2021/08/28

ネオ・アドヴァイタとは

アドヴァイタとはヒンドゥー教の中のヴェーダーンタ学派の思想、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)のことであるということを、前二回のブログで書きました。

その中で、ネオ・アドヴァイタという言葉が出てきました。セイラーボブはネオ・アドヴァイタなのかという疑問がわいたので調べてみました。結論を先に言うと、セイラーボブはネオ・アドヴァイタではないと思います。

日本語で「ネオ・アドヴァイタ」と検索してもWikipediaに出てこないので、英語版のWikipediaで「Neo advaita」と検索して出てきたものを翻訳掲載します。専門用語や人名の厳密な訳語を探すのは時間的な制約上難しいため、正確ではないということをご了解ください。

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Neo-Advaita (ネオ・アドヴァイタ)

ネオ・アドヴァイタとは、非二元論をともなうサットサングムーブメントと呼ばれ、準備段階の修行を必要とせずに、「私」または「自我」が存在しないということを直接認識することを強調する新宗教運動である。その教えは20世紀の賢者ラマナ・マハルシの教えに由来し、H.W.L.プンジャジ(パパジ)や何人かの彼の西洋人の生徒によって解釈普及したものであるが、マハルシ公認というわけではない。

これは、アーサー・バーズルイスによる直知説と呼ばれる、より大きな宗教的潮流の一部であり、西洋と東洋の両方の精神世界にルーツがある。西洋での影響としては、超絶主義や「ニューエイジの千年紀、自己啓発、自己療法」のような、秘教的な伝統に対するものがある。

ネオ・アドヴァイタは「アドヴァイタ・ヴェーダーンタの伝統的な言語や文化的枠組み」をほとんど使用していない。そのため、準備段階の修養が欠如しており、ネオ・アドヴァイタによって誘発されるエンライトメントの体験は表面的であると批判する人もいる。

目次(省略)

教え

ネオ・アドヴァイタの基本的な実践は、「私は誰か?」という質問による自己探索、または単に「私」または「自我」が存在しないということを直接認識することである。この認識は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタにおけるアートマンとブラフマンが同一であるという認識、もしくは「形のない自己」を認識することと同じであるとされる。ネオ・アドヴァイタの人たちによると、準備段階の修養は不要で、経典や伝承の長期にわたる学習は必要ではなく、洞察だけで十分であるという。

ネオ・アドヴァイタ運動の主要な推進者の一人として知られているプンジャジは、この自己認識によって、カルマの結果による再生からの解放をもたらすと考えた。プンジャジによれば、「エンライトメントの後もカルマの影響は残っているが、エンライトメントした人はもはやカルマと同化することなく、それ以上のカルマを積むこともない」という。コーエンによれば、プンジャジは「自己実現は世俗的な行動とは何の関係もないと主張し、エゴを完全に超越することが可能であるとは信じてはいなかった」。プンジャジにとって、倫理的基準は二元性に対する二元論的な理解と個人が動作主であるという概念に基づいており、「非二元的な悟り」を示すものではなかった。プンジャジにとっての目標は自己実現であり、相対的な現実という幻想的な領域は最終的には重要ではなかった。

歴史

ルーカスとフローリーによると、ネオ・アドヴァイタの精神的なルーツはラマナ・マハルシであり、その教えと自己探求の方法は、北米のリベラルな精神的サブカルチャーと簡単に置き換わることができた。インド宗教に対する一般的な関心は19世紀初頭にまでさかのぼり、アメリカの超絶主義者と神智学協会によって活気づけられた。1930年代、ラマナ・マハルシの教えは、神智学者のポール・ブラントンが「秘密のインドでの捜索」で西洋にもたらした。アーサー・オズボーンに刺激されて、1960年代にバガワト・シンはラマナ・マハルシの教えをアメリカで積極的に広め始めた。

1970年代以降、アジアの宗教に対する西側の関心は急速に高まっていった。 ラマナ・マハルシの教えは、H.W.L.プンジャジと彼の生徒たちを介して西側でさらに普及した。 パパジとしてよく知られているプンジャジは、「一回または多くの強力な目覚めの経験をしたという理由だけで、何百人もの人たちに対して、彼らが完全に悟りを開いたと告げ、彼らがそれを信じることを許した。ネオ・アドヴァイタ あるいはサットサングムーブメントは、人気のある西洋のスピリチュアルの重要な構成要素になっている。それはその教えに簡単にアクセスできるウェブサイトや出版企業によって広められている。

ラマナ効果

ルーカスは、西洋でのラマナ・マハルシの教えの普及を「ラマナ効果」と呼んでいる。ルーカスによれば、ラマナ・マハルシは、目覚めを達成するための手段として、「私は誰か?」という質問を強調することでよく知られている、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの最も偉大な現代の支持者だった。ルーカスによれば、この運動の成功はトーマス・ソルダスの存在に続いて、「携帯できる実践」と「転移可能なメッセージ」によるものだという。ラマナ・マハルシの主な実践である「私は誰か?」という質問による自己探求は、制度化されていない状況でも簡単に実践できる。彼の訪問者と信者は、自己探求を実践するために、ヴェーダーン文化を採用したり、制度やイデオロギーに自分を合わせたりする必要はなかった。ラマナの教えは西洋の状況に置き換え可能だった。ラマナ・マハルシは人々に改宗を要求せず、聖書から引用するなど、西洋の宗教に精通していた。ネオ・アドヴァイタの教師たちは、アドヴァイタの伝統的な言語と世界の枠組みをあまり重要視せず、現代の心理学化された世界の枠組みを利用して、より多くの聴衆が簡単にアクセスできる自助の形として、自らの教えを提示した。

西洋における言説

「アジアのエンライトメントの伝統」に対する西洋のアプローチは非常に折衷的であり、様々なアジアの伝統に加えて「心理学、科学、政治などの多数の西洋の言説」を利用している。 ネオ・アドヴァイタはその教えを伝えるために「ニューエイジの千年王国主義、禅、自己啓発、自己療法」などの西洋の言説を利用している。それは「アドヴァイタ・ヴェーダーンタの伝統的な言語や文化的な枠組み」をほとんど使わず、「その社会的、倫理的、政治的な側面を無視して」、西洋的な経験的・多年的な神秘主義の枠組みで構成されている。 この「現代的な経験的・多年的な神秘主義の枠組み」は、Perennialism(多年主義)、つまりすべての宗教には共通する神秘的な核があり、それは個人的な経験によって経験的に検証できるという考えに基づいている。これはアジアの宗教に対する西洋での理解に浸透しており、スワミ・ヴィヴェカナンダやサルヴェパリ・ラダクリシュナンのネオ・ヴェーダーンタに見られるほか、鈴木大拙の著作や禅宗の「decontextualized and experiential account 文脈を排除した経験的な説明」にも見られる。 また、神智学協会や、オルダス・ハクスリーの『多年哲学』や『知覚の扉』、ケン・ウィルバーのような作家に影響を受けた現代のニューエイジ文化にも見られる。

グレッグ・ラフッドはまた、アメリカの超越主義、ニューエイジ、トランスパーソナル心理学、ケン・ウィルバーの作品に例示されているように、「宇宙的異種交配、精神的な楽園が結びつくプロセス」の要素としてネオアドヴァイタに言及している。 ブラウンとレレダキはこの「異種交配」を「構造化主義」のアプローチと位置づけており、これは「歴史的な過去」との連続性を主張しているものの、「発明された伝統」であり、それは「ほとんど事実無根」であると指摘している。ブラウンとレレダキはこれらの新しく登場した伝統を西洋のオリエンタリズムの一部として捉えており、それは西洋文化が東洋文化に魅了されることであり、同時に「アジアの社会、その人々、慣習、文化を『他者』という本質主義者的なイメージに還元すること」でもある。 ブラウンとレダキはまた、このオリエンタリズムは一方通行ではなく、「過去150年の間、様々な宗教的伝統のアジアと西洋の代表者の間にはダイナミックな相互作用があった」とし、この「思想と実践の融合」は東西双方のモダニズムの宗教運動からの共創であると指摘している。

アーサー・ヴェルズリュイスによれば、ネオ・アドヴァイタは、彼が即席主義(直知説)と呼ぶより大きな宗教的潮流の一部である、「特定の宗教的伝統の中で、あまり準備的な練習をしなくても、すぐにスピリチュアルな啓示が得られると主張すること」である。 その起源はアメリカの超越主義に先立つものである。バーズルイスは『American Gurus: From Transcendentalism to New Age Religion』の中で、即席主義のグルたちの出現について述べている。即席主義のグルたちとは、伝統的な宗教とは一切関係なく、即座に悟りと解放を約束するグルたちのことである。 "ヴェルズリュイスによれば、即席主義は「宗教の果実は欲しいが、その義務はいらない」というアメリカ人にとって典型的なものである。 即席主義はヨーロッパの文化と歴史にそのルーツを持ち、プラトン主義にまで遡り、多年主義も含んでいるが、ヴェルズリュイスはその重要な祖先としてラルフ・ウォルドー・エマーソンを挙げており、彼は「即時的で直接的な精神的知識と力の可能性を強調していた」。

批判

ネオ・アドヴァイタは「物議を醸す運動」と呼ばれており、準備のための修行を省き、洞察のみに重点を置いていると批判されている。また、ラマナ・マハリシの「系譜」に言及していることも批判されているが、ラマナは弟子がいると主張したことはなく、後継者を指名したこともない。

洞察と実践

洞察だけでは不十分である

「自我という幻想」を見抜くことがネオ・アドヴァイタの主眼であるが、それだけでは不十分だという批判する者もいる。キャプランによれば、これらの教師や彼らのサットサングによって誘発されるエンライトメントの体験は、表面的なものだと考えられている。

修行が必要である

デニス・ウェイトによれば、ネオ・アドヴァイタは無知を取り除くと主張しているが、無知を取り除くための助けは提供していない。 キャプランによれば、伝統的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタは何年もの修行を要するが、ネオ・アドヴァイタはそうではない。古典的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタでは、生徒を鍛えてモクシャを得るために「四つの修行」(sādhana-catustaya)を用いる。何年にもわたる献身的な修行は、いわゆる「ヴァザナ、サムスカーラ、身体の鞘とヴリッティ」、「グランティまたは自己と心の間の識別を形成する結び目」といった「閉塞感」を断ち切り破壊し、非二元性への洞察のために心の準備するために必要とされる。

スピリチュアルな迂回

ジェフ・フォスターとアンドリュー・コーエンは、ネオ・アドヴァイタ・コミュニティの指導者たちが、感情的な痛みやトラウマの表現を精神的な未熟さを示すものとして排除する傾向があると批判しているが、これはスピリチュアル・バイパシング(精神的な回避)と呼ばれる行為である。二人とも、自分自身の洞察や「覚醒」によって、個人的でエゴイスティックな感情、願望、恐怖を持つ人間であることがなくなったわけではなく、そうしたことは、健全な精神的成長と相反するものではないと考えている。どちらも「スピリチュアル・バイパス」という言葉は使っていないが、コーエンは「ブレークスルーを生み出そうとする誤った努力」が一部の生徒に「多くの害」を与えたことを認めている。

系統

西洋の批評家たちは、ラマナ・マハリシとネオ・アドヴァイタの間にあると思われている関係に異議を唱えている。ラマナはいかなる系統(系譜)も口にしたことはなく、自らをグルと言ったことも、弟子がいると公言したことも、後継者を任命したこともない。にもかかわらず、ラマナの系統であると主張したり、示唆したり、あるいは他の人から言われたとする現代の教師たちが数多くいる。 また、ラマナやニサルガダッタ・マハラジのような志を持つ教師たちは、料金や寄付を請求しなかったことにも言及している。

反論

これらの批判に対して、トニー・パーソンズは、古典的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタは「多くの教えや文献を持つ既存の宗教の一つに過ぎず、その全てが非常に十分かつ一貫して的外れである」と書き、それは「最終的な精神的充足を約束する個人的な教化の多くのシステムの一つ」であるとみなしている。 パーソンズによれば、古典的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタは、「エンライトメントすることができる独立した個人のようなものが存在するという根本的な誤解から生まれたものであるため、解放とは無関係である」と言う。彼によれば、それは一つであること(アドヴァイタ)に対する直接の否定であるという。

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セイラーボブは自らのことをアドヴァイタの系統の人だと言ったことはなく、ましてやラマナ・マハルシの系統の人であると言ったこともありません。また、プンジャジ(パパジ)のように、自らが「覚醒した」もしくは「何かを手に入れた」と言ったこともなく、エンライトメントや覚醒を説いたこともありません。そういう意味で言うなら、セイラーボブはネオ・アドヴァイタではないということになります。

ただし、古典的、伝統的アドヴァイタとの比較において、現代の非二元の語り部たちをひとまとめにしてネオ・アドヴァイタと呼んでいる人たちもいます。でも、自らをアドヴァイタの教えの継承者であると名乗らない非二元の語り部たちを、ひとまとめにしてネオ・アドヴァイタと呼ぶのは間違いだと思います。

前回のブログで出てきたパパジやガンガジはアドヴァイタの系列と言えるかもしれませんが、エックハルト・トールはそうではない。そもそも、ネオ・アドヴァイタという呼び方は一種の蔑称であり、好ましいものとは言えない。

Advaita Vision というサイトでは、現代の非二元の語り部たちも含めてアドヴァイタの語り部として掲載していますが、これは明らかに誤りであり、あえて扱うとするなら、Nonduality(非二元) というくくりで扱うべきだと思います。

ニサルガダッタ・マハラジがアドヴァイタの系統の人だったことは間違いないとは思いますが、セイラーボブはいかなるアドヴァイタの流派にも属していないと明言しています。

アドヴァイタの系統(系譜)ということ自体がナンセンスであり、信頼に値するものかどうかは別として、Advaita Vision にある系統図を掲載しておきます。なお、シャンカラを開祖とする伝統的なアドヴァイタ(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)は今でもいくつかの僧院がインドに存在し、シャンカラという名を代々受け継いだ人たちによって運営されています。

ニサルガダッタ・マハラジ、セイラーボブの系統

ラマナ・マハルシ、パパジの系統

シャンカラの系統