第519回「人は自己を変えることができるのか」2022/6/9【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師
とても感銘を受けた話だったので、文章として書き起こしておきます。私の場合、聞くよりも文字で読んだ方が深く心に残ります。
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おはようございます。大きいことはいいことだ、子供の頃テレビのコマーシャルでよく耳にしていた言葉です。これは昭和42年、チョコレートの宣伝でありました。昭和40年代の高度経済成長期のまっただ中のことです。大量生産、大量販売、大量消費が良いこととされたのでした。大きいことはいいことだと言っては、さらにもっと大きいものを、そしてもっと便利なものを、もっと速いものをと追いかけてきたのでした。
その結果どうでしょうか。今日のような閉塞感の強い時代になってしまいました。マーケティングを研究している方からも、もはや便利さの追求は終わったと言われるようになりました。大きいものよりも、より小さいものを見直されるようにもなってきました。宣伝によって刷り込まされるものというのがございます。夏期講座の二日目の佐々木閑先生の講義は、刷り込み、刷り込まされた世界の話から始まりました。タイトルは「人は自己を変えることができるのか」です。
私たちは、より良いものを求め、より快適なものを求めることはあたり前のように思っています。それは刷り込まれた価値観で生きているのだ、というのです。それはあたかも日日より良いものを求めるのが幸せだという宗教に洗脳されているようなものだというのです。虹の向こうに夢を求める生き方だと言うのです。その宗教の説教がコマーシャルだというのです。これがいい、こっちの方がいい、買え、買え、と言って宣伝するのであります。資本主義の買え買え教だと佐々木先生はおっしゃっていました。テレビでは15分おきにそんな宣伝が流れるのです。
果たしてそれで本当に幸せになれたのでしょうか。もっとも、それで十分幸せだいう人には仏教が必要ではないと先生はおっしゃっていました。仏教は無理に人に押し付けるものではないのです。そのように、より良いものを追い求めることが人生の幸せではないと思う人が仏教を求めるのであります。この世の中にはそのように追い求めることができない人がいるのが現実であります。佐々木先生は欲求を追い求める人生が何をもたらすのかを示してくださいました。夢を手に入れるための駆動力、力、人生のパワー、将来の希望などです。
逆に夢を追い求めることに執着してしまうとマイナスの面にもなるのです。それは執着による貪欲や怒り、憎しみ、妬み、そしてうまくいかなかった時の劣等感などがあります。また、追い求める道がふさがれた時にはどうしようもない絶望感を味わうというのです。しかし、欲求を追い求める生き方をやめると、今度はそれら怒りや憎しみ、妬み、劣等感、絶望感からは解放されることになります。
ただし、佐々木先生は、欲求を追い求める人生と、追い求めない人生には優劣も善悪もないのだと説かれました。それぞれの生き方があるということです。そして、欲求を追い求める人生をやめると、心の平安が得られると説かれていました。ではそのように欲求を追い求める人生をやめるにはどうしたらよいのかというと、この世の仕組みを正しく知ることなのです。
仏教で説くには、この世には、絶対者も創造主もいないのであって、すべては原因と結果の関係性によって動いているという縁起の法則を知ることなのです。夢を追い求める生き方の基盤となるものは「私」と「私のもの」が変わらず存在しているという思いなのであります。そしてとりもなおさず、それを捨てることこそが安楽をもたらすというのが仏教の肝心なところであります。
そこで佐々木先生は四法印をわかりやすく説いてくださいました。諸行無常、すべては常ではない、移り変わるのだということです。諸法無我、世の中に私という絶対存在はないということです。涅槃寂静、究極の安楽は欲望の充足ではなく、欲望の消滅であるということです。そして一切皆苦、生きることは苦しみであるということです。
砂の城の例えが印象に残りました。子供が海辺で砂の城を作っているのです。子供は海辺で作った砂の城が波で流されても悲しんだりはしません。なぜならそれは遊びであり、砂の城なんてすぐに壊れるものであり、永遠ではないと知っているからです。知ったうえで遊んでいるだけなのです。砂の城が自分のものだ、などとは思っていないのです。
ところが大人は自分の家が流されると嘆き悲しみ苦しむのです。それは、その家が自分のものであり、ずっと自分のものであり続けると思っているからなのです。そうしてみると、苦しみを生み出すのは自我であり、自我をなくすことが苦しみの消滅に他ならないということになるのであります。そのように自分中心の営みがなくなると、静けさという安楽が手に入るのであります。こういうことを単に頭で理解するだけではなく、日常の一挙手一投足の動きが、その自我をなくす方向へ向かっていくように努力することが修行なのだと佐々木先生は説いてくだいさいました。
最後に無我ということは、今日の脳科学でも証明されていると教えてくださいました。下條信輔先生の説を紹介して、「私」という固まった確固としたものはないというのであります。例えば、記憶というものを積み重ねることによって、私たちは自分というものを形成していますが、記憶というのはほとんど後付けでできているというのです。自分の都合のよいように作り変えているのだそうです。
これという固まった自我がないことは脳科学でも実証されているということでありました。実に仏教の究極の真理を佐々木先生の熟練した説き方で、あっという間に終わった一時間でした。お昼ご飯を一緒にいただいたあと、佐々木先生ご夫妻を国宝舎利殿にご案内しました。佐々木先生の奥様は建築の学者でいらっしゃるので、初めて見る舎利殿にとても感激されていました。楽しみながら、深い仏教の真理に触れることができた半日でありました。人は自己を変えることができるのであります。それでは今日も姿勢と呼吸を整えましょう。以下諸略。