アドヴァイタとは、ヒンドゥー教の中の一つの学派の、「二つではない」(ad=ではない、vaita=二つ)という思想のこと。個人としての魂(アートマン)と宇宙を支配する原理としての神(ブラフマン)が二つあるのではなく、それらは一つのものであるという思想のこと。
多くの人が、アドヴァイタ=非二元だと思っているが、そうではない。非二元という思想の中の一つとしてアドヴァイタがある。
「不二一元論(ふにいちげんろん、サンスクリット語: अद्वैत वेदान्त、Advaita Vedānta、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、Kevalādvaita)とは、インド哲学・ヒンドゥー教のヴェーダーンタ学派において、8世紀のシャンカラに始まるヴェーダンタ学派の学説・哲学的立場である。これはヴェーダンタ学派における最有力の学説となった。不二一元論は、ウパニシャッドの梵我一如思想を徹底したものであり、ブラフマンのみが実在するという説である」(Wikipedia 不二一元論より)
「梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。」(Wikipedia梵我一如より)
アドヴァイタについて、不二一元論をWikidediaで読んでも、イマイチよくわからない。英語版でAdvaita を読むと、もっとややこしい。
アドヴァイタとは、もともとはバラモン教(のちのヒンドゥー教)にあった梵我一如の思想を8世紀のインドの哲学者シャンカラが大成させた哲学体系のこと。梵我一如、シャンカラについて、もう少し詳しく調べてみることにした。そこでまずは、ヴェーダのウパニシャッドの梵我一如思想の思想というものを調べて、そのあとでシャンカラについても調べることにしました。まずはインドの歴史から。
およそ紀元前2000年ごろ、現在のパキスタンのインダス河流域にインダス文明が栄える。その後、およそ紀元前1500年ごろ、北方よりインド・アーリア人が侵入して、原住の人々を征服して一帯を支配し始める。支配する過程で、宗教、祭式をつかさどる僧侶(バラモン・婆羅門)を最上位の階級に置き、祭祀や式典のやり方を決め、それを伝承したヴェーダが生まれた。
バラモン教では、バラモンが祭祀をすることによって人々の願いを神に告げ、神によって人々の願いがかなえられる。祭祀儀式をしなければ幸せになることも、死後に天に生まれることもできない。その祭祀儀式のやり方を規定しているのがヴェーダ。
ヴェーダはインド・アーリア人が編纂したバラモン教の聖典群(哲学書)の総称で、神の言葉をリシ(仙人)が記録したものとされ、バラモンの人たちには絶対的な権威を持つ。ヴェーダという一冊の書籍があるわけではなく、長期間(およそ紀元前1200年から紀元前500年)にわたって成立した多数の書簡(初期には口伝された)の総称のことを指す。
翻訳されたヴェーダを読んでも、例えば聖書を読むようなもので、解説がなければ理解できないため、学者でもなければ、解説した本を読む以外にない。そもそも膨大なヴェーダの翻訳集(聖書みたいなもの)は、調べた範囲では日本では出版されていないため、学者が部分的に翻訳出版したものを読むしかなく、その解釈は学者の解説に頼る以外にないが、わかりやすいとは言えない。
時代背景
輪廻思想
インドの古代の人たちは、人間は肉体と霊魂でできているという、二元論を信じていた。物質である肉体は必ず滅びるが、物質ではない霊魂は永遠不滅で、次の生を求めてさまようものと考えた。肉体は大地にかえり、霊魂は天界に昇るとし、その人の生前の行いによって霊位が上下し、次に宿るべき肉体が決まると信じた、これが輪廻という考え方の基本。
バラモン教は、この輪廻思想をもとに、生前のその人の信仰の度合いによって決まる霊位、つまり次に生まれ変わる境涯を「天界」、「人間」、「畜生(ちくしょう)」、「餓鬼(がき)」、「地獄」の5種類とした。これを「五趣」、あるいは「五道」と呼ぶ。バラモン教では、この死後に関わる「五趣」の思想を、現世の社会階級にまであてはめていった。それがカースト制(ヴァルナ)。
カースト制
階級制度としてカースト制があった。
バラモン…最上位。宗教・祭式を司る。
クシャトリヤ…二番目。王侯・武人。
ヴィシャ………庶民
シュードラ……奴隷。
さらにその下にアウトカーストとしてのチャンダーラ。
カースト制では、いったんその階級に生まれると、生涯階級が変わることはない。
バラモン教を熱心に信仰し、徳を積むことで、次の人生では上位の境涯に生まれ変われるという希望はあったが、最下位のシュードラにはそれさえなく、シュードラは永遠にシュードラのままである。
バラモン階級だけが神々に対して、ヴェーダ(聖典)にもとづく祭祀を通じて願い事をする力があると信じられていた。
ヴェーダの構成とウパニシャッド
ヴェーダには次の四種類があり、それぞれのヴェーダは膨大な数にのぼる。
リグ・ヴェーダ…………神々を祭場に招き、賛歌によって神をたたえるホートリ祭官のための賛歌。
サーマ・ヴェーダ………歌詞を一定の旋律にのせて歌うウドガートリ祭官のための歌詞。
ヤジュル・ヴェーダ……祭祀を行い、供物をささげるアドヴァリウ祭官が唱える歌詞。黒ヤジュル・ヴェーダと白ヤジュル・ヴェーダがある。
アタルヴァ・ヴェーダ…祭式全般を総監するブラフマン祭官に所属し、幸福を願ったり、他人を呪ったりするための呪詞。
上記四つのヴェーダは、各々次の四つの部分から構成される。
本集…………ヴェーダの中心部分でマントラ(賛歌・歌詞・祭詞・呪詞)を集めた部分。
ブラーフマナ(祭儀書)…本集に付属の散文。祭式の仕方や神学的説明。
アーラニヤカ(森林書)…森林の中で教えられる秘儀や式典の説明。
ウパニシャッド(奥義書)…哲学的部分。ヴェーダーンタ(終結部)とも呼ばれる。およそ紀元前500年ごろを中心に成立。インド哲学の源泉と言われ、ここにアドヴァイタのもととなる梵我一如の思想があるとされる。
バラモン教とヒンドゥ教
バラモン教 Wikidedia
ヒンドゥ教 Wikipedia
バラモン教とは、バラモン階級を中心としたヴェーダにもとづく宗教。ヒンドゥー教はバラモン教を基盤として発展したインドの民族宗教。広義にヒンドゥー教と言った場合はバラモン教を含んでいる。両宗教は西洋人が人為的に分類を分けただけで、インドの人たちはヒンドゥー教とは呼んでいない。ヒンドゥー教は本来インドにおける、イスラム教、仏教、ソロアスター教、ユダヤ教、キリスト教を除く、混沌とした宗教・文化の複合体による便宜的な呼称。
神々
バラモン教、ヒンドゥー教は多神教であり、数多くの神が信仰の対象となっている。バラモン教の時代にはヴェーダに登場する神々として、インドラ、ヴァルナ、アグニ、サラヴァティー、ブラフマーなどであったが、ヒンドゥー教においては、バラモン教では脇役的な役割しかしていなかったヴィシュヌやシヴァが重要な神となった。
インドラは帝釈天として、ヴァルナは水天、ブラフマンは梵天、サラヴァティーは弁財天として仏教経由で日本にもなじみがある。ただし、仏教における梵天はバラモン教におけるブラフマー(ブラフマン)とは同じではなく、仏教における梵天は神としての一人であるのに対して、バラモン教のブラフマーは全宇宙を司る絶対的な存在としての神である。
バラモン教ではやがて、ではいったい神を創造したのは誰かと考えるようになり、その思想が梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)へと発展していく。
バラモン教の教義
神々への賛歌『ヴェーダ』を聖典とし、天・地・太陽・風・火などの自然神を崇拝し、司祭階級が行う祭式を中心とする。そこでは人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる。人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き、無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める。転生輪廻(サンサーラ)は、インドのバラモン教の思想である。この教えによれば「人間はこの世の生を終えた後は一切が無になるのではなく、人間のカルマ(行為、業)が次の世に次々と受け継がれる。この世のカルマが“因”となり、次の世で“果”を結ぶ。善因は善果、悪因は悪果となる。そして、あらゆる生物が六道〔①地獄道、②餓鬼道、③畜生道、④修羅道(闘争の世界)、⑤人間道、⑥天上道〕を生まれ変わり、死に変わって、転生し輪廻する。これを六道輪廻の宿命観という。何者もこの輪廻から逃れることはできない。それは車が庭を巡るがごとしと唱える。(Wikipediaより)
さてここからが本題。輪廻から抜け出すためには、ブラフマンとアートマンが同一(梵我一如)であることを知らなければならない。つまり、宇宙の最高神である梵(ブラフマン)と、真の自己であるアートマンが同じものであるということを知らなければならない。そしてその方法はヴェーダの中のウパニシャドにある。そこで私はウパニシャドに関する本を何冊か読んだ。
ウパニシャドにおける解脱とは、梵我の本質を悟って、この本体と合一することである。「実にかの最高梵を知る者は梵となる」(ムンダカ3・2・9)。ただしここに「知る」というのは、経験的知識或いは学問上の知識を指すのではない。「無知を信奉する者は、あやめもわかざる暗黒に陥る。知(理性による知識)に喜びをもつ者は、さらに甚だしき暗黒に陥る」(イーシャー12)。無知に蔽われながら、みずから賢明にして学識ありと妄想するものは危い。解脱は普通の知・無知を超えた真知にまつほかほかなく、ここに、真知に到達する手段が問題となる。
ウパニシャッドの教えるところに従えば、感覚を制御し、欲望を絶ち、禁欲に服し、瞑想によって精神を統一し、思いを梵我のみに集中する修行がもっとも有効である。なんとなれば、欲望を離れたところに業の束縛はおよばないからである。(インド文明の曙p171)
善因善果・悪因悪果を教えたウパニシャッドが解脱を志向する者に奨励したところは、ヴェーダの学習・禁欲・祭祀・布施・苦行・断食・五感の抑制を始めとして、古来インドで尊重されてきた徳目と大差がない。(インド文明の曙p173)
アートマンとブラフマンが何か、そしてそれが同じものであると知るためには、禁欲して瞑想して、知識ではなく、本当の知恵を体得する修行をしないといけないという。う~ん、それはちょっと無理。
本を読む程度では知識でしかなく、真の知恵とはならないかもしれませんが、アートマン、ブラフマン、梵我一如が何なのかを抜粋しておきます。また、アドヴァイタと関連しそうな個所も抜粋しておきます。
アートマン、ブラフマンの定義については、ヴェーダの年代や種類、解釈者によって一定ではなく、様々な解釈がある。
アートマン
アートマン(आत्मन् Ātman)は、ヴェーダの宗教で使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される。(Wikipediaより)
アートマン(我・がと訳す、男性語)は、元来「気息」を意味し、生命の主体として「正規・本体・霊魂・自我」の意味に用いられた。前述のプラーナならびにプルシャと当初から密接な関係にあったが、次第に原義から遠ざかり、個人の本体を表す熟語となった。(インド文明の曙p162)
このアートマンは、われわれが日常生活において経験するような自我ではありません。われわれの感覚器官によって、見たり、聞いたり、言葉で表現したりすることができない、主観客観の二元対立を超越した、決して客体化されることのない存在です。したがってアートマンを、目の前にある本や机などのように、認識対象として認識したり、日常の言語によって表現することは不可能です。(インド哲学へのいざないp33)
要するに「アートマン」は、生きとし生けるものーー今日の知識で無生物と区別される生物ではなく、ヴェーダ時代の人の意識にとって生あるものーーの「いきいきとした」性質の根底にある何ものかをあらわす概念であって、生命力、寿命を意味する「アーユス」(ayus)に近似するが、力ではなく、また、「アス」や「プラーナ」とは区別されるが、親縁関係にあるものであった。(古代のインドの神秘思想p126)
アートマンすなわち我(が)とは、元来「気息」を意味し、生命の主体と目されては「生気」となり、総括的には生活体すなわち「身体」特に「胴体」となり、他人と区別しては「自身」となり、さらに内面的・本質的に解されて「本体・精髄・霊魂・自我」を意味するに至った。(ウパニシャッドp55)
ブラフマン
ブラフマン(ब्रह्मन् brahman)は、ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根理。(Wikiipediaより)
ブラフマン(梵・ぼんと訳す、中性語)とは元来祈祷の文句ならびにその神秘力を意味し、祭式万能の気運につれ、神を左右する原動力と認められ、アタルヴァ・ヴェーダおやびブラーフマナ文献においては、宇宙の根本的想像力の一名となった。バラモンが他の階級をしのぐのは、この神秘力を強度に備えていたからである。(インド文明の曙p161)
ブラフマン(中性語)すなわち梵とは、元来ヴェーダの賛歌・歌詞・呪詞、さらにその内に満つる神秘力、ヴェーダの知識およびその結果たる神通力を意味し、ヴェーダ神聖・祭式万能の信仰につれ、神を動かして願望を達する原動力と認められ、記述のごとく、アタルヴァ・ヴェーダおよびブラーフマナ文献においては、他の諸原理に伍して宇宙の根本的想像力の名となった。(ウパニシャッドp54)
「ブラフマンの原義については、このように見解がさまざまに分かれて、定説がない。ただ確実なのは、ブラフマンが祭式万能のブラーフマナ時代に、宇宙の最高原理、至高存在とみなされるに至ったことである。(古代インドの神秘思想p110)
梵我一如
梵我の本質を文字によって説明するのは至難のわざである。一にして一切、相対を離れ比類を絶した根本原理は、経験の世界を去ること遠く、原語も思考も到達し得ないかなたにある。これを積極的に描写しても、消極的に定義しても、有限の言語によって無限な実体を表現することはできない。種々な比喩が用いられ、さまざまな定義が提唱されているが、結局は日常の経験を超越した瞑想により悟証されるべきのである。次に一例として、チャーンドーギア・ウパニシャッド(三・十四)に含まれる「シャーンディリアの教義」を挙げる。
ブラフマンは実にこの一切(宇宙)なり。(一)
意より成り、生気を体とし、光明を形相とし、その思惟は真実にして、虚空を本性とし、一切の行作を包容し、一切の慾求を具備し、一切の香を有し、一切の味を有し、この一切に遍満し、言語なく、関心なきもの、(二)
これおすなわち心臓の内部に存するわがアートマンなり。米粒よりも、或いは麦粒よりも、或いは芥子(けし)粒よりもあるいは黍(きび)粒よりも、あるいは黍粒の中核よりもさらに微なり。これすなわち心臓の内部に存するわがアートマンなり。地よりも大に、空よりも大に、天よりも大に、これらの世界よりも大なり。(三)
一切の行作を包容し、一切の慾求を具備し、一切の香を有し、一切の味を有し、一切に遍満し、言語なく、関心なきもの、すなわち心臓の内部に存するわがアートマンなり。これブラフマンなり。この世界を去りてのち、われこれと合一すべしと、(意向)あらん者には、実に疑惑のあることなし。シャーンディリアは常にかくいえり、シャーンディリアかくいえり。(四)
根本原理は一切を包括し、一切に遍満し、極小にして同時に極大である点が強調されている。矛盾する表現によって相対観念を止揚する好例はイーシャー・ウパニシャッドに見いだされる。
そは動く(同時に)そは動かず。そは遠きにあり、しかもそは近くきにあり。そは万有の中にあり(偏在性)、しかも万有の外にあり(超越性)。(五)
しかし、万物をアートマンの中にのみ認め、万物の中にアートマンを認める者はもはや疑いをいだくことなし。(六)
その人にありて万物がアートマンに帰一し終わりたるとき、かく分別する者にとり、そこにいかなる迷妄あらんや、いかなる悲憂あらんや、(アートマンの)独一性を認むる者にとり。(七) (インド文明の曙p164)
「この我(が)は実に梵なり、認識よりなり、意よりなり、生気よりなり、眼よりなり、耳よりなり、地よりなり、水よりなり、風よりなり、虚空よりなり、光明よりなり、非光明よりなり、欲望よりなり、非欲望よりなり、瞋恚(しんい)よりなり、非瞋恚よりなり、法よりなり、非法よりなり、一切よりなる。(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド)(ウパニシャッドp62)
「梵は我なり」(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド)(ウパニシャッドp58)
七「この微細なるものといえば、ーーーこの一切(全宇宙)はそれを本質とすものである。それは真実である。それはアートマンである。お前はそれである。(tat tvam asi タットバマシ)シュヴェータケートゥよ」(チャーンドーギャ・ウパニシャッド六・八)(インド哲学へのいざないp229)
どの本もこんな調子で原文や説明がつづくが、結局のところ、何だかよくわからない。もっとわかりやすい表現で常用漢字だけで説明してくれないと理解できない。
アートマンは客体化することのできない認識主体である。見ることの背後にある見る主体を、だれも対象化して見ることはできない。対象化されたものは、もはや真の主体ではない。したがってアートマンは、把捉されないもの、どのような述語によっても限定されないものである。ただ、「甲に非(あら)ず、乙に非ず」という否定的表現を用いる以外に、それを表示する方法はない。この「非ず、非ず」neti neti という表現は、ウパニシャッドにおける最も有名な言語の一つである。このようなアートマンこそは、個体における不滅不死のものであり、万物に内在する普遍者である。それは万物を内部から制御する「内制者」である。
日常経験は、見る者と見られるもの、聞く者と聞かれるものなどの二元性を前提としている。しかし万物がその本質においてアートマンにほかならないことを、真に人が知るとき、彼にとって二元性はなくなり、見ながら見ず、聞きながら聞かないという境地が開ける。二元性を越えて、彼は「アートマンそのものとなる」のである。このようにアートマンと合一した解脱の境地を、ヤージニヴァルキャは熟睡状態として説明する。眠りの浅い状態にあるとき、人はこの世を構成している物質の素材を用いて、目ざめているときに経験した世界に似た夢の世界を自らつくり出す。しかし熟睡状態に進むと、外界は消滅して、彼は完全な安息の境地に達するのである。(世界の名著1バラモン教p24)
私にとってはこの説明は妙に説得力がありました。この夢の例えは他の本にも出てくるのですが、例えば、夢を見て、夢から覚めてから夢を思い出せるということは、夢を見ている主体が夢の中にいたということ。つまり、二元性の世界にいたということ。
ところが、熟睡状態の時は、夢を見る「主体」が消えてしまい、いわば非二元の世界にいるため、夢を見たのかどうかも、そこに自分がいたのかも、どういう状態だっとのかも思いだせない。それと同じで、アートマンとは何かと言葉で説明できるのならそれは二元的な視点に立っていることになり、真のアートマンではない。真のアートマンは非二元であり、そこに説明できる主体がいない以上、言葉で説明することはできない。
いずれにしても、ヴェーダの中は例え話ばかりで、具体的にアートマンやブラフマンが何であるかは書いてないし、それが同じものであることを知る具体的な方法(瞑想などの修行以外で)も書いてない。あなたはそれであるの繰り返し。それはそうならざるえない。非二元の本質を言葉では説明できないのと同じ。
原始インド社会、バラモン教の成り立ちについてもっと詳しく学びたい方は、佐々木閑:仏教とはなにか(YouTube)で学んでください。今回特に関係あるのは以下二回。
参考文献