2022/08/27

非二元を理解するということ

非二元を理解するとはどういうことなのか。どんな良いことがあるのか。

非二元を理解するとは「私は実在ではない」「世界は実在ではない」ということを理解することです。もっとやさしい言い方をするなら、「私はいない」「世界は幻想である」です。

非二元の語り部たちだけでなく、仏教でも同じことを言っていて、最近では脳科学でも同じことを言っています。もうそれは驚くほど特別なことではなく、いろんな伝統の中にあることであり、珍しいことではないように思えます。

では、それを理解すると、どんな良いことが起きるのか。もし、「私」がいないのなら、「私」にまつわるあらゆる問題から解放されます。「私」は生まれてさえいないのですから、死ぬこともありません。死への恐怖が消えます。「私」がいないのですから他者との比較や競争が消えます。

人と競争して、金、地位、名声を手に入れようとする必要がなくなります。仏教でいうところの執着が消えます。私の家、私の家族、私の子供という執着が消えます。「私」がいないのなら、他者もいないので、人と争う必要がなくなります。私もあなたも一つのものの現れにすぎないとわかれば、どうして人を憎むことができるでしょうか。もちろん、好き嫌いはあっていいのですが、それは自然に起こってくるものであり、そこには個人はいません。

「私」はあらゆる悩みの根源です。「私」がいないとわかれば、悩みは消えていきます。幸せだとか、不幸だと思っている「私」はいないのです。もちろん、自然な欲求はあると思いますが、それはあくまでゲームの中で自然に起こってくることであり、悩むほどのことではありません。

と、ここまでは教科書に載っていることを偉そうに書いてみました。でも実際には、理解したからと言って、そう簡単にある日突然あらゆる執着や悩みが消えるわけではありません。少なくとも私の場合はそうなっていません。体はあるように見えるし、悩みや問題も次々に起こってきます。それは生きている限り続くのではないでしょうか。苦しいことも悲しいことも起こってきます。人生はいいとこだけ取るようにはできていないのではないでしょうか。

だから、非二元を理解したから終わりではなく、ずっと忘れないでいて、時々ボブの本を読み、日々気をつけて生きていかないといけないと思います。そうした自戒の意味を込めて、このブログをずっと続けていこうと思っています。

非二元を理解すると、具体的にどんな良いことがあるのでしょうか? それは人それぞれ悩みや苦しみが違うように、人それぞれなのだと思います。

ジェームズブラハは、Living Reality: My Extraordinary Summer With "Sailor" Bob Adamson (English Edition)の中でこう書いています。

非二元を理解することで得られる最も興味深い効果の一つは、問題や心配事、動揺がいかに早く過ぎ去るかということです。一見悪いように思われる出来事が起きても、問題に対処する知性エネルギーが湧き起こります。動揺するような考えが起こり始め、いつものようにトラブルを起こそうとしても、取りつく島がありません。そうした問題が最初に出会うのは、ジェームズは実在しないという認識です。そして、過去も未来も実在しないという理解と格闘します。そして、真の私は永遠で不死であるという認識にぶち当たります。たいていの場合、問題が起こっても取るに足らないこととなります。

非二元を理解するとは、「自分は実在ではない、過去も未来も実在しない、真の私は永遠で不死である」ということを理解するということです。そうすれば、何の問題もありません。

逆に言うと、それをちゃんと理解していない人は問題が過ぎ去っていかないということになるのではないでしょうか。何か問題が起こった時に、どれほど早くその問題が過ぎ去っていくのかを見ることで、自分がちゃんと非二元を理解しているかどうかがわかるのかもしれません。それは、問題を無視したり、黙殺したりすることとは違うと思います。

もし、ちゃんと理解していると思っているのに、悩みや問題が消えず、少しも楽にならないのなら、その理解が本物かどうかをもう一度確かめる必要があると思います。私の場合、10年前と今ではあきらかに精神状態が違います。幸せでしょうがないということはありません。イライラする時も憂鬱な時もあります。悩む時もあるし、厄介な問題も起こります。まわりの状況は何も変わっていません。でも「もう何も悪くはありません」。以前のように、恐怖を雪だるま式に大きくしたり、悩みに巻き込まれてしまうということはなくなりました。死の恐怖は依然としてありますが、以前ほどではありません。

私の場合、非二元を理解したことの最大の恩恵は、もう何かを探したり、追い求めたりしなくなったことです。丸善の精神世界のコーナーへも、あまり行かなくなりました。人との比較や、誰かを恨むこと、憎むことで悩むこともなくなりました。もちろん、そうしたことがまったくないわけではないのですが、やってきても長居をすることはありません。過度な願望や欲望は次第に消えています。ありもしない幻想で自分を悩ますことは減っています。これはゲームだとわかったからです。

もう二度と同じではないだろうという思いはありますが、体とマインドがある以上、「私」が完全に消えることはないでしょうし、思考は繰り返しやってきます。もし「私」が完全に無くなれば、すぐに車にはねられてしまうか、何も食べなくて餓死してしまうでしょう。思考がまったくやってこなければ、人とも会話できず、すぐに病院に入れられてしまうでしょう。

命あるかぎり、体も思考もあり、「私」も完全には消えません。落ち込むことも悲しむこともあるでしょう。でも、もう以前のようなわだちにはまることはないだろうと思います。すべてはゲームだとわかったうえで、ルールを守って、できれば楽しんで、前向きに生きて行こうと思っています。