2022/06/15

脳はなぜ「心」を作ったか・錯覚する脳

脳はなぜ「心」を作ったか 「私」の謎を解く受動意識仮説 前野隆司

YouTubeで前野さんの受動意識仮説を知り、興味がわいたので読んでみました。前野さんはロボットを専門としていた工学博士。
前野さんがYouTubeで言っていることは、私たちは意思よりも先に行動をしているということ。例えば、指を動かそうと思って動かす時、「指を動かそうと思う→指を動かす指令を出す→指を動かす」とい順番で行動していると考えていますが、実験によると(リベット博士の実験)、「指を動かす指令を出す→指を動かそうと思う→指を動かす」という順にやっているのだそうです。つまり、人間は行動したあとで、それを後から自分がやったように思っているだけ。要するに、自分がやっているというのは幻想だと言うのです。それで、それは非二元と何か関連があるのではないかと思い、本を読んでみました。内容はYouTube(意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説)で語っていることと同じなので、YouTubeを見てもらった方が手っ取り早いと思います。

本の内容を私なりにまとめると、
①私たちが見ている世界は目で見ているのではなく、脳内で再現された世界を見ている。
②私たちが「私」だと思っている私は錯覚であり、存在しない。
③意識(心)は脳が作り出したものであり、幻想である。

内容を補足説明すると、
①は私が唯識のところで書いたこととほぼ同じで、私たちの見ているのはヴァーチャルリアリティだということ。
②は、私たちの行動をやっているのは脳内の小人(神経細胞あるいは潜在意識、無意識)であり、「私」ではない。「私」はその小人たちがやったことを後付けで「私」がやったと錯覚しているだけ。
③意識は、起こっていることをコントロールしているのではなく、起こっていることを見ているにすぎない。出来事を受動的に観察しているにすぎないので、これを「受動意識仮説」という。(セイラーボブの言う、マインドは翻訳者という発想に似ている。前野さんの使う「意識」という言葉は「思考」と考えた方がわかりやすい。)

YouTubeで前野さんは、仏陀が発見した無我を、科学者として再発見したと言っています。前野さんは、意識(心)は幻想である、と言ってみえますが、世界が幻想だとまでは言ってない。でも、意識がなければ世界を認識しようもないので、世界がないと言っているのに近い。

「『私』も『世界』も錯覚である」、というところまでは納得できる。大きな疑問は、ではその脳内の小人を動かしているものは何なのかということ。この問い方自体が間違いなのだと佐々木閑先生は言われるので、言い方を変えると、意識とは何なのか? その背後には何があるのか? それに対する答えはこの本には書かれていない。ただ、セイラーボブの「知性エネルギー」や「アウエアネス」も言葉では説明できないものなので、仮にそれを「脳内の小人・潜在意識・無意識」というのもありだと思います。そう解釈すると、これはセイラーボブの言っていることと同じと言えると思います。科学者がこういうことを言うのには少し驚いたと同時にすばらしいと思います。内容的には仏教や非二元で遥か昔から言われていることと変わりません。この本を読んで、非二元や仏教で言っていることに科学がやっと追いついてきつつあるという印象を持ちました。是非読むべき本だと思います。

錯覚する脳 「おいしい」も「痛い」も幻想だった 前野隆司

前著では「心は脳が作り上げた幻想である」ということが書かれていましたが、この本では、私たちの五感も幻想であるということを、五感それぞれについて説明しています。
例えば、色彩。自然界には色彩はない。色は何かというと、光の電磁波。その電磁波を人間の目が受け取り、脳に伝え、脳の中で色へと変換している。

そのため、もし地球に人間がいなかったら、色はない。もっと極端なことを言うと、目を持つ生物が地球に現れる以前は、地球上には電磁波があっただけで、青い海も赤いマグマも丸い地球もなかった。私たちは、色によって山や海を認識しているので、色が無かったらそこには電磁波があるだけ。電磁波だけの世界を想像することはできないが、何もない世界。

また、触覚。手には、センサーがあるだけで、それを認識する機能はない。でも私たちは何かを掴んだ時に、そこに物があるように認識する。それは、脳が作り出したイリュージョンなのだという。もっと極端な例は、手や足を失くした人が、そこにはあるはずのない手や足の痛みを感じるという例があるという。

そして聴覚。私たちは、音の波調を鼓膜で感受して脳で認識している。でも実際には、例えば遠くで救急車のサイレンの音がしていると、遠くのサイレンの音として認識する。実際には耳で感知しているはずなのに、脳が勝手に距離というイリュージョンを作って、音が遠くにあるように思わせている。

そうした説明を五感それぞれ順に説明していき、五感で感じるものはもともと自然界にはないものであり、すべて脳の作り出した幻想なのだという。

「私」も脳が作り出した幻想(イリュージョン)なのだという。そのため、「私」はもともと生まれてはいない。前野さんは、そう考えるようになってから、死は存在しないとわかり、恐ろしくなくなったという。このあたりの話はまったく非二元的でおもしろかった。

そこから話は仏陀や悟りの話となり、前野さんの言っていることは仏陀の悟りと同じではないかという。そして、前野さんは、意識が作り出した世界が幻想だと知って、最初はがっかりしたという。その後前野さんは、世界がイリュージョンなら、イリュージョンを楽しもうという方向へ向かう。以下p237から転載。

生というイリュージョンの過ごし方
 では、現代人は、イリュージョンである私たち自身の心と、どのように折り合いをつけて生きていくべきなのだろうか。
 それは、既に何度も述べたように、心も欲も真善美も実在すると考えることから出発し、既得権益をごりごりと守ろうとするのではなく、もともと何もないはずのところに心や物が今あるように思えているという奇跡的な「儲けもの」のイリュージョンを静かに楽しもう、という生き方だ。釈迦のいう在家の人の生き方がちょうどこれに近い。

 しつこいようだが、もう一度言おう。
 心のクオリア(拓注記:生きているという質感といった意味)が確固として存在すると考えようとするから、死ぬのはいや、という気持ちになるのだ。そうではなく、もともと何もないのだし、たまたま、意識というイリュージョンを堪能できる、人間という生物の意識として生まれ出てきたことに感謝しようではないか。イリュージョンを感じられるうちに大いに楽しもう。所詮はかないイリュージョンなのだから、脳が停止したらイリュージョンも停止するのは仕方がない。また、何もない状態に戻るだけだ。眠るのと大差ない。「永眠」とはよくいったものだ。
 しがみつくほど確実なものなど世の中にどこにもないのだから、イリュージョンを楽しむしかない。

もちろん、私たちが生命として生きる規範はもともと何もないのだから、自分でデザインするしかない。人生をどうデザインしても無に帰す事をわかった上で、やはりデザインするしかないのだ。
 どうせ無に帰するのだからむなしい、と感じる方もおられるかもしれないが、もともと無だったところに新たなデザインをしてみるささやかな楽しみだ、と思えばクリエイティブだ。
 はかない人生なのだから、やりたいようにやるしかない。
 といっても、自暴自棄はいけない。

 人生のデザインは、数十年間陳腐化せずに持続するものであるべきだろう。ささやかとはいえ、死ぬまで数十年というそれなりの期間、ハッピーでいるに越したことはないので、現在と未来をハッピーにするデザインであったほうがいい。

前野さんは現在、幸福学なるものを研究されていて、どうしたら幸福でいられるかという研究をしてみえます。興味のある方は文末の参照欄を参照してください。

昨日の動画の中で、佐々木閑先生は、「(この世は)子供が海辺で砂の城を作って遊んでいるようなもの。それが遊びだとわかっていて遊んでいる」という趣旨のことを言ってみえるという話がありました。前野さんも佐々木さんも同じようなことを言ってみえると思います。世界も「私」も幻想なのだからと悲観的になるのではなく、どうせ幻想なのだから深刻にならずに楽しんで生きていこうと言ってみえるような気がします。

非二元の人たちと同じように、科学の分野で、「私は実在ではない」と言っている人が他にもたくさんいると知りました。今後はそういう人たちの本を読んでいこうと思っています。

参考動画 

前野隆司の著書『錯覚する脳』(筑摩書房)の解説動画

前野隆司の著書『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか』(技術評論社)の解説動画

脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?」は絶版になっている上、中古本は高価になっていますが、前野さんのブログpdfがあり(第五章以外)、それで読むことが可能です。内容は宗教や哲学の話にまで及び、なかなか容易には理解できない部分があって、ざっと目を通しただけなのですが、この本の解説のYouTubeを見れば、前野さんの言いたいことは、十分わかります。

脳はなぜ「心」を作ったのか(2020年4月30日 第1回 前野隆司著作について著者と語る会)

意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説(リベットの実験の説明あり)

参考 前野隆司Wikipedia

   前野隆司著作

   前野さんのブログ

   pdf・脳の中の「私」はなぜ見つからないのか