前三回のブログにおいて、アドヴァイタ、シャンカラについて書きました。ここで、シャンカラの教えと、セイラーボブの言っていることを比較してみたいと思います。
セイラーボブは、アドヴァイタの教えをニサルガダッタ・マハラジから学んだのですが、ニサルガダッタ・マハラジのアドヴァイタがどういうものかははっきりしません。英語版のマハラジのWikipediaを読むと、Inchagiri Sampradayaという流派であり、その創始者はBhausaheb Maharaj (c. 1843 - c. 1914) という20世紀に亡くなった人です。
シャンカラの系統のアドヴァイタは今でもいくつかの僧院があって、伝統が受けつがれているので、Inchagiri Sampradayaという流派はシャンカラの系統ではないようです。マハラジのアドヴァイタは、シャンカラ以前からあるアドヴァイタの教え(ヴェーダ)の流れを汲むものと思われます。
シャンカラのアドヴァイタも、もともとはシャンカラ以前からあるヴェーダの中のウパニシャッドの教えがもととなっているため、シャンカラの教え=アドヴァイタの教えと言っていいと思いますので、前回まで書いたシャンカラの言っていることと比べてみたいと思います。
まずは共通点から
・世界は実在ではなく幻影である。
シャンカラもセイラーボブも、実在であるかのように見えている現象世界は実在ではなく、幻影であると言っています。
・私が私だと思っている「私」は実在ではない。
シャンカラは、身体も心も「私」ではないと言っています。シャンカラは、「私の手」「私の心」と言うのは、手や心が「私」とは別のものだからだ、と説明しますが、この説明は、セイラーボブもよく使う説明です。
・実在ではない「私」が実在であると思ってしまうのは無知ゆえにであるとセイラーボブは言います。
シャンカラは「無明」という言葉を使います。二人とも、暗闇で縄を踏んで蛇だと思ってしまう話を無知の説明の時に使います。
・実在としての自己を認識することはできない。
セイラーボブは、「それはマインドの外にあるため、マインドでは理解できない」と言い、シャンカラは「認識の主体としてのアートマン(自己)は、主体であるがゆえに自己を客体として認識することはできない」と言います。眼は自分の眼を見ることはできないという例えは二人とも使います。
・解放の方法として、セイラーボブは「真実を知ると解放される」と言い、シャンカラは「解脱をもたらす手段とは[ブラフマンの]知識である」と言います。
・二人とも修行を推奨していません。シャンカラは、修行は新たな業を積むことになると言い、必要なのは、自分がすでに永遠の昔から解脱しているのだということに「気づく」ことだけだと言います。そしてセイラーボブは「あなたはもともとそれです」と言います。
・シャンカラもセイラーボブも輪廻を否定しています。シャンカラは、無明(無知)ゆえに輪廻があるように見えるだけだと言います。
・セイラーボブは「エンライトメントや覚醒などない」と言い、シャンカラは言及していません。セイラーボブは「理解」を強調し、シャンカラは「認識」を強調しています。私が読んだ範囲のアドヴァイタやシャンカラの本には、エンライトメントや覚醒に関して言及しているものはありませんでした。シャンカラという名が代々継がれ、今でもシャンカラがインドにいるということを考えると、その教えはエンライトメントや覚醒ではないと思います。
相違点
ブラフマン、アートマンが、セイラーボブの言う知性エネルギー、アウエアネスと同じものかどうかはわかりません。ミーティングの時に Facebook 経由でボブに質問するという手はあるのですが、答えは想像できるのでやめておきます。
セイラーボブの話の中にはシャンカラと同じく、ヴェーダから引用していると思われる話がいくつもあります。もちろんセイラーボブはヴェーダもシャンカラ関連の本も読んでいるはずです。
シャンカラの教えについては、何人かの人が本を書いています。でも、そのほとんどが難解な学究的な本であり、私の手におえるものではありませんでした。例外的にわかりやすく、もっとも参考になった本は、インドの「一元論哲学」を読む―シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 (シリーズ・インド哲学への招待) です。私のシャンカラに対する理解はこの本を基本としています。
現代において、一般の人がアドヴァイタをシャンカラやアドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派、ウパニシャッドから学ぼうと思っても、容易ではないと思います。まず、適当な参考書がありません。原典を読もうとすれば古代インド語を習得する必要があります。
それでは、学者によって翻訳されたものはどうかというと、読んで簡単に理解できるようなものはありません。平易な現代語訳がないのです。また、今でもインドに存在するシャンカラ系統のアドヴァイタを学ぼうとするなら、インドに住んで、現地語から学ぶ必要がありますが、そんなことは簡単にはできません。
ただ、それがわかっただけでも、今回アドヴァイタの源流までさかのぼったことは意味があったと思います。
参考文献