臨済録
お前達、真の仏には形が無く、真の法には相(すがた)は無い。
それにもかかわらず、お前達はひたすら幻のようなものを、あれこれ思い描いている。
たとえ真の仏のようなものを求めることができたにしても、そんなものは皆な野狐が化けたようなもので、決して真の仏ではない。そんなものは外道の見方だ。
真の修行者は、決して仏を認めない。菩薩や阿羅漢も認めず、この世で有り難そうなものを問題としない。そんなものから独りはるかに超えて外物に依存することはない。
たとい天地が引っくり返ってもこの信念に変わりはないのだ。たとえ彼の目の前に十方の諸仏が現われても、少しも喜ばないし、
三途地獄(さんずじごく)がパッと現われも、少しも恐れない。どうしてこのようになるのだろうか。
わしが見ると、全ての存在は空相であって条件次第で有に変ったり、無のままである。この迷いの世界は唯だ心意識によって造られるのである。
夢や幻、空中の華のような実体のないものに心を煩わすことはないのだ。修行者達よ、今目の前で聴法している人だけが有って、
火に入っても焼けず、水に入っても溺れない。三途地獄(さんずじごく)に入っても、花園に遊ぶようだし、
餓鬼畜生道に落ちても苦しみを受けることはない。どうしてこのようになるのだろうか。それは何一つ嫌うものが無いからだ。
宝誌和尚も『汝がもし聖を愛し凡を憎めば、迷いの海に浮沈するだけだ。煩悩は心が作るものであるから、無心であるならば煩悩に縛られることはない。
姿形(すがたかたち)を分別することもなく、自然に道を体得できる』と言っているじゃないか。
お前達、脇道へそれてあたふたと学ぶならば、永遠に迷いの世界から抜け出ることはできないぞ。それよりは無事で何の造作もせず、僧堂の禅牀(ぜんじょう)の上に坐っていた方がましだ。(以上、禅と悟りより)
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