仏教の唯識のことを書くために、まずインドで仏教が生まれた背景を知ろうとしてバラモン教の経典(世界の名著 (1) バラモン教典 原始仏典 (中公バックス)(この本自体はアドヴァイタについてだけ書かれたものではなく、数人の著者がそれぞれバラモン教の経典について書いたものを編集したもの)を読んだところ、その中にシャンカラが書いたとされる、「不二一元論 ブラフマ・スートラに対するシャンカラの注解 二・一・十四、十八」というもの見つけた。
シャンカラとは
シャンカラはアドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の教義を強化した最初の哲学者、不二一元論派の創始者と言われている。八世紀前半に南インドで生まれ、哲学者としては不二一元論(アドヴァイタ)の開祖、宗教家としてはスマールタ派の開祖。幼くして父を亡くし、ヴェーダを学習し、世を捨てて出家して遍歴行者としてインド諸地方を遍歴。多数の著書を著し、インド各地でいくつかの学院を創立し、最後に北インドで32歳(または38歳)で亡くなったと伝えられる。シャンカラ物語(伝説)も参考に読んでみてください。
「不二一元論 ブラフマ・スートラに対するシャンカラの注解 二・一・十四、十八」は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派の学匠シャンカラが書いた「ブラフマ・スートラ注解」の一部を抜粋翻訳したもの。ページ数にすると、46ページしかない。
「ブラフマ・スートラ」はアドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派の学説綱要書であり、アドヴァイタとは何かを説いたものだが、その解釈が難しいため、シャンカラが注釈をつけて説明したもの。「不二一元論」とは、あらゆる限定をこえたブラフマンが唯一の実在あり、多様な現象世界は無知によって作り出された幻影にすぎないという思想であり、それがシャンカラの主張。
「不二一元論 ブラフマ・スートラに対するシャンカラの注解」がどんなものか、書き出しを引用します。
1 ブラフマンと現象世界との本質的同一性
『ブラフマ・スートラ』二・一・十四 それら(万物の原因であるブラフマンと、その結果としての現象世界と)は、別のものではない。(天啓聖典に述べられている)「(ことばによる)補足」という語が典拠となるから。
(これに先行する定句二・一・十三においては、ヴェーダーンタ学派ブラフマン一元論に対する、二元論者からの反論があげられた。もしも、物質世界の質料因と精神原理との区別を認めず、ブラフマンが唯一の世界原因であると主張するならば、精神的存在者である経験の主体と、経験の対象となる非精神的存在物とは、いずれもブラフマンの変容として同質のものとなるから、両者は区別されないということになるであろう、というのがその反論の内容であった。そして、同じ定句のなかに、『ブラフマ・スートラ』の作者によって)慣習的な、経験の主体、経験される対象といった(概念上の)区別を認容したうえで、
(経験の主体と経験される対象との区別は、われわれの学説に従っても)ありうる。日常生活おいて(認められる事実)のように
と、(その論議に対する)反駁が述べられた。
しかしながら、この(習慣的に認められている概念上の)区別も、究極的な立場からみれば存在しない(ということを、定句二・一・十四は明らかにする)。なぜならば、原因と結果の両者は、(究極的には)別のものではないと理解されるからである。(ここにいう)結果とは、虚空など(の諸元素)から成る、多種多様に分かれた世界のことであり、原因とは、至高の(存在者としての)ブラフマンである。結果は、究極的な立場からみれば、その原因とは別ではない、…(原因から)独立には存在しないと理解されるのである。
どのような論拠によって、(右のように理解されるの)であろうか。…(天啓聖典に述べられている)「(ことばによる)補足」という語は、(天啓聖典のなかで、)まず、一者を認識すれば万物が認識されるということを立証すべき命題として提示したのち、喩例を必要とした際に述べられている。
愛児よ、たとえば一個の土塊によって、すべての土から成るものは知られるであろう。…(土からなる)変容物は、ことばによる捕捉、(単なる)名称である。ただ土である、ということのみが真実である(『チャーンドーギャ』六・十四
と。その趣旨は次のとおりである。…一個の土塊が、究極的な立場から、土そのものとして知られるならば、壺・皿・釣瓶などといったすべての土でつくられたものも、土をその本質とするという点で(土塊と)異ならないのであるから、知られたことになるであろう。したがって、「変容物は、ことばによる捕捉、(単なる)名称である」…壺・皿・釣瓶などという変容物は、単にことばによってのみ「ある」と捕捉される。しかしながら、実際には、変容物というものは実在しない。なぜならば、それはただ名称にすぎない虚妄のものであり、「土であるということのみが真実である」から。…このことがブラフマン(と現象世界との関係)に関する喩例として(天啓聖典のなかに)述べられているのである。
この文章を理解できますか? 私は理解力が良い方ではないが、並外れて悪いとは思っていません。でも、これを読んでも、理解できない。なんとなくはわかる。「原因と結果は別のものではない」とか、「言葉によって分別しているにすぎない」と言っているのはわかる。セイラーボブが、「水と氷と雲は同じもの」という例えを使うのを思い出す。
こんな調子でずっと続きます。まったくちんぷんかんというわけではなく、なんとなくは理解できる。でも、なんとなくでは意味がない。
この世の万物はそれ(最高実在)を本質としている。それは真にあるものである。(『チャーンドーギア』六・八・七)
と、唯一者である第一原因(「有」すなわちブラフマン)のみが真にあるものであることが確信され、他方には、
それはアートマンである。シヴェータケートゥよ、おまえはそれである(『チャーンドーギャ』六・八・七
と、経験的個我がブラフマンであることが教示されているからである。
要するに、天啓聖典(ヴェーダ)の中で、おまえはブラフマンであり、アートマンであると言っているからそうなのだ、と言っています。全編にわたってこの調子で続きます。なんとなくわかる、でもすっきりしない。
1500年も前の聖典を読むとはそういうことかもしれません。誰かがもっとくわしく説明してくれないと理解できない。
ネットで調べてみると、シャンカラが書いたとされる別の聖典、ウパデーシャ・サーハスリー―真実の自己の探求 (岩波文庫)というものがあったので、今度はそれを図書館で借りてきて読んだ。
「ウパディーシャ・サーハスリー」は韻文編と散文編から成り、韻文編はシャンカラの主張と他者への批判について、散文編は師が弟子をいかにして悟らせるかについて書かれている。
読んだ感想を先にいうと、「まえがき」はよくわかるど、本編は「なんとなくわかる」レベル。まったくお手上げということはないけど、アドヴァイタのことをブログ上で説明しようとしている以上、アドヴァイタとは何なのかをはっきり理解できて、大半の文章を明確に理解できないのなら、だめだと思います。
参考になると思われる個所を引用しておきます。
訳者まえがき(p3)より
シャンカラの哲学が目指しているのは、仏教やその他のインド哲学諸体系と同様に、輪廻からの解脱である。この解脱を達成する手段は、宇宙の根本原理であるブラフマン(Brahman 梵)の知識を得ることにほかならない、とかれは繰り返し主張している。シャンカラによれば、自分自身のうちにある自己の本体、すなわちアートマン(Artman 我)が宇宙の根本原理ブラフマンと同一であるという心理を悟ることが、解脱への道であるというのである。これは、シャンカラの独創的な思想ではない。幾世紀にもわたる多数のインドの哲人たちの思索活動を背景に、今からおよそ2500年くらい前に、バラモンの根本経典であるヴェーダ聖典の終結部を形成する「ウパニシャッド」の思索家たちが到達した梵我一如の心理にまで遡る思想である。確かにシャンカラは、『ウパディーシャ・サーハスリー』において、しばしばウパニシャッドから成句を引用し、ウパニシャッドの趣旨を明確にしようとしている。このような意味において、この作品は、詳しくは『全ウパニシャッドの精髄であるウパディーシャ・サーハスリー』と呼ばれているのである。
シャンカラは、再三再四、われわれのうちにあるとされる自己の本体アートマンと、宇宙の根本原理ブラフマンとが、同一であると説いている。しかし、現実の人間存在を直視するとき、当然のことながら、この欠点だらけの死すべき人間が、この苦しみ悩む自己が、果たして無苦・無畏・不変・不滅・不老・不生・不死・不二などといわれる完全無欠なブラフマンと同一であり得るのか、という大きな疑問の壁に突き当たって、シャンカラの教えを受け入れることは非常に困難である。
シャンカラの努力は、輪廻のなかにあって解脱を求める者に、この受け入れ難い真理をいかに理解しやすく、かつ効果的に説明し、教えるかということに注がれたのである。疑うことの出来ないウパニシャッドが、「君はそれ(=ブラフマン)である」といっているのに、われわれはそれをなかなか理解することが出来ない。それは、「君」という言葉の意味を正しく理解していないからである。換言すれば、われわれが本来の自己を見失っているからである。本来の真実の自己とは何か、これこそシャンカラがその弟子たちに徹底的に理解させようとしたことであった。
シャンカラの門を叩くものに、シャンカラが最初に発する質問は、
「君は誰ですか」
である。シャンカラ当時の、普通の弟子の場合には、この質問に対して、
「私はこれこれしかじかの家系のバラモンの息子でございます。私は、もと学生で…でございましたが、いまはパラマハンサ出家遊行者でございます。生・死という鰐(わに)が出没する輪廻の大海から脱出したいと願っております。」(『ウパディーシャ・サーハスリー』二・一・十)という返答をする。そこでシャンカラは、この常識的な返答を手掛かりに、その弟子の、自己理解が誤りであることを鋭く指摘し、弟子を真実の自己の探究へと誘うのである。
シャンカラによれば、「私はこれこれしかじかの家系のバラモンの息子でございます」ということは、バラモンという階級や家系などをもっている身体と、そのようなものを全く持たない本来の自己であるアートマンとを同一視している結果として生まれた誤った表現にほかならない。シャンカラは、このような常識的な自己理解を否定し、全く新しい真実の自己の世界へと弟子を導き入れるのである。
ちなみに、シャンカラの伝記(マーダヴァ作『シャンカラの世界征服』14世紀)によると、ゴーヴィンダに師事するに際して、師が幼いシャンカラに同じ質問をしたとき、かれは
「先生、私は地でもなく、水でもなく、火でもなく、風でもなく、虚空でもなく、それらの属性のいずれでもない。私は、感覚器官でもなく、統覚器官でもない。私はシヴァ神である。」
と答え、師を大変に喜ばせたという。
地・水・火・風・虚空は、いわゆる五大元素であり、われわれの肉体はこの五大元素から成っている。しかしシャンカラは、自分が肉体や、その属性ではなく、感覚器官でもなく、さらにその内奥にあり、アートマンのごとくに顕れる自我意識の主体の統覚機能でもない。自分はほかならぬシヴァ神そのもの、すなわちブラフマンそのものである、と答えたと解される。
ではなせわれわれは真実の自己を見失って、自分自身を、「これこれの家系のバラモンの息子です」などといって、カーストとか、家系とかをもった身体と見做すことになるのであろうか。これを説明するために、シャンカラは無明(むみょう・無知)を観念を導入した。かれによれば、無明とは、Aの性質をBに付託することである。付託とは、以前に知覚されたAが、想起の形でBに顕れることである。たとえば、薄明のとき、森のなかで縄を蛇と間違えてびっくりすることがあるが、これは過去に知覚したことのある蛇を、目の前にある縄に付託するためであるといわれる。こうような付託が無明である。
ブラフマン=アートマン以外の一切の現象的物質的な世界は、われわれの身体・感覚器官はもちろんのこと、一般に精神活動の中枢をなしていると考えられている統覚機能(心)に至るまで、真実のアートマン、すなわちブラフマンに対して誤って付託されたものにすぎない。したがって、人間をブラフマンとは全く異なる存在であるかのように見せている非アートマン的要素はすべて、無明の産物であり、あたかもマーヤー(幻影)のように存在しない。したがって、ブラフマンとアートマンは全く同一である、とシャンカラは説いている。かれのこの立場は不二一元論(Adavaita)と呼ばれる。
韻文編
五 輪廻の根源は無知であるから、その無知を捨てることが望ましい。それゆえに、[ウパニシャッドにおいて、宇宙の根本原理]ブラフマンの知識が述べられ始めたのである。その知識から至福(=解脱)が得られるであろう。p18
十八 無明が[ひとたび]正しい知識根拠によって除去されてしまったならば、どうして再び生ずることが出来ようか。なぜなら[無明は]無差別・絶対の内我(=内在するアートマン)には存在しないかれである。p21
十九 もし無明が再び生じないならば、「私は有(=ブラフマン)である」という認識があるのに、[私は]行為主体である」「[私は]経験主体である」という観念がどうして生ずることがありえようか。それゆえに知識は補助するものをもたないのである。p21
五 身体がアートマンであるという観念を否定するアートマンの知識をもち、その知識が身体はアートマンであるという[一般の人々がもっている]観念とおなじほどに[強固な]人は、望まなくても解脱する。p27
二六 [アートマンは]みずから輝く知覚であり、見であり、内的な有であり、行為をしない。[アートマンは]触接的に認識され、一切のものの内にある目撃者であり、観察者であり、永遠であり、属性をもたず、不二である。p132
四六 縄が[存在する]ために、蛇が[縄と蛇とを]識別する前には、存在する[かのように見える]ように、輪廻も、実在しないとはいえ、不変のアートマン[が存在する]ために、[存在するかのように見えるのである]。p137
韻文編の中には、読みようによっては、非二元のことを説いていると思えるものもある。例えば、p37より
第10章 見
一 見(=純粋意識)を本性とし、虚空のようであり、つねに輝き、不生であり、唯一者であり、無垢であり、一切に遍満し、不二である最高者(ブラフマン)ーーそれこそ私であり、つねに解脱している。オーム。
二 私は清浄な見であり、本性上不変である。本来私には、いかなる対象も存在しない。私は、前も横も、上も下も、あらゆる方角にも充満する無限者であり、不在であり、不生であり、自分自身に安住している。
三 私は不生・不死であり、みずから輝き、一切に偏在し、不二である。原因でも結果でもなく、全く無垢であり、つねに満足し、またそれゆえに解脱している、オーム。
上記の一節は、読みようによってはセイラーボブの言っていることとかなり似ているような気がします。ただ、千年以上前の聖典を翻訳したものであり、これを理解するのは容易ではない気がします。解説が欲しいところです。
散文編は、師と弟子との想定問答の形式で書かれていて、師が弟子を理解へと導くよう対話が展開し、最後に弟子は理解へと到達し、輪廻から解脱します。
散文編は、韻文編よりも少しわかりやすい。翻訳してあるものの、詳しく解説されているわけではないので、はっきりとは理解できません。残念ながら、市の図書館にあるシャンカラ関連の本はこの二冊しかない。シャンカラが言っていることをはっきりと理解できなければ、アドヴァイタを理解したことにはならない。
もっと易しく書かれた解説書はないだろうかと考えて、アマゾンで検索したが、シャンカラ関連の本は高いものが多くて手が出ない。名古屋にある図書館で蔵書検索をしたところ、愛知県図書館に何冊かシャンカラ関連の本があるということがわかった。しかも、登録さえすれば誰にでも貸してくれるという。愛知県図書館まで行って借りることにした。
参考文献