中国の禅の系統では、六祖慧能から臨済義玄までの系統が、臨済宗をもたらした系統です。
六祖慧能→南嶽懐譲(なんがくえじょう:677~744)→馬祖道一(ばそどういつ:709~788)→百丈懐海(ひゃくじょうえかい・720?〜814)→黄檗希運(おうばくきうん:?~850))→臨済義玄(りんざいきげん:?~867)と法灯は継承されました。今回は馬祖道一について。
馬祖道一(ばそ どういつ:709年~788年)は、中国の唐代の禅僧。
馬祖禅とも呼ばれるその禅思想では、禅宗で初めて経典や観心によらずに日常生活の中に悟りがある大機大用の禅を説き、「平常心是道」(びょうじょうしんこれどう)、「即心即仏」など一言で悟りを表す数多くの名言を残している。また、相手に合わせて教え方を変える対機説法(たいきせっぽう)を始め、これによって多彩な弟子を育てると共に、士大夫階級に数多くの信者を獲得し、遂には禅の正系の座を荷沢宗より奪ってしまった。(以上Wikipediaより)
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南岳磨甎(なんがくません:南岳が瓦を磨くという意味)
馬祖道一は僧として寺に住み、座禅に打ち込む生活をしていた。客人が来てもかえりみることがないほど必死に毎日座禅をしていた。それを聞きつけた南岳懐譲(なんがく・えじょう)が感心して馬祖を見にやってきたが、馬祖は南岳を見ることもしなかった
「お前はずっと熱心に坐禅を続けているが、何のために坐禅をしているのだ?」と南岳が尋ねた。
「仏になるためにやっております」と、ぶっきらぼうに馬祖は答えた。
すると南岳は外に行って一枚の瓦を持ってくると、馬祖の横に座って、石でゴシゴシと瓦を磨きはじめた。不快な音にたまりかねて馬祖が尋ねた。
「禅師、何をしておられのですか」
「きれいに磨いて鏡にしようとしておる」
「お言葉ですが、いくら磨いても瓦は鏡にはなりません」
「そうか。でも、それがわかっているなら、お前はどうして座禅をして仏になろうとしておるのだ? 人間はしょせん人間だ。いくら座禅で磨いたとしても、仏になれるわけはなかろう」
馬祖は驚いて尋ねた。
「座禅をして仏になれないのなら、一体どうしたらよいのですか?」
南岳は答えた。
「お前が牛車に乗っていたとする。そこでもし牛車が動かなくなったら、車を叩くか、牛を叩くか、どちらだ?」
南岳の問いかけに、馬祖は何も返すことができなかった。
「座禅をするということは、座っていることとも、横になっていることとも関係ない。一定の型にはまったものではないということを心に銘記すべきだ。また、座っているのが仏だと思っているのなら、仏は座ることとは何の関係もない。空である諸法を観ずるに、形でとらわれてはならない」
このこと以来、馬祖は南岳のもとで修業に励んだ。
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即心是仏(そくしんぜぶつ:心がすなわち仏であるという意味)
ある日、馬祖は人々にこう説法をした。
「仏の道を志す皆さんは、皆さんの心がとりもなおさず仏そのものであるということ、その心がすなわち仏の心であることを信じなさい。達磨大師は、インドの南天竺国から、この中国へ渡来され、もっとも尊い大乗そのものである心の本性を伝え、人々に説かれた。また、楞伽経(りょうがきょう)の文句を引き合いに出して、皆さんの心が仏心にほかならないことを明らかにされた。皆さんが誤解して、仏心は各自が皆もともと持っているということを信じないことを恐れられたのである。楞伽経にはこうある。「仏の教えは心を第一としている。心こそ教えである」。
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大珠が初めて馬祖のところへやってきた時のはなし。
「どこから来られた?」馬祖が尋ねた。
「越州大雲寺から参りました」
「何を求めてここへ来たのか?」
「仏法です」
「自らの宝の蔵を見ることもなく、自分の家を捨ててやってくるとは、どういうつもりだ? ここには何一つない。どんな仏法を求めようというのか?」
大珠は礼拝して尋ねた。
「それでは、私の宝の蔵とは何のことでしょうか?」
「今こうして私に問うているのがお前の宝の蔵である。すべてが備わっていて、何も欠けてはおらず、自由自在に使うことができる。どうしてあえて外側を探そうとしているのか。」
それを聞いて大珠は喜び、馬祖の弟子となった。
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あなたは、自身の心が仏陀であるということを理解しなくてはいけない。私が言おうとしているのは、あなたが何をしていようと、この心がそのままで仏陀なのだということである。
著衣喫飯(じゃくえきっぱん:日常のあらゆる営みが仏の心の現れであるという意味)
法を求める者は、求めるという気持ちを捨てなくてはいけない。心の他には仏はなく、仏の他に心はない。心が仏そのものである。善も思わず、悪も意識せず、清浄にも穢(けが)れにもとらわれない。罪の本性は空であるということを理解すれば、そんなものは存在しないとわかる。
三界は唯心である。森羅万象は心の現れであり、心を見ていることに他ならない。時と場所に応じて、淡々と行動すればよい。そうすれば、真理にも具体的なことにも沿うことになり、何の問題もない。悟りによって得られる仏の境地とはこのことである。
心によって生じるものを色(しき)と名付けているが、色は空である。色は空なりと知れば、生はすなわち不生である。もしこのことを理解できたなら、必要に応じて服を着たり、ご飯を食べたりして、淡々と悠々自適に暮らして、仏を宿している体を大切にしなさい。他にやるべきことはない。
平常心是道(びょうじょうしんこれどう:平生の心が仏の道であるという意味)
意図的な修行行為は仏の道とは何の関係もない。唯一為されなければならないことは、混乱から自由になることでけである。心が二元的な思考でいっぱいとなり、あれこれと固執することが混乱である。普通の心が仏の道である。普通の心は邪魔されず、意図的な行動から自由である。
もしあなたが何かを探しているなら、手に入るものは何もないということを理解しなさい。心の他に仏なし。仏以外に心なし。良い悪いという観念を作らず、段階やレベルを達成するという愚かな考えを捨てなさい。そうすればあなたは、束縛されないことの意味を理解するだろう。
形として見えるものは心の投影である。心それ自体では存在しえない。心は形を通して現れる。心について話す時は常に、見せかけと実在は完全に深く染み込みあっているということを理解しなくてはいけない。あなたが私の言っていることを理解すれば、あなたは自然に行動するようになり、状況に即応するようになる。仏の道と自然に調和するために、あなたが意図的に介入する必要はない。
もしあなたが、仏の道に入りたいと言うのなら、あなたの普通の心が仏の道であるということをよく理解しなくてはいけない。普通の心とは、作為的ではない心のことである。それは、ものごとを分割せず、良い悪い、高い低いと分割しない心のことである。それは、あなたの日常生活すべてにおいてそうである。朝から晩まで、すべてが仏の道である。
参考文献