2021/08/21

Nondualism(非二元論)とは

英語版 Wikipedia で「Nondualism」を検索してみました。そこでは、日本語版の「一元論」よりも詳細な説明がされています。非二元論(Nondualism) という言葉は、アドヴァイタのことだけを指すのではなく、ウパニシャッド、アドヴァイタ、仏教、タオイズム(道教)、ゾクチェンなどの根底にある非二元の思想のことを指す。

英語版 Wikipedia の Nondualism(非二元論)にそのあたりが詳しく書かれているので、確認の意味を込めてを翻訳掲載しておきます。Wikipediaの記述を鵜呑みにしてよいのかという問題はあるし、記述が明快ではない部分もありますが、参考にはなると思います。

※この原稿は少し前に書いておいたのですが、ブログの更新にあたり元サイトを確認したところ、大幅に書き換えられていました。書き換えられたものは、かえって複雑でわかりずらいので、書き換え前のものをそのまま掲載します。

なお、一部の専門用語(宗教用語)や人名は辞書やネットで検索しても正確な訳語を見つけることができないため、原語のまま掲載します。

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Nondualism(非二元論)

スピリチュアルにおいて、非二元論、あるいは非二元は、「二つではない」あるいは「他には何もない未分割の一つのもの」という意味である。非二元とは元来、私と他者という二分法を「超越した」完成された意識の状態のことを指し、その時の意識は、「中心のないもの」「二分法のないもの」と描写される。この状態は自然に現われるように見えるかもしれないが、通常それは、禁欲や倫理的な禁止事項を伴う瞑想や瞑想的な訓練という長期の準備期間の後に起こる。(筆者注記:この、「現れる」「起こる」という表現には問題があると思います。現れもしないし、起こりもしないからです。理解が現れる、理解が起こると考えるなら、この表現でもよいと思います)

非二元の意識の描写は、ヒンドゥー教(アドヴァイタ、Turiya、sahaja)、仏教(空、pariniṣpanna、nature of mind、rigpa)、スーフィズム(Wahdat al Wujud、Fanaa、and Haqiqah) 、そして西洋のキリスト教や新プラトン主義(henosis, mystical union)の中で見つけることができる。

インドにおける非二元の思想は、ヴェーダとヴェーダ後のウパニシャッド哲学、仏教の伝統の中で発展した。インドにおけるもっとも古い非二元の痕跡は、仏教以前のBrihadaranyaka Upanishad and Chandogya Upanishadといったウパニシャッドの中に見られ、そこでは個人の魂であるアートマンと、究極の実在であるブラフマンとの一体を強調している。ヒンドゥー教において、非二元はより一般的にアジ・シャンカラのアドヴァイタ ヴェーダ-ンタの伝統と関連付けられてきた。

仏教の伝統において、非二元(advaya不二)は空(śūnyatā)の教えと、二つの教義、とりわけ、中論の非二元の教えである究極の相対的真実と、Yogachara( 唯識瑜伽行派)の「唯識」(citta-matra) 、すなわち「表象のみ」(vijñaptimātra)に関係している。こうした教えは仏性に関する教義とともに、その後、インドのみならず、東アジア、チベット仏教、とりわけ中国におけるChan(禅)と密教といった大乗仏教に大きな影響を及ぼす概念となった。

西洋の新プラトン主義は、キリスト教の観想と神秘主義の両方、そして西洋の秘教主義と現代の精神性、特にユニテリアン主義、超越主義、普遍主義、そして永遠主義の本質的な要素である。

目次(目次はその項目の個所にリンクが貼ってありますが、省略します)

1 語源
2 定義
3 ヒンドゥー教
 3.1 ヴェーダーンタ
 3.1.1 アドヴァイタ ヴェーダーンタ
 3.1.1.1 実在の 3 つのレベル
 3.1.1.2 仏教との類似点と相違点
 3.1.2 ヴィシュタドヴァイタ ヴェーダーンタ
 3.1.3 新ヴェーダーンタ
 3.2 カシミール・シヴァ派
3.3 現代の不二一元論
 3.3.1 ラマナ・マハルシ
 3.3.2 ネオアドヴァイタ
 3.3.3 ナータ・サンプラダヤとインチェゲリ・サンプラダヤ
4 仏教
 4.1 インド
 4.1.1 中観派
 4.1.2 唯識瑜伽行派の伝統
 4.1.3 その他
 4.2 東アジア
 4.2.1 中国
 4.2.2 禅
 4.2.3 韓国
 4.3 チベット
 4.3.1 Adyava: Gelugpa スクール Prasangika Madhyamaka
 4.3.2 シェントン
 4.3.3 ゾクチェン
5 シーク教
6 道教
7つの西洋の伝統
 7.1 ローマ世界
 7.1.1 グノーシス主義
 7.1.2 新プラトン主義
 7.2 中世のアブラハムの宗教
 7.2.1 キリスト教徒の観想と神秘主義
 7.2.2 ユダヤ教のハシディズムとカバラ
 7.2.3 イスラームにおける新プラトン主義
 7.3 西洋の秘教
 7.3.1 永遠の哲学
 7.3.2 オリエンタリズム
 7.3.3 超越主義とユニテリアン・ユニバーサリズム
 7.3.4 新ヴェーダーンタ
 7.3.5 神智学協会
 7.3.6 ニューエイジ
8 学術討論
 8.1 非二元意識と神秘体験
 8.1.1 開発
 8.1.2 批判
 8.2 共通の本質としての非二元的意識
 8.2.1 共通の本質
 8.2.2 批評
9 こちらもご覧ください
10 注意事項
11 参考文献
12 ソース
 12.1 公開されたソース
 12.2 ウェブソース
13 続きを読む
14 外部リンク
 14.1 中観派
 14.2 ラントンシェントン
 14.3 アドヴァイタ・ヴェーダーンタ
 14.4 アドヴァイタと仏教の比較
 14.5 ヘシカスム
 14.6 非二元意識

語源
非二元論に言及する場合、ヒンドゥー教は一般的にサンスクリット語の Advaita を使用するが、仏教は Advaya (チベット語: gNis-med、中国語: pu-erh、日本語: fu-ni) を使用する。

「アドヴァイタ」は、サンスクリット語の a (not)、 dvaita(二元論)、dual(二元的)に由来し、通常は「非二元論」、「非二元性」、「非二元」と訳される。 「非二元論」という用語と、その語源である「アドヴァイタ」という用語は、多様な意味を持つ言葉である。英語の nondualism の語源は、ラテン語で「2」を意味するduoで、接頭辞「non-」は「not」を意味する。

「Advaya」はまた、サンスクリット語で「アイデンティティ、ユニーク、二つではなく、一つもない」を意味し、通常、大乗仏教、特に中論の2つの真理の教義を指す。

アドヴァイタ(Advaita)という言葉の最も初期の使用の 一つは、Brihadaranyaka Upanishad (紀元前 800 年まで) の 4.3.32 節と、Mandukya Upanishad (紀元前 500 年から紀元前 200 年の間で書かれたとさまざまな日付がある) の 7 節と 12 節に見られる。この用語は、以下のように、アートマン (個人の魂) とブラフマン (普遍的な意識) の一体の説話を含むセクションのブリハダラーンヤカ ウパニシャドに現れる。

(ウパニシャドからの抜粋:省略)

英語の「Nondual」という用語は、1775年以降の英語以外の西洋言語でのウパニシャッドの初期の翻訳によっても知られた。これらの翻訳は、ミュラー (1823 年 - 1900 年) の記念碑的な仕事、東方聖典群集 (1879 年) から始まった。

マックス・ミュラーは、最近の多くの学者がそうであるように、「アドヴァイタ」を「一元論」と訳した。ただし、一部の学者は、「アドヴァイタ」は実際には一元論ではないと述べている。

定義
参照: 一元論、心身二元論、二元論的宇宙論、多元論 (哲学)。
非二元論はあいまいな概念であり、多くの定義を見つけることができる。

エスピン と ニコロフによると、「非二元論」は、ヒンドゥー教、仏教、道教の一部の学派における思想であり、一般的に言えば、宇宙の多様性は 一 つの本質的な実在に還元できると教えている。

しかし、古代から現代まで、さまざまなスピリチュアルや宗教の中に同様の思想や用語があるため、英語の「非二元性」という言葉の単一の定義では十分ではなく、様々な「非二元」や非二元の思想があるというのがベストであると思われる。

主体と客体の間の非二元性を道教、大乗仏教、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの共通項として見ているデビッド・ロイは、「非二元性の5つの特徴」を区別している。

正反対のペアにおける二元的思考の否定。道教の陰陽のシンボルは、この二元論的な考え方の超越を象徴している。
一元論、世界の非複数性。現象世界は複数の「もの」として現れるが、実在としては「一枚の布」である。
アドヴァイタ、主語と目的語の非二元性、あるいは主体と客体の間の非二元性。
アドバヤ、現象と絶対の同一性、「二元性と非二元性の非二元性」、中観派仏教に見られる相対的かつ究極的な真理の非二元性と、二つの真理の教義。
神秘主義、神と人間との間の神秘的な合一。

非二元論の考え方は、通常、二元論と対比されるが、二元論は、宇宙と実在の性質が、神と世界、または神と悪魔、または心と物質などの二つの現実から構成されているという見解として定義されている。

非二元性の考え方は、西洋の宗教や哲学でも教えられており、現代の西洋のスピリチュアルとニューエイジの思想において、魅力と人気を博している。

非二元性に関連するさまざまな理論や概念は、さまざまな宗教的伝統で教えられている。これには次のものが含まれる。

ヒンドゥー教(英語版Wikipediaのヒンドゥー教にリンクが貼ってありますがリンクは省略します)
・ウパニシャッドでは、主に tat tvam asi (タットバマシ・汝それなり)という非二元論的な方法で解釈された教義を教えている。
・シャンカラのアドヴァイタ ヴェーダーンタ では、単一の純粋な意識が唯一の実在であり、世界は非現実的(マヤ)であると教えている。
・Kashmira Shaivismや女神を中心とした Shaktism を含むヒンドゥー教のタントラ の非二元論。彼らの見解はアドヴァイタに似ているが、世界は非実在ではなく、意識の現れであると教えている。
・主にアドヴァイタとラマナ・マハルシやスワミ・ヴィヴェーカーナンダのような現代のインドの聖人が教えるヒンドゥー教のモダニズムの形態。

仏教(リンク省略)
・Shūnyavāda (空観) または Mādhyamaka (中論)学派は、従来の真実と究極の真実、および輪廻と涅槃の間にもまた非二元関係がある (つまり、真の分離はない)という見解である。
・Vijnānavāda あるいはYogachara( 唯識瑜伽行派) は、主体と客体、すなわち認識者と認識されるものとの間に究極の認識的、概念的な分割は存在しないと考えている。それはまた、意識だけがあると主張して、心身二元論に反対している。
・すべての存在は仏になる可能性があるというタタガタガルバの思想。
・ヴァジュラヤナ仏教 、ゾクチェン とマハムドラのチベット仏教の伝統を含む。
・禅 や華厳宗などの東アジアの仏教の伝統、特に縁起の概念。

タオイズム(道教、老荘思想)(リンク省略)
タオイズム は、タオ (文字通り「道」) と呼ばれる単一の微妙な普遍的な力または宇宙の創造力の思想を教えている。

スブド(リンク省略)

アブラハムの伝統(リンク省略)
マイスター・エックハルトやノリッジのジュリアンなど、「非二元体験」を促進するキリスト教神秘家。このキリスト教の非二元論の焦点は、崇拝者を神に近づけ、神との「一体性」を実現することにある。

スーフィズム(リンク省略)

ユダヤ教のカバラ(リンク省略)

西洋の伝統
・すべての現実の源はただ一つ、一つであると教えている新プラトン主義。
・ヘーゲル、スピノザ、ショーペンハウアーなどの西洋哲学者 は、さまざまな形態の哲学的一元論やイデオロギーを擁護した。
・ドイツのイデオロギーとインドの宗教の影響を受けた超越主義。

神智学(リンク省略)

ニューエイジ(リンク省略)

ヒンドゥー教

「アドヴァイタ」とは、ヴェーダーンタ、シャクティイズム、シヴァイズムでは、非二元論、実在としての非分割、つまり、実在としてのアートマン (個人としての自己) とブラフマン (単一の普遍的な存在) の一体性を意味する。アドヴァイタという用語は、アジ・シャンカラのアドヴァイタ ヴェーダーンタ学派からのものが最もよく知られているが、「アドヴァイタ」は、多くインドの中世の学者だけでなく、現代の学派や教師の論文で使用されている。

ヒンドゥー教のおけるアドヴァイタの概念は、宇宙のすべてが本質的な一つの実在であり、宇宙のあらゆる側面、様相は一つの実在の究極的な現れであると説く。ダスグプタとモハンタによると、非二元論は、ウパニシャッドの時代から、ヴェーダと仏教の両方のインドのさまざまな思想の中で発展した。インド思想における非二元論の最古の痕跡は、初期仏教よりも前に遡るチャンドガ・ウパニシャッドに見られると言える。先部派仏教もまた、チャンドギャ・ウパニシャッドの教えの影響を受け、アートマン・ブラフマンに関連した形而上学の一部を拒絶した可能性がある。

アドヴァイタは、アドヴァイタ・ ヴェーダーンタ、Vishtadvaita Vedanta (Vaishnavism)、Sudhadvaita Vedanta (Vaishnavism)、非二元の シヴァイズム および シャクティイズムなどのヒンドゥー教のさまざまな学派において、微妙に異なるニュアンスをともなって現れる。アジ・シャンカラのアドヴァイタ ヴェーダーンタでは、アドヴァイタとはあらゆる実在はブラフマンと一体である、つまりはアートマン(魂、自己)とブラフマン(究極の不変の実在)は一体であると説く。
いくつかのヒンドゥー教の伝統のアドヴァイタの考えは、二元論やドヴァイタを擁護する流派とは対照的で、例えばマドヴァチャリヤは、経験された現実と神は二つ​​(二元的)で別個のものであると述べた。

ヴェーダーンタ
ヴェーダーンタのいくつかの学派では、非二元論の形式を教えている。最もよく知られているのはアドヴァイタ ヴェーダーンタであるが、他の非二元論のヴェーダーンタ派も重要な影響力を持ち、ヴィシュタードヴァイタ ヴェーダーンタやシュッダドヴァイタ などもあり、これらは両方とも bhedabheda (不一不異説)である。

アドヴァイタ ヴェーダーンタ
白鳥はアドヴァイタの重要な象徴。
アドヴァイタ ヴェーダーンタの非二元性は、ブラフマンとアートマンの同一性である。 アドヴァイタは、インドの文化と宗教の幅広い流れとなり、カシミール シヴァ派のようなその後の伝統に影響を与えた。

アドヴァイタ ヴェーダーンタの現存する最古の写本は、伝承によると、ゴヴィンダ バガヴァットパーダの師であり、アディ シャンカラの祖父と見なされてきたガウウィボリ ウアパーダ (西暦 6 世紀) によるものである。 アドヴァイタ は、アジ・シャンカラ (788-820 CE) の アドヴァイタ ヴェーダーンタの伝統から最もよく知られている。彼は、単一の統一された永遠の真実であるブラフマンは、純粋な存在、意識、愛・至福 (Sat-cit-ananda) であると述べている。

ムルティによれば、アドヴァイタとはブラフマンと自己意識(識者)に違いがないいという知識である。ヴェーダーンタのゴールは、「真に実在する」ものを知り、それと一体になることである。アドヴァイタ ヴェーダーンタによると、ブラフマンは究極の実在である。アドヴァイタ哲学によると、宇宙は単にブラフマンから生ずるのではなく、ブラフマンそのものである。ブラフマンは、宇宙に存在するすべてのものの多様性の背後にある単一の拘束力のある統一体である。ブラフマンは、すべての変化の原因でもある 。ブラフマンは「全世界で実現される創造的原理」である 。

アドヴァイタ の非二元論は、個人の「実在としての自己」、「本質」、およびヒンドゥー教の概念で魂を意味するサンスクリット語のアートマンの上になりたっている。アートマンは第一原理であり、 現象との同一化を超えた個人の真の自己であり、個人の本質である。アートマンは普遍的な原理であり、永遠の未分化な自ら輝く一つの意識であると、ヒンドゥー教のアドヴァイタ ヴェーダーンタ派は主張する。

アドヴァイタ ヴェーダーンタの哲学では、アートマンは自己存在的な意識であり、無限で非二元的であり、ブラフマンと同じであると考えている。アドヴァイタ派は、ブラフマンと完全に同一である各生命体の中に「魂、自己」があると主張している 。このアイデンティティは、その姿や形に関係なく、すべての生き物につながっていて、存在する一つの魂があるとする。その形や形に関係なく、区別はなく、優れたものも劣ったものも別の献身者の魂(アートマン)も別の神の魂(ブラフマン)もない。一つのものはすべての存在を統合し、すべての存在の中に神性があり、すべての存在は単一の実在であると、アドヴァイタ ヴェダンティンは述べている。アドヴァイタ ヴェーダーンタの非二元論の概念は、各魂は無限のブラフマンと異なるものではないと主張している。

(ここからは必要と思われる個所のみ翻訳します)

仏教との類似点と相違点

学者たちは、共通の用語と方法論、およびいくつかの共通の教義を考えると、アドヴァイタ ヴェーダーンタは大乗仏教の影響を受けたと述べている。 Eliot Deutsch と Rohit Dalvi は次のように述べている。

いずれにしても、大乗仏教とヴェーダーンタの間には密接な関係があり、後者は前者の特定の教義ではないにしても、弁証法的技法の一部を借用している。

アドヴァイタ ヴェーダーンタは仏教哲学に関連しており、二つの真理の教義や意識のみが存在するという教義 (vijñapti-mātra) などの考えを支持している。アドヴァイタの哲学者ガウダパーダが仏教の思想に影響を受けた可能性はある。シャンカラはガウダパーダの考えをウパニシャッドのテキストと調和させ、正統なヒンドゥー教の非常に影響力のある学派を発展させた。

仏教用語 vijñapti-mātra(唯識) は、citta-mātra (知)という用語と同じ意味で使用されることがよくあるが、それらは異なる意味を持っている。両方の用語の標準的な翻訳は、「意識のみ」または「心のみ」である。 アドヴァイタ ヴェーダーンタは学者によって「理想主義の一元論」と呼ばれてきたが、このラベルに同意しない人もいる。中観派とアドヴァイタ ヴェーダーンタの両方に見られるもう一つの概念は、ガウダパーダがナーガルジュナの哲学から採用した Ajativada ("ajāta"不生)である。ガウダパーダは二つの教義をMandukayaウパニシャッドに組み込み、それはシャンカラによってさらに発展した。

マイケル・コマンズは、仏教の思想とガウダパーダの思想との間には根本的な違いがあると述べていている。仏教には「あらゆるものには自性がなく、あるゆるものはその本質において空である」という縁起の教義を哲学的根拠としているのに対して、ガウダパーダにはそれが全くない。ガウダパーダのアジャティヴァーダ(不生論)は、本質的な性質(自性)を持つ「生まれていない(aja)実在(sat)が存在する」という不変の非二元的現実に適用された推論の結果であり、これは「永遠、恐れ知らず、衰えることのない自己」であり、朽ちることのない自己(アートマン) とブラフマンである。このように、ガウダパダはナガルジュナのような仏教学者とは異なり、その前提を受け入れ、ウパニシャッドの基本的な教えに頼っているとComansは言う。とりわけ、ヒンドゥー教のヴェーダーンタ派は、「アートマンは自明の真実として存在する」という前提を持ち、その概念を非二元論の理論で使用している。対照的に、仏教は、「アートマンは存在しないのは自明である」という前提を保持している。

マハデヴァンは、初期仏教がウパニシャッドの用語を採用し、その教義を仏教の目標に適合させたように、ガウダパーダが仏教の用語を採用し、その教義をヴェーダンタの目標に適合させたことを示唆している。どちらも、既存の概念とアイデアを使用して新しい意味を伝えた。ダスグプタとモハンタは、仏教とシャンカラのアドヴァイタ ヴェーダーンタは対立するシステムではなく、「ウパニシャッド時代からサンカラ時代までの同じ非二元的形而上学の発展の異なる段階」であると述べている。

ラマナ・マハルシ(リンク省略)

ラマナ・マハルシ (1879年12月30日-1950年4月14 日) は、現代の傑出したインドの指導者の 1 人として広く認められている。 ラマナの教えはしばしばアドヴァイタ ヴェーダーンタと解釈されるが、ラマナ・マハルシは「いかなる公認の権威からもディクシャ (イニシエーション) を受け取った」ことはない。 ラマナ自身は、彼の洞察をアドヴァイタとは呼ばなかった。

ネオ・アドヴァイタ(リンク省略)

ネオ・アドヴァイタは、アドヴァイタヴェーダーンタの現代的西洋的解釈、特にラマナマハルシの教えに基づいた新宗教運動。Arthur Versluis によると、ネオアドヴァイタ は、彼が即席主義と呼んでいる大きな宗教的潮流の一部である 。特定の宗教的伝統の中での準備的な実践なしで、即時のスピリツアルの成就を主張する。ネオ・アドヴァイタは、この即時性と準備の実践の欠如によって批判されている。著名なネオ・アドヴァイタの教師はHWL・プーンジャジ(パパジ)と彼の生徒のガンガジ、アンドリュー・コーエン、およびエックハルト・トール。

仏教

非二元すなわち「二つではない」(advaya 不二)に対応する仏教の見解にはさまざまなものがある。仏陀は、最も初期の仏教の経典ではアドバヤ(advaya 不二)という用語を使用していないが、維摩経のような大乗経典のいくつかには出てくる。仏陀はウパニシャッド思想で一般的に教えられている精神的統合状態のサマーディと瞑想的没我の状態のディヤーナを説いたが、ウパニシャッドの形而上学的な教義、特にヒンドゥー教の非二元と関連する様な教義、たとえば、「この宇宙が自己である」「すべては一つのものである」ということを拒絶した。このため、非二元論に対する仏教の見方は、理想主義的な一元論に向かう傾向があるヒンドゥー教の概念とは特に異なる。

インドにおいて
カメシュワル・ナス・ミシュラによれば、インドのサンスクリット仏典におけるアドバヤ(advaya 不二)の意味の1つは、それが2つの反対の極(たとえば永遠主義と消滅主義など)の中道を指しているがゆえに、「2つではない」ということです。

(以下、仏教の中観派 唯識瑜伽行派の伝統、ゾクチェンなど、興味深い項目が続くのですが、専門用語が多くて手におえないためここで終わりとさせていただきます。中観派、唯識瑜伽行派については、今後のブログに書く予定です

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繰り返しになりますが、非二元とはアドヴァイタのことではなく、さまざまな宗教、哲学の伝統伝承の中にある「二つではないもの」という思想のことです。世界中に仏教やアドヴァイタを源流としない非二元の思想があります。

私がこれから書こうとしているのは、仏教の中にある非二元についてですが、それは非二元の教え全体から見れば、ほんのごく一部にすぎないということがわかると思います。

私は学者でも僧侶でもなく、仏教の専門家でもないので、それぞれの教えを深く解説することはできませんし、そういう趣旨のブログでもありません。あくまでも、その根底にある非二元的な部分にのみ焦点を当てていくことになります。