五十歳からの生き方 中野孝次
エッセイ集。中野孝次のエッセイは、基本となる内容はほとんど同じで、充実した一生を送るためには、欲望を追わず、静かな時間を過ごし、自足した生活をおくるということ。
具体例をあげると、たいてい良寛、セネカ、エピクロス、方丈記、徒然草が出てくる。金、地位、名声、欲望の充足に幸せはないと説く。もう何冊も読んで、内容はわかっている。ところが、何度読んでも飽きない。もっともっと読みたくなる。
何か所か印象に残ったところを引用しておきます。
p83 良寛の言葉の現代語訳
自分は生涯ずっと、人を争って立身出世しょうなどということが面倒で、何かになろうとしたことは一度もなく、すべて運命がみちびくままに任せてきた。だから生涯貧しく、今ここにあるものといったら、嚢の中に托鉢でいただいた三升の米、炉端に一束の薪だけだが、しかしわたしにはこれで十分だ。もう悟ったの迷ったのということも気になるぬ、まして名利のことなど。いまわたしは、夜の雨がしとしと降る草庵の中にいて、二本の脚をながながと伸ばしている。ころがわたしにとって至上境だよ。
p144
「今ココニ」以外に生きるところはない
人間一人ひとりの身に即して見れば、わたしにとって生きるのは「今ココニ」という時空があるだけである。きのうは去ってすでになく、明日は未だ来ないので存在せず、わたしは今日という一日の、それも「今ココニ」のみ生きている。棒のようにつらなった時間のどこかに位置しているわけではない。
しかもその「今ココニ」は、一瞬時だがたたちに永遠に直結している。永遠が今であり、今が永遠である。そしてその「今ココニ」がごろごろころがっていくところにわたしの人生がある。
そのように考えるようになったとき、わたしは何ものかの呪縛から解放されたような気がした。自分があらゆるものから完全に自由で、宇宙の中の「今ココニ」自分の全一個として生き、永遠と直結しているのだと感じた。死さえももう恐ろしくなく、生きている「今ココニ」が生の全体で、それの途切れたときが死だと考えると、人間にとってなすべきは「今ココニ」を全力で生きることしかない。死がきたら安んじて受け入れればいい、と思うようになった。
p193 加島祥造との対談の中で
中野 鈴木大拙の禅の著作にしろヨーロッパ人のほうがよく読んでいるからね。
結局『老子』のタオにしても禅にしても、最後に行き着くところは「一(いつ)」ですよ。すべてを主客に分別する西洋思想と異なって、主客に二分される前の「一」という世界だ。最も大本の所から自分たちの生命をつかまなくてはいけない。そういうことが欧米の人たちにわかってきたんだと思うよ。
p195
中野 結局はそこなんだよ。つまり自分を受け入れ、自分を肯定し、自分と仲良くして自分に安んずる。ここに行き着くんだ。僕は悟りや安心の境地というのはそれだと思うね。自分に徹底して安んずることができたら、もうどこにも行く必要がない。自分の中に全部そなわっていて、欠けたものがない。それ自身で充足している。いつでも死ねるということだから。
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中野孝次は非二元を理解しているかもしれない。
ソクラテスの弁明 プラトン/納富信留 訳
ソクラテスは、ソクラテスープラトンーアリストテレスと続くギリシアの哲学の元となった人。ソクラテスは石工を職業として、妻子と家庭を営む傍ら、街角で人々と対話する生活を送っていたが、70歳の時に突然、「不敬神」の罪で訴えられる。
当時のアテナイ(都市国家)の法律では、500人の裁判員の面前で公開討論を行い、500人の評決によって刑罰が決まった。ソクラテスは聴衆の面前で討論を行い、評決の結果、僅差で負けて死刑の判決を受ける。この本はそのソクラテスの弁明の様子と、それに対する翻訳者の解説からなる。
なぜ、ソクラテスが訴えられたかというと、常日頃ソクラテスは、当時信じられていた一般常識を振りかざす支配者層の人びとに対して、それが正しいことなのかと対話をもちかけ、ことごとく論破し、多くの若者を惹きつけていたため反感をかい、ソクラテスが若者をそそのかして社会秩序を乱しているという理由から。
ソクラテスの論法は一貫していて、「自分が知らないことは正直に知らないと言う」というもの。論戦を持ちかけられた者は、森羅万象の現象に対して、たいてい知ったかぶりをしているだけであっため、何も証明できない場合が多かった。
これを読んでいろいろ考えさせられました。私たちはいろんなことを知っているつもりになっていますが、実際には何も知らない。非二元の教えにしても、知らないことは知らないでいいし、わからないことはわからないでいい。知っているつもりはいけない。
ソクラテスの死刑を悲しんだ弟子や友に対してソクラテスは、悲しむことなど何もない。なぜなら、死が何なのかを知らないから。死のあとに魂が残るなら、また故人に逢えるのだからそれは良いことであり、死によって魂など無く、すべてが無となるなら、それは深い眠りにようなもので、それ以上の安楽はないのだからそれもいいと言う。
知らないことを知らないと知ることが考えることの大前提なのだという。
もっと詳しく知りたい方はアバタローを参考にしてください。よくまとまっています。
マルクス・アウレリウス「 自省録」 鈴木照雄 訳
この本はお手上げで、十分の一ほど読んだところで挫折。日本語が理解できないというか、頭に入ってこない。しょうがないのでアバタローを見た。よくわかる。でも、本は読めない。岩波版を読まないといけないのか、私の理解力が足りないのか。性に合わないものを無理に読んでもしょうがないのであきらめる。アバタローで参考になった部分は、人の非難や中傷は、たいていの場合、自身がマインドの中で作り出した想像の産物であるということ。