となる。参加し始めたAA(断酒会)の会合で、セイラー・ボブという名前で呼ばれる。破滅的な出来事によって断酒を決意し、二度目のチャンスが与えられた。

全くの無神論者だったので、探求者になるとか、いわゆるスピリチュアルをするという考えはありませんでした。でも、生が私を行くべき所へ連れていきました。
おそらく、高次の力か神というものがあるのだと思いました。AAで聞いた高次の力か神というのもがあるかもしれないと。当時の私は鎧を着て心を閉ざしていましたが、その鎧にそれが小さな亀裂を生んだのかもしれません。絶望、慢性アルコール中毒、心理的な問題でうんざりしていました。

ナレーター:ボブは様々な道を探求しました。ペンテコステ派、メソジスト主義、クリスチャンサイエンスなどです。洗礼を受け、ミサに通いしました。そして、1962年、マヘッシ・マハリシ・ヨギに会ってから、マントラ瞑想を始めます。
その8年後、メルボルンのババ・ムクタナンダの信奉者グループは、ボブが他の人に対してシャクティパットによってイニシエーションする許可を与えました。多くの霊的体験を経験したにもかかわらず、ボブは満足しませんでした。

特定の精神状態に入るためには、依然として努力が必要で、誰が彼に二度目のチャンスをくれたのかは、わからないままでした。1976年、ガネーシャプリにあるババ・ムクタナンダのアシュラムにいる時、ニサルガダッタ・マハラジの「I AM THAT」という本と出会います。ニサルガダッタ・マハラジは彼の最後の教師となります。

最も重要なことは、あらゆる探求が落ちて行ったということです。私はムクタナンダのアシュラムでマントラや詠唱や瞑想などを繰り返し、とても厳格な修行をしていました。そこに滞在して、とても熱心に忠実やっていましたが、ニサルガダッタの言ったことを理解したことで、それが落ちてしまいました。それは何か大それた目覚めといったものではなく、夜明けのようなもので、例えば太陽が地平線から昇るようなものでした。あ~!といった感じです。私は何年も閉じ込められていました。ニサルガダッタが言ったように、私は体でもマインドでもない。だとすると、私はマハーヴァキヤの言うあれに違いない。
私は彼の言ったことを理解したのです。

ナレーター:ニサルガダッタ・マハラジは20世紀のインドで最も尊敬された聖人の一人です。彼の講話録「I AM THAT」が1973年に発売されたことによって、世界中に知られるようになり、その本は多くの人によって現代におけるスピリチュアルの古典と評価されています。ニサルガダッタ・マハラジは師であるシッダラメシュヴァール・マハラジの、「私は在る」に感覚を向けなさいという指示に忠実に従い、ごく短い年数で自己を理解しました。

ニサルガダッタはビーディ(インド産紙巻たばこ)を売りながら、ムンバイの粗末な家でサットサンを行いました。マインドは自身の本質を理解し見抜かなくてはいけないと教えました。ニサルガダッタは、アドヴァイタ、非二元の唱道者ですが、愛、神、グル、献身の道も強調します。彼のメッセージはシンプルです。あなたは、もともとあなたが探しているものです。探すことで、マインドを乱さないように。汝それなり。

過去数十年の間、ボブ・アダムソンは彼の手にした理解を、聞きにやって来る人たちすべてに分け与えています。週三回のミーティングをオーストラリア、メルボルンの自宅で開き、世界中から人々をひきつけ、現代のアドヴァイタに与えた影響は広く知られるところです。

ここで絶対的に正しいことは、ここには実体のある独立した存在はいないということです。自分でそれを調べてみてください。この存在意識なしで自分が存在できるのかを。仏陀はそれに別のラベルを貼りました。非観念の永遠に新鮮な存在意識、ただそれだけ、他には何もない、あるのはそれだけ。キリスト教やその他の伝統ではそれを表現するために三つの側面を用います。偏在、全能、全知。偏在はすべての存在。全能はすべての力、全知はすべての知性。

それは三つの別々のものではなく、一つのものの三つの側面です。水、蒸気、氷がH₂Oの三つの側面であるようなものです。それ以外には何もありません。マハーヴァキヤの大格言の言葉では、「我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなり」と言いますが、誰か、この「それ」が何なのかわかる人はいますか? それを描写することができますか? 姿形は? 前、後ろ、上下、深さはありますか? ありません。この存在意識があなたであり、それにラベルを貼ることはできても、それは存在意識です。

ビル:ボブに会ったのは7年前です。ほとんど週三回来ていました。それ以前は、深く探求していました。出口、見返りを必死に探していました。瞑想、禁欲生活、食事制限などをやり、ある日、見返りはどこにあるんだと思いました。たくさん探求したのに。そして、エンライトメントをGoogleで検索しました。すると、先頭から二、三番目までにボブが出てきたのです。彼に会って、話すことができるだろうと思いました。彼に会って話をしたとたん、彼は私の知らない何かを知っていると思いました。とても強い共鳴が起こったのです。それ以来ずっと通っています。ボブは私を探求から根本的に自由にしてくれました。もう探してはいません。探求は終わったのです。それは一度に起こったのではなく、時間をかけて起こったのです。今はもう全く探求はしていません。

もしあなたが探求者なら、探求し続けるでしょうけど、手に入れることはできません。あなたは探求者ではなく、あなたが探している存在そのものなどだということがわかってきます。それは自然に起こってくることです。

女性A:セイラー・ボブは私の人生に対する見方を完全に変えてしまいました。2007年からセイラー・ボブのところへ通うようになりました。司法試験の最後の年で、確かな神経症を抱えていました。彼は私に、ちょっとの間思考を休止するようにと言ってのですが、私のマインドは忙しく動きまわっていて、休止することができませんでした。それで、できるだけ週三回通うようになって、彼のメッセージにたっぷりと浸かりました。彼は、このメッセージは一度聞けば十分だと言いましたが、ここから帰ったあとで世間に戻ると、それが吸い取られてしまうような感じになったものです。するとボブは、もし私の中でそれが成長すると、最後には、今度はあなたが他の人を成長させることができるようになると言いました。実際、試験は苦しむことなく受けることができました。まったくの驚きでした。今は何か特別な信念を持ってはいません。世間の中で今この瞬間に機能しているにすぎません。

ギルバート:マインドの視点から見ると、それは私の人生を完全に変えてしまいました。でも、実際には何も起こっていません。自身は分離した存在であるという信念から、うわべの上で解放されたということです。人生は以前と同じように流れていきます。大切なのはメッセージであり、メッセンジャーではありません。メッセージの中にある知性が大切なのです。それがあなたの信念を切り裂いていきます。ボブがニサルガダッタから指摘され、ニサルガダッタもまた誰かから指摘されたことです。ずっと遡っても、それは同じ知性からのものであり、時間の中にあるものではありません。時間の中にはない意識です。人という視点から見ると、それは信念を打ち崩すのです。あらゆる信念を切り裂くのです。

それがすべて一つの本質であるということがわかるでしょう。それを私は知性エネルギーと呼びます。私はここでは神という言葉を使いません。というのも、神という言葉で混乱してしまうからです。私たちはそれぞれ異なる伝統からやって来ています。無神論者もいれば、不可知論者もいます。クリスチャンもいれば、モスリム、ヒンズー教徒、仏教徒、ユダヤ教徒もいます。もし私が神について話始めると、私が伝統の中で教えられてきたことや理解した信念と関連付けてしまい、本当の私ついての正しい説明ができなくなるからです。

人々は自身の伝統に基づいて、何が正しくて何が間違っているかを判断して混乱することになります。そうやって、分割できないものを分割することになります。私が指摘していることは、あなたは自分が信じているようなものかどうかを自分で調べてみなさいということです。人(human being)。あなたは人ではありません。あなたは神を至高の存在(supreme being)と呼び、自身のことを人(human being)と呼びますが、至高(supreme)、人(human)というラベルを取ってください。そしてこの部屋の beingness(存在そのもの)を分割してみてください。そんなことはできないとわかるでしょう。この部屋を見渡すと、あれは椅子(That' being a chair.)、あれがビル(That’s being Bill.)、あれが私(That’s being me.) あれがあなた(That's being you.)。すべてはbeingness(存在)であり、それにラベル、言葉を貼りつけて区別しているのです。

この、私、自分とは何のことを言っているのでしょうか? それは自分に対する観念的なイメージなのではありませんか? 私はボブ、いいやつ、あんまりよくない、幸せだ、憂鬱だ。純粋な知性エネルギーにたくさんのラベルを貼りつけています。物を存在させるために言葉を使っています。言葉によって、うわべ上での実体と独立した性格を与えます。それがあらゆる心理的な苦悩の原因です。それは言葉です。

カット:四か月間で大きな進展がありました。人間関係のもつれから、とても苦しい時期でした。表面的には、自己という感覚が強まる必要がありました。そのことによって、ボブは私に、私が「自己」と呼ぶものが、観念のイメージであるということを教えてくれたのです。
そしてそれは私の人生の中で最も変容をもたらした出来事でした。何も以前と同じではありませんでした。もう自身を過去と関連づけることができないと言った方がいいのかもしれません。うわべ上での進歩を認めることができないということです。というのも進歩などないからです。
未来が停止したのはとても興味深いことです。以前の私は将来に対してたくさんの選択肢を考えていました。それが落ちてしまい、今だけが浮き上がってきたのです。それが生活の中でとても強烈になりました。そして存在することの喜びが全面に出てきたのです。
そして物事は奇跡のようにあるべき場所におさまり始めました。

何も良いとか悪いとかはありませんが、思考がそう判断しているだけです。ニサルガダッタは、「あなた自身の想像以外、何もあなたを悩ますことはない」と言いました。想像(imagination)とはなんですか? image in(イメージに入ること)です。私たちは自身のマインドの中に観念のイメージを作り、それを信じています。

私たちはこの波動としてマインドを調べ、それがどのように働くかを見ます。それがどれほど機械的に働くかを見ます。それはとても役に立つ道具ですが、また自己破壊的でもあります。もしあなたが詳しく調べると、それはいつも互いに対をなす反対の極へと振動しています。調べてみてください。あなたが過去を思う時、それは記憶であり、未来は期待の想像です。良いと悪い、心地良いとつらい、幸せと不幸、愛と憎しみ、ポジティブとネガティブ。自身のマインドを調べて、それ以外のやり方で動くかを見てください。

私たちは観念のイメージを抱き、それがエゴ(自我)となりました。聖典の中では、エゴを取り除きなさいと言われていますが、それが問題となります。それを取り除こうと、カーペットの下に入れて飛び乗ってみたり、殺してしまおうと、可能なことをやってみたりするのです。でもここでは、もしあなたが詳しく調査すれば、それは存在しさいしないとわかると指摘します。私たちはフィクションに縛られています。私たちはこの観念のフィクションに縛られているのです。

そのエゴがあらゆる心理的な苦悩の原因です。それが、いわゆるカルマ、原因と結果と呼ばれるものです。私だけが心配をします。私だけが恐れを抱きます。私だけが不幸となったり憂鬱になったりことができます。私たちが、私という思考に付け加えた観念だけが。

思考をちょっと休止して。もしそのことを考えなかったら、今何が問題だろうかと自身に問うてみてください。しっかり調べて、思考なしでこのことに何を言うことができるか見てください。
思考をちょっと休止してみると、あなたは何も言うことができないとわかりますが、それでも見る働きは止まりません。聞く働きも止まりません。呼吸も鼓動も止まりません。思考が止まっていても、すべての機能は働き続け、自身は消えないとわかります。

あなたはバラバラにはならず、思考なしでも生は依然としてそこにあり、マインドは一瞬休止しています。ということは、あなたはマインドを超えたものです。あなたは思考以前に存在しています。もしあなたが思考なら、あなたが思考を止めると、それであなたは終わりになるはずですが、そうではありません。

ビル:ボブは講話の最初にいつもこう言います。「誰かがあなたに教えることができることは何もありません。誰かがあなたに見せることができるものはありません」。それが意味するのは、自分自身で調査しなくてはいけないということです。それが不可欠です。何がそれをやっているのかを考える必要はなく、ただ調査するだけです。調査をするためにボブはたくさんのポインターを提供しています。ミーティング、たくさんの観念。また、アドヴァイタに関するたくさんの本、ビデオがあります。でも、ボブのポインターの一つを選ぶと、それはとてもシンプルです。私の好きなポインターは、「見る働きは今起こっていますか?」です。そこで私は、このマインドと体が見ているのか、それともそれはただ自然に起きているのかを調査します。それが私にとってはとても明解です。では、その他の面はどうなのか。調べること、見ること、考えること、聞くこと、何かをやることはどうか。それはマインドでも体でもなく、ボブの言う認識する空です。そこには見る働きだけがあり、私たちはいつも純粋な主体性です。知る働き、見る働き。こうした観念すべてをあてにすることはできますが、いつも、「ああ、私はその観念を知っている」という地点にもどるのです。でも、その「私」は小さな私ではなく、大きな私。それは認識する空です。それは知る働き、見る働き、内在する知性、それが絶えず機能し続け、それ以外ではありえない。それはそうあるはずです。

仏教徒はそれを、認識する空と呼びますが、その意味は空に認識、あるいは知る働きがあるといことです。私たちが認識すると考える時、私たちが認識する人だと考えますが、そうではありません。それはもともと認識されているのです。そのため、見る働きがそれを見るとき、それを再認識(recognize:再認識)しているのです。そのため、もともとあなたがそうであるものを再認識(recognize)すると言うのです。不変のものを見ているのです。それは常にあるものです。

それは見た目の上では不確かなものに見えます。それゆえ聖典ではそれを無知と呼ぶのです。それは、馬鹿だとか愚かだと言っているのではなく、真の実在を無視しているという意味です。観念の中にある信念に焦点をあてているのです。そのため、それはいつもそこにあるのです。

もし、あなたが真実を知らず、自身という存在を信じていると、それからあらゆる心理的な問題が起こります。たいていの人が多かれ少なかれ絶えずこの問題を抱えていて、中には他の人より悪い人もいます。ここで私は、それは不要なことであり、心理的な問題を調査することによってそれを見抜くことができると言っているのです。

虚偽は調査に耐えることができません。調べてみて調査に堪え得ないようなら、それは虚偽です。するとあなたは自由になります。どうして虚偽とわかったものをもう一度信じることができるでしょうか。あなたの人生全体において、何が虚偽なのかを見抜くようになり、そこにエネルギーや信念を注がなくなります。どんな存在や信念もエネルギーなしでは存在することができません。

また、信念という言葉の定義は、調べもしないで理由なく何かを受け入れるということです。言われている物事を確かな知識や証拠なしに受け入れるということです。私はあなたに尋ねます。あなたは自分が存在すると信じているのですか、それとも知っているのですか? するとあなたは、私は自分が存在すると知っていると断言するでしょう。

誰もそれを否定することはできません。あなたは自身に対してあらゆるイメージを持つことができますが、自身の存在を否定することはできません。そのことは、私たちは存在するが、自身に与えた信念、考え、イメージによって、その存在がわからなくなっているということを意味します。どうしてそれが起こったのでしょうか。

身体からそうした信念を取り除くためには、調査して、こう問う必要があります。私はこの体とマインドなのか? そして考えてみると、もともと自身は体でもマインドでもないと知っているのです。というのも、あなたは、「私の身体」「私の家」「私の車」「私のコート」「私の服」と言うのではありませんか? あなたはコート、服ですか? いいえ、そうではないと知っています。調査をしてみると、同じことが体にも言えるのではありませんか? それは、あなたがこのエネルギーのパターンに貼り付けたラベルにすぎません。

では、この体は何でできていますか? 少し詳しく調べてみると、この体は構成要素でできているとわかります。空気、土、火、水、空間。この部屋の内外のあなたの周りにあるのものと同じ要素でできています。でも、調べてみてください。あなたはその要素ですか? あなたは、例えば、空気ですか? あなたと空気を分離することはできますか? あなたと構成要素を分離することはできますか? できるならやってみてください。空気を自身と分離すると、呼吸なしでは少しも生きていられないとわかるでしょう。

体から水を分離してください。体の80%は水です。水なしで生きられるかやってみてください。すぐに死んでしますとわかるでしょう。体の熱である火を分離してください。低体温症になって死んでしまうでしょう。空間の外、地球の外へ出ることができるならやってみてください。やってみると、あなたは自身からそうしてものを分離することはできないとわかるでよう。つまり、本質として、あなたはそうしたことすべてであるに違いありません。

カット:私は船舶士官として働いていました。基本的に、船の操縦室で様々なボタンを押しながら、機械を動かしたり止めたりしていました。もちろん、それは事前の計画に基づくもので、風やその他の学んだことすべてを知る必要がありました。そのため、体はすでにその技術を身につけていました。そして、学んだことすべてをある存在と結びつける必要はありませんでした。というのも、それは(船の)システムに組み込まれていたからです。基本的に同じ事が起これば、そのことに対するストレスはありません。ミスを犯す可能性はとても低いのです。

私は基本的に、すべての瞬間において、なすべきことがマインドに思考としてやってきた時、生の本質は何なのか、それがどれほど真実なのかを発見しようとしています。そして、思考は行動へとつながります。行動は体を通して起こります。何も心配することはないのです。というのも、思考が必要な時にはやってきます。今、確かにそのことを知っています。もし思考がやってこず、何かが無視されているのなら、それはすばらしいことです。エネルギーを浪費することはありません。私は依然としてここにいます。
同じことが働いている時にも起こっていました。エゴやコントロールが表面的に必要に見える時でさえ、何も必要ではなく、船を操縦する私は空っぽで、体を通して起こった思考と行動に従いさえすればよかったのです。とても簡単なことです。

女性A:ボブは、朝目覚めた時の話をします。目を開け、何にもラベル貼りをしないでまわりを見渡すことができます。そして私はまたここにいて、それはどうすることもできないと気づくのですが、それが最初にやってくる時、私の目が覚めて、まだ思考がやってこない時、私はこの空間、この空に気づくことができて、それが実在であり、それから、私の一日の物語がその上に始まり、時々はそれが夢から覚めた時でさえ、私は起きて、それが夢だったと気づいて、空間の広さに気づいて、一日の物語が始まることに気づくのです。そのことは、参照点という信念にとらわれることなく、自身がうまく機能できるように助けてくれます。苦しめられる私、何かをしなくてはいけない私といった、行為者としての私は消えました。

誰も、もともとあなたがそうであるものを与えることはできないし、取り上げることもできません。それを再認識するかどうかの問題です。

あなたは体でもマインドでもないと認識するためには、それが不変のものだと理解することです。でも習慣のパターンによって、人々は「私」という信念に戻ります。それは雲が太陽を覆って見えなくしてしまうようなものです。「私」という思考が純粋な知性を見えなくしています。そのため、見失ってしまったように見えるのですが、太陽が雲によって見えなくなった時でさえ、太陽は空から消えてはいないのです。太陽は常に自ら輝き、空を去りません。やってきて去っていくのは雲です。

あなたが自身のマインドを調べて何が起こっているかを見る時、やって来て去っていくのは思考であり、生命の本質は動きません。それは変わることはありませんでした。もし、あなたに子供の時に何が起こったかと尋ねると、あなたはあれこれと答えるでしょう。そしてどうしてそれがわかるのかと尋ねると、あなたはそこにいたからと答えるでしょう。では、あなたはその時と今と同じ体でしたか? あなたはずっと同じ子供でいたわけではありません。体は絶えず変化しています。

自身に対してずっと変わらない観念を抱いていたかというと、そうではありません。なぜなら、あなたはいろんなことを学んだからです。でもその背景にいつも変わらずにあったのは生命の本質です。それは決して変わりませんでした。それゆえ、いわゆる空っぽの世界における変化は作り上げられた虚偽のものなのです。
十六世紀の禅僧はその本質を「不生の仏心」と呼びました。ありゆることが、不生の中では完全に解決されています。どうして不生を思考と交換するのですか? 

ビル:それが体の中で働く時、たとえば爪を成長させ、新陳代謝を行い、消化などすべてはただ自然に起こっています。自然に起こっているということは、その直接性だけがあるということの大きな手掛かりであり、その直接性の中には、その瞬間、それは瞬間でさえなく、継続でもないのですが、そこには、「私」もいません。その線に沿って調査してみると、それはとても強力であり、あなた(ボブ)はどうやって調査したらいいのかのたくさんの手がかりをくれるので、そこに「私」がいるかどうかを知ることがいつも本質的なことです。そしてそこに「私」がいないとわかると、もしそこに「私」がいないのなら・・・、そこに「私」がいるかどうかを知ることは実際には問題ではないのですが、もし「私」がいないということを想像できるなら、それはどんな状態なのか。あなたが実際に調査することができて、そこには「私」がいないとわかると、ただ単にこの自然発生、直接性を理解して、そこには「私」はいないとわかります。つまり、それを知ることがどれほど途方もないことなのか。あなたが今そのことがわかって、3、4年前を振り返ってみると、その頃あなたはまだ探求者として奮闘していたころですが、その状況においても、「私」はいなかったとわかります。あなたは、3、4年前にも「私」はいなかったと知ることになります。

ミック:時間というのは重大な概念です。先日も考えたのですが、みんながこの時間と呼ばれるものを信じているのはどうしてだろうかと。もし、時間というものを信じていなかったら、過去はないし、未来もない。そうなれば、あ~、馬鹿だった、こんなことをすべきではなかった、という考えに悩まされることもない。それで、そう思ったとたんに、それをやる自分なんていないかったのだから、遡る過去があって、それを心配するのは的外れだとわかる。

つまり、過去も未来もないのです。時間も空間もありません。道も目的地もありません。この探求とはいったい何なのですか? おそらくあなたはもともとそこにいるのです。過去も未来も行くべき目的地もありません。今、ここから外へ出ることができますか? それもまた観念です。観念上で、あなたはまた時間の中へともどります。私たちは実在ではない時間を信じています。この瞬間が永遠です。私たちは永遠を、永遠の命を探しています。私たちは60億光年の昔から何度も生まれかわっていると思っています。でもあるのはこの瞬間だけであり、時間の継続はありません。

ギルバート:それは生ける知性です。それは時間の中にはありません。マインドとは時間のことです。でも、時間は実際には存在せず、観念にすぎません。その本質はエネルギーであり、それがあらゆるものとなって現れています。そこには分離はありません。あなたはそれから分離してはいません。つまり、理解すべきことは、私がそれであるということです。あらゆる聖者が、タットマワシ(われはそれなり)と言っていて、それが、指摘されていることです。誰もがそれです。ボブが言うように、それを知っていようといまいと。

ニサルガダッタは「命は命を糧として生きている」と言いました。そこには命があるだけで、それを生きている誰かはいません。誰も生きてはおらず、生命そのものがあらゆる異なった姿形となっているだけです。

男性:内側に留まるようになって以来、経験そのものが完全に落ちていって、自身の経験していることが一つのシーンのようで、人の行動も自分の行動も内側のあらゆることもそこから消えているかのようです。でも、まだ何かを探している自分がいるのです。そうしているということは、たぶん、まだ明確に理解していなのだと思います。何が足りないのか、どうして繰り返し探し続けているのでしょうか。

あなたが見逃しているのは、「探求をやめよう」ということです。(笑い)やめてください。

ギルバート:それは始まってさえいない。(想像上の)ストーリーだよ。

あなたは実在(being)ですか、それとも探求者ですか?

男性:実在です。

そうです。では、何を探すことがあるのですか? あなたがそれを何度理解しても、古い習慣は続きます。

男性:ええ、わかっています。でも、あらゆることがマインドに浮かんできて、これがそれだ、もう少しでだどりつく、そういったあらゆることが浮かんできます。共鳴や中心が浮かんできて、これが彼の言っていることだという地点を実際に指し示すことができるかどうかわからないのです。

もう少しだとか、そういったことは、誰に関して言っているのですか? もしそうしたことを「私」が関連しないなら、あなたは何ですか?

男性:私はいません。

ええ。あなたは思考ではありません。あなたが思考になることもありません。(笑い)そうした考えがマインドにないなら。(そうした)考えを持たないことは良いことです。

男性:わかりました。

ミック:ボブ、興味深いことですが、私がこの話を聞きにくるようになってから、あなたはいつも同じことを何度も何度も繰り返し話ます。そしていつも私の心の中で「なんてこった。この人には何かもっとオリジナルな話はないのか!」という思いが起きるのです。(笑い)

私はそれでいい。

ミック:でも、おもしろいことに、そういう思いが起こっているのは、それを新鮮で新しいこととして見ていないからです。あなたが言うように、表面上で起こった過去のことを振り返ってみると、それを新鮮で新しいこととして見るなら、何も同じことは起こっていない。

アドヴァイタの非二元の教えのシンプルさに関して言えば、人々は、それはとてもシンプルだと言って、それを言葉や概念で言おうとして、それが簡単すぎるので、そんなはずはないと考えるのです。でも、「一」よりシンプルなことがあるでしょうか? 「一」以上にシンプルなものはないとわかるはずです。つまり、あらゆる人がその「私は在る」であり、分離したものではないのです。何も分離してはいないのです。

真実を知れば、真実があなたを自由にします。そしてあなたは、そこに何かをしなくてはいいけないとか、何かに従わなくてはいけない存在がいるという信念から自由になります。そして生が自然と起こってきます。そこには区別がないということを理解してください。若い人たちはそのことに興味を持ち、何年も何年もそれを手に入れようとしますが、そのことを理解しません。最終的には何も手に入れるものはないのです。それを知っていようといまいと、彼らはもともとそこにいるのです。

二歳か二歳半のころ、「私」という思考がやってきた時、親や学校、社会、国家がそれを強化し、毎日自分でそれを強化してきました。その習慣が時々やってくるからといって、それを責めることができるでしょうか。それがやってきた時、ちょっと待てよ、これは真実じゃない、それはもう見破ったと言うでしょう。あなたは今知っています。「私」が始まったという特定の場所を指摘することができますか? できません。それは、あたかも夢を見ているようなものです。蜃気楼の中の水を見て、水がそこにあると思っているようなものです。

女性B:今思うのは、ここへはもう長く通っているのですが、とうとう私は、物事が起こって思考がやってきても、ただ見ているだけ、ダンスを見ているだけということができる地点に到達しました。そしてそのダンスを楽しむのです。たとえダンスの相手が役立たずであっても。(笑い)私には、絶えず疑問や判断すること、応答することがつきまとっています。何かに対して応答する能力のことです。何かを自分のものだと思ったり、何かに対応しようとする時、判断がそこにあるのはわかりました。そしてあなたは、それは単に起こっていることだと言うのは知っています。それが自然に起こっていることで、応答が起こるべきことなら、それは自然に起こる。自分のものだという思いが起こるべきことなら起こる。そこにはそれをやっている誰かはいない。それと一緒にマインドがやってきます。

実際に反応や行動が起こった時、誰がやっているのですか?

女性B:あなたがそういう時、そこには判断がないということですか?

ありません。

女性B:それは落ちていく。

ただ自然に起こるだけです。

女性B:でも習慣的に判断してしまうのです。

そうです。

女性B:それはいつなくなるのですか?

それはいつ始まったのですか?

女性B:オーゴッド(笑い)

あなたがそれを調べてみると、何も起こっていません。どんなことも起こっていなかったのです。誕生も死も過去も未来も目的地も自由意志もありません。それを調べてみる必要があります。するとそれは起こっていることだとわかります。というのも、虚偽は調査に耐ええないからです。私たちが身につけているこうした間違った虚偽の信念は、あなたの調査に耐えることができません。そこには、それが始まったという静止した地点はありません。この顕現の中のどこににも変化しない地点はありません。そして、それをやっている自己はどこにもいません。

あらゆるものがそれです。ニサルガダッタは言いました。「あなたは、あなたが世界と呼ぶものの中で夢を見ているのだということを理解しなさい。そして、出口を探すのをやめなさい。夢が問題なのではない。あなたの問題は、夢の一部を愛し、その他を嫌うことだ。そのすべてを愛するか、すべてを嫌うかにしなさい。そうすればあとは自然に起こってくる」。その意味するところは、私たちは夢を良い悪いと分割しがちですが、世界を良い悪いに分割しないということです。

あらゆることが良いことであるのと同じように、あらゆることが悪くもあるのです。この宇宙は混沌としていると私たちは思っていますが、宇宙は完璧に解決しています。くつろいで、それを見ているということは、何もしないでいるという意味ではありません。あなたは心身が重要な役割を果たしていると気づくはずです。でも、それを操っている人はいないのです。

より好みをしなければ、大いなる道は難しくはない。愛することも憎むこともなければ、あらゆることは明らかで偽りもない。しかし、わずかでも区別をすれば、天と地は遥かに離れる。区別しない思考がやって来る時、古いマインドは存在しなくなります。

ヒンドゥーの聖典の中に、五つの要素と呼ばれるものがあります。サット・チッタ・アナンダ・ナーマ・ルーパ。存在、意識、至福、名前、形。ニサルガダッタは見事に語っていますが、人々は彼の言うことを理解していません。彼は言っています。「私は無であると言う時、それは知恵である。私はすべてであるという時、それは愛です。その二つの間で私の生は流れていく」。

無を知る知恵とは、サッチ・チッタ・アナンダ、存在、意識、至福のことです。存在とは知る働き、意識とは実在、そして至福とは存在することへの愛です。そのどれもが分離したものではありません。存在、意識、至福は分離しておらず、それは波動であり、振動して絶えずそれぞれに変化しているのです。

ギルバート:もしあなたが、今この瞬間に起こっている、この生ける知性、この命へと戻るなら、思考や言葉なしで、それはとてもはきっきりしていて明白です。分割しているように見えるのは言葉のせいです。それが、ボブが私やみんなに指摘していることです。言葉が実際に分割しているわけではないのですが、一体性、生、意識、認識を分割しているように見えるのです。そしてマインドはその道筋を通って分離を信じるのですが、それはすべてラベルです。それを認識することがとても重要です。もし、言葉が無かったら、あなたは何ですか? あなたは休止せざるえません。そして調べてみてください。そこで認識できるものを否定することはできません。それがいつもあなたであったものです。それはあなたの身体が生まれる前からあったものであり、永遠です。私たちは、この一つの本質です。あなたが誰であろうと、自分を何と思おうと、あなたが社会の階層のどこに属していようと、みんなそれなのです。それだけです。

ビル:あなたが本気で調査すれば、「私」は幻影、つまり想像だとわかるはずです。それは重要です。ボブが指摘するいくつかのとてもシンプルな調査をやって、それを理解すると、「私」というのは、他のことすべてと同じように、一つの波動にすぎないとわかります。

女性A:私はそれを精神世界の最終教養学校と呼んでいます。「私」は、外の世界からいろんなものを集めて、架空の話を作っていました。そして最後に障害となったのは、エンライトメントを求める私、どこかで白い光を浴びる私、現象のすべてが変わってしまうような私でした。でも、今は、この瞬間がすべてです。

カット:ええ、実際に「私」はいないのです。つまり、それです。(笑い)

ボブ:エンライトメントなどというものはありません。なぜなら、私たちが話していることは、非二元、他には何もない一つのものです。それは完全なものであり、完全なものからは何も取り去ることも付け加えることもできません。ということは、エンライトメントした人や何か他のものというラベルで分割することはできないのです。それは一つの本質です。それがパターンとなり、あらゆるものとなって現れています。存在、認識、存在することへの愛、別の言い方をするなら、存在するという意識が至福です。
ニサルガダッタは別の言い方をしました。存在することへの愛情深い意識を持つこと。別の言い方をすると、自分自身に戻る自分を愛するということです。