シャンカラの教え、「ブラフマ・スートラ注解」と仏教の関係について、愛知県図書館で借りた本の中に非常にわかりやすい説明があったので、以下をインドの「一元論哲学」を読む―シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 (シリーズ・インド哲学への招待) p.ⅰ(はじめに)から引用させていただきます。
もともと、シャンカラは、一元論を唱えるヴェーダーンタ学派に属していました。
この学派の根本経典である『ブラフマ・スートラ』(西暦紀元後四世紀)は、宇宙の根本原理ブラフマン=最高自己=最高神という、唯一のもの、しかも世界の質料因にして動力因なるものから、世界の森羅万象が流出していたのだとする一元論を説くものでした。したがって、世界の森羅万象は、ブラフマン=最高自己の部分であり、実在であるという考えになります。(質料因=アリストテレスの説いた四原因説の一つ。家ができる原因の例では建築に使用する材料・資材。動力因=家を建てる場合の大工作業のような、現実に作用する原因)
ところが、この単純明快は流出論的一元論には、まことにやっかいな二つの難問がつきまといました。
一つの難問は、一元なるものが、何のきっかけで、あるいはまた何のために、ある時点で自己分裂を開始し、世界を流出せしめたのか、というものです。一元なるものは完全無欠、自己完結したものだとされます。しかし、世界流出という活動を為したということは、一元なるものが、世界流出を必要としたということですから、これは、一元なるものが完全無欠で自己完結しているという前提が成り立たないことを意味します。また、一元なるものに外部から働きかけがあって世界流出が起こったのだとするならば、もはやこれは一元論ではなく二元論だということになります。これは悩ましい問題です。
もう一つの難問は、流出した世界には清浄なものもあれが不浄なものもある、するとそこから世界が流出してきた一元なるものは、清浄かつ不浄ということになるのではないか、というものです。一元なるものは、そのどこを取っても同質のはずでして、すると、清浄かつ不浄ということは、その一元なるものの一元性を突き崩すものとなります。
このようにして、流出的一元論は、土台がきわめて危うい体系だということになります。流出的一元論は、インド最初の哲学者であるウッダーラカ・アールニ(西暦紀元前八世紀後半)の有の哲学を継承したもので、インドの主流派哲学といえます。しかし、そのようなわけで、『ブラフマ・スートラ』に、定まった視点から一貫して合理的な解釈を与えることは、至難の業でした。ですから、この根本経典には、長い間、全面的な注釈書を著すのに成功した人物が出てきませんでした。最初の成功した人物こそ、シャンカラなのです。
なぜシャンカラが、『ブラフマ・スートラ』の注釈書を著すのに成功したのかといえば、そこにはおおきな秘密があります。じつはシャンカラは、一元論を守るために、流出論を排斥したのです。それでは、この多様性にあふれたこの世界(ジャガット)は、どのようなものとして位置づけられるのでしょうか。ここがシャンカラの革命でして、彼は、世界は、無明(アヴィディヤー)が生み出した幻影(マーヤー)であり、まったく実在性を欠いているとしたのです。ですから、世界の流出というのは、無明のせいであって、一元なるものとは無関係だということになります。一元なるものは、無始無終に一元のままだというのです。
しかし、わたくしたちは(インド人は、というべきか)、現実のところ、多様な世界の中で、始まりのない過去から輪廻転生を繰り返し、さんざん苦しみを味わい続けている、この現実感覚は何だということになるのでしょう。シャンカラは、それは無明のなせるわざだと断言します。しかし、『ブラフマ・スートラ』はいうに及ばず、その源をなすウッダーラカ・アールニなどのウパニシャッドの哲人たちは、世界の流出を、世界の多様性を、輪廻転生の苦しみを、そしていかにして輪廻転生から解脱すべきかを大いに語っているではないか、これをどう説明するのか。
シャンカラは、ここで、仏教から妙案を拝借します。それは、すべての言説を、勝義より真なるものと、世俗よりして真なるものとに分類することです。そして、世界の流出とか輪廻転生とか解脱とかを語る言説は、すべて世俗よりして真なるものだといいます。この二様真理説を武器にして、シャンカラは、ウパニシャッドなどの聖典の文言と『ブラフマ・スートラ』の文言のすべてをきれいに捌(さば)いたのです。(勝義=絶対不変の真理)
ですから、シャンカラの文章に接するときには、シャンカラが、ここでは勝義の立場に拠っているのか、世俗の立場に拠っているのか、あるいは二股をかけながらアクロバティックに語っているのかを、細心の注意をもって見きわめなければなりません。ここに、シャンカラの文章を読むさいの、特有の難しさがあります。
シャンカラは、みずからの不二一元論という理論を構築するさいに、他学派の理論を大胆に借用しています。
右の二様真理説は、西暦紀元前二世紀半ばに行われたギリシア王と仏教の長老との対論を記録した『ミリンダ王の問い』(ミリンダパンハ)に初めて見られ、西暦紀元後二~三世紀に大乗仏教最初の学派である中観派の開祖となった龍樹(ナーガールジュナ)が重用した理論です。これをシャンカラは拝借しました。
さらに、西暦紀元後四世紀に基礎理論が固められた大乗の唯識説では、対象世界の実在性が否定され、世界は幻影であると説かれました。この幻影論も、シャンカラが拝借するところとなりました。
また、唯識説では、私たちが認識の上で犯す誤謬、すなわち、甲でないものを乙だとする認識は、甲でないものに乙を上重ねすること(アッディヤーローパナー)に由来するとされます。シャンカラは、この上重ね理論をそっくりそのまま唯識説から拝借しています。シャンカラの著作の登場する「アッディヤーローパナー」(ないし「アッディヤーサ」)は、わが国では「付託」と訳されることがしばしばですが、本書では、原義のニュアンスをたっぷり含ませるために、「上重ね」と訳すことにします。
このように、シャンカラは、重要な論点において仏教から非常に多くのものを拝借しましたので、ヴェーダーンタ学派でも、不二一元論を採らない学者たちからは、「隠れ仏教徒」(ブラッチャンナ・バウッダ)だと非難されるほどでした。
さらに、精神原理と非精神原理を峻別する二元論を展開するサーンキャ学派は、西暦紀元前七世紀のウパニシャッドの哲人ヤージニヴァルキャの「自己─世界」論を継承し、自己は世界外存在であり、あたかも自己であるかのごとく錯覚されるおのが身心が自己でないことを強調してやみません。この、サーンキャ学派の強調点も、やはりシャンカラはそっくりそのまま拝借しています。
仏教、サーンキャ哲学実に多くを拝借し、それらを巧みに縫い合わせることによって、シャンカラは、不二一元論、すなわち世界幻影論を完成させました。それによって彼は、ヴェーダーンタ学派の根本経典『ブラフマ・スートラ』に一貫した合理的な解釈を与えることに成功したのです。しかし、先述の通り、シャンカラは、『ブラフマ・スートラ』の流出的一元論から、流出論を排斥したのです。流出的一元論が、決して解けない難問の縄にがんじがらめに縛りつけられていた、その理由は、一元論にあるのではなく、流出論にあるのだと、シャンカラは見て取りました。シャンカラは、インドにおける一元論哲学の革命児だったのです。
つまり、シャンカラは、ヴェーダの解釈を真理にもとづくものと、世俗(現象世界)のものとを分けて解釈、説明している。そして、現象世界は実は幻影であり、実在ではないという理論を大乗仏教から拝借しているというのです。
この本(インドの「一元論哲学」を読む―シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 (シリーズ・インド哲学への招待))は、前回のブログではっきりと理解できなかった「ウパディーシャサーハスリー」の散文編を、翻訳だけでなく詳しい解説をつけて説明してあります。
第1章 弟子を目覚めさせる方法
p7から引用
二 この解脱をもたらす手段とは、[ブラフマンの]知識である。[これ以外の]手段によって成就される無常なすべてのものを厭離し、息子と財産と[人間世界・祖霊たちの世界・神々の世界という三つの]世界への望みを棄て、[出家遊行者の最高位である]パラマハンサ遊行者となり、心の平静・自制・憐愍(れんびん)などを持ち、ヴェーダ聖典でよく知られている弟子の資質を具え、清浄なバラモンであり、聖典の規定通りに師に近づき、生まれ・職業・性行・[ヴェーダ聖典の]学識・家柄について精査された弟子のために、理解が堅固なものとなるまで、繰り返しこの知識を語らなければならない。
この文書は要するに、解脱(アートマン=ブラフマンと理解すること)するためには、知識が必要であり、それを手に入れるためには世間的な欲望(息子や財産など)を放棄して出家し、師について、師は繰り返しこの知識について教えなければならないと言っています。その解説の中で著者は、
p9
さて、私たちに最も直接的な存在は、自己反省的・自己完結的に確立される「自己」(アートマンatman、プルシャpurusa)です。往昔のウパニシャッドの哲人ヤージニヴァルキャが看破し、後にシャンカラが論じているように、自己は認識主体であるがゆえに認識対象とはなり得ません。ですから、認識論的に、あるいは心理学的に自分(自己)を探しても、決して見出すことはできません。自己は、認識されることによってその存在が確定されるものではなく、おのずから確定しているのです。なぜなら、自己は、自己反省的であり、かつ自己完結的だからです。
ですから、わたくしは、ヤージニヴァルキャやシャンカラに同調する恰好でいいますが、自己の存在を証明することは不可能であると考えます。あえて証明しようとすれば、「自己反省的」「自己完結的」という規定の文言の中にすでに「自己」という文字が入っていますので、その証明は典型的な循環論(どうどうめぐり)とならざるを得ません。
さて、翻ってみれば、真実の存在としてブラフマンなるものが、確定しているということになれば、自分にとっての直接的な存在として確定されている自己は、じつはブラフマンと同じであると考えざるを得ません。ブラフマンも自己も、認識論的あるいは心理学的に捉えることはできません。こうした共通性を前にして、ブラフマンと自己とを別物と考える必然的な理由は見いだせません。
ブラフマンと自己とが一つのものなのだということを、理屈ではなく、瞑想によって得られた直観で理解し、そのことを陳述した最初の人物は、西暦紀元前八世紀前半のシャーンディリアという人物です。漢訳では、「ブラフマン」は「梵」、「アートマン」は「我」ですので、このことはしばしば「梵我一如」といわれます。
自己反省的、自己完結的とはどういう意味でしょうか? 「自己反省的」を辞書やネットで調べても出てきません。「自己完結的」は広辞苑よると、「他に依存することなく、それ自身だけでまとまっていること。他との関連をももたず成り立っていること」とあります。
「自己は認識主体であるがゆえに認識対象とはなり得ません。」という個所から判断すると、要するにアートマンを認識することは不可能だと言っているように思えます。認識することは不可能なものが、どうしてブラフマンと同じものだと考えるのが必然なのでしょうか?
二章では、輪廻の原因は無明(無知)が原因であるという説明が続きます。無知ゆえに、アートマンの上に、「私」や「体」を上重ね(付託)しているために解脱することができない。よって、無明を取り除けば解脱すると説明しています。
アートマンは最高自己であり、輪廻しないにもかかわらず、無知ゆえに「私」という行為の主体がいると思い込み、それゆえに輪廻しているかのように見える。また、世界は幻影であるが、無明ゆえに、世界があるように認識していると教えます。
世界を認識している自己・「私」は体でも心でもなく、認識の主体であると教えます。認識の客体が世界であり、体であり、心です。認識の主体は、眼がみずからの眼を見ることができないように、刀がみずからを切ることができないように、みずからを認識することはできないと教えます。
こうした説明においても、自己は「自己反省的」「自己完結的」であるがゆえに、それを直接知ることはできないという説明が繰り返し行われます。
私が図書館で借りた本の中では、この方の解説が一番わかりやすいと思うし、説明も平易な言葉でされていると思います。でも、一番かんじんな、「自己反省的」「自己完結的」がよくわからない。
私なりに解釈すると、主体としての自己「私」は認識主体であるがゆえに、それを認識することはできない。でも、「私」は認識の客体となる身体、心、世界を認識している。認識しているということは、必然的に、それを認識している主体(自己)がいるということ。それは自明のこと。それを、「自己反省的」「自己完結的」というのだと思います。
そして、ブラフマンも客体として認識することはできない。ということは、ブラフマンは認識の主体であるということ。ブラフマンもアートマンも両方とも認識の主体。認識の主体が二つ別々に存在することはありえない。ということはブラフマンとアートマンは一つのものであるということになる。
ゆえに、ブラフマン=アートマン=自己=本当の私
この、「ウパディーシャサーハスリー」散文編では、シャンカラと弟子との対話がストーリー仕立てになっていて、弟子の質問に対してシャンカラが順番に答えてゆき、最後に弟子は完全な理解へと到達します。そこには、エンライトメントや覚醒の要素はありません。あくまでも対話による理解が前提となっています。また、シャンカラは修行や瞑想もすすめていません。
参考文献
インドの「一元論哲学」を読む―シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 (シリーズ・インド哲学への招待)
第5巻 シャンカラの思想 (新装版 インド哲学思想)
シャンカラの哲学〈上〉―ブラフマ・スートラ釈論の全訳 (1980年)
シャンカラ派の思想と信仰
人と思想 179 シャンカラ
シャンカラ―原典、翻訳および解説
中村元先生がシャンカラについて語ってみえます。自己とは何かについて。