2022/07/02

道元

道元といえば、只管打座(しかんたざ:ただひたすら座禅すること)ですね。それは知っていたのですが、それ以上のことは知りませんでした。法然や親鸞を学んでいるうちに、道元にも興味がわいたので、YoTubeで知ってるつもり「道元」を見ました。そこで思ったのですが、ここにも非二元の世界がある。

YouTubeの知ってるつもりはおそらく短命だと思われるので、それを参考にして道元について書いてみます。もしまだ動画を見ることができるなら、動画を見てください。

「道元今ここに生きよ」

「南無の会」 会長 松原泰道
「今ここ、自分を大切にすることが大切」
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曹洞宗 永平寺にある 「普勧座禅儀」道元著の中から
「座禅は悟りの手段ではない。座禅していることがそのまま案楽の法門、すなわち悟りそのものである」
今から800年前、禅の思想を打ち立てた道元禅師の言葉。只管打坐(しかんたざ)ただひたすらに座禅せよと、彼は説いた。
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松原泰道「あの坐る(すわる)という文字は象形文字で、土の上に人が二つあるわけです。片方が感情的、感性的とか言うエゴです。もう一つの側の方が、セルフ。だからこのエゴとセルフが対談するのが座禅。対座をして、今おまえは何だ、おまえ今どうだ、って対話をしていく」
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「正法眼蔵」道元が生涯をかけて書き綴った著作。
それは20世紀の西洋哲学によって明らかにされる時間や空間の問題を、13世紀日本において、縦横に語りつくした一大哲学書であったばかりでなく、生きることに悩み苦しむ人間の糧となる言葉が珠玉のようにちりばめられた人生の書でもあった。道元は書いている。

仏道を習うといふは自己を習うなり

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第一章 禅入門

達磨が禅を確立。インドから中国へやって来た達磨大師のこと。座り続けたその恰好からもわかるように、仏教の教えを経典や学問ではなく自ら実践する座禅として確立。やがて日本へ渡ったきた禅には大きな二つの流れがあった。

一方が栄西の臨済宗の禅。その特徴は公案。いわゆる禅問答の課題を解こうとする精神的な格闘を座禅と並ぶ修行と考えている。有名な一休さんのとんち話による禅の教えはその代表。

そしてもう一方が道元の曹洞禅。只管打坐。わき目もふらずただただ座禅をする。

両者とも、目指すところは心と体が一体となった安心(あんじゅう)。そしてその中から様々な日本の文化を生み出した。

精進料理、食べることの中にも悟りがある。素材は単なる物質ではなく尊い命そのもの。合気道、茶の湯も禅思想の影響を受けている。松尾芭蕉の俳諧。その背景にあるのが、山川草木と一体となったあるがままの精神。その潮流を生み出したのが道元。

第二章 ただひたすらの道

只管打坐(しかんたざ)
「作法これ宗旨(しゅうし)なり 得道(とくどう)これ作法なり」 生活のすべてが仏道と一つになった生き方。道元は修行僧たちの生活のすべてを厳しく形に定めた。その厳しさによって、日々新たに生まれ変わり、そして、ゆらぐことのない心の自由を得ること、それこそが道元が自分自身のすさまじい心の葛藤の歩みから導きだした禅の教えだった。

道元は1200生まれ1253年没。54年の生涯。その間の人生は表面だけを見ると決して波乱に富んだものではない。幼少にして出家し、自らに湧き出た疑問を解くため、中国にわたり、修行の果て、その答えを見つけ出し、そして日本に戻ったのち、それを広く伝えるために道筋を作った。

若き道元の心に湧き起こった問い

「本来本法性 天然自性身(ほんらいほんほっしょう てんねんじしょうしん)」
それはどんなものだったのか。

第三章 仏道をならうといふは自己をならふなり

道元は貴族の名門の生まれ。3歳で父を8歳で母をなくす。
1212年、道元13歳の時出家。源実朝の時代。一族の期待と世俗の名利を捨てて、自らの意思で出家して比叡山へ。だが、比叡山は堕落しきっていた。僧侶の関心は名誉と富の蓄積に注がれていた。そんな中にあって、道元はひとり学問にのめり込む。だが、ある大きな疑問にぶち当たる。

「本来本法性 天然自性身:ほんらいほんほっしょう てんねんしじょうしん」 
人間は本来仏である。仏の心を持ち、仏の体を持っている。
ではなぜ、釈迦や歴代の高僧たちは修行してきたのか。
本来仏なら、なぜ修行の必要があるのか。

答えを得られないまま、比叡山を降りて禅に近づく。
遡ること十数年、中国から帰った栄西によって禅が日本にもたらされた。当時流行していた法然、親鸞による念仏、あるいは最澄、空海によってもたらせれた密教など、仏教の新しい装いの思想とは違って、禅は釈迦に直接つながろうという教え。

1217年、18歳で建仁寺に入り、栄西の弟子明全(みょうぜん)に師事する。その時すでに栄西はすでに没していたが、栄西のもたらした名利や財を追及しない禅の世界は道元に仏教への新しい希望をもたらした。

明全のもとで道元は禅の修業に励んだ。だが後鳥羽上皇による鎌倉幕府打倒の承久の変が起こる。道元は入宋求法(にっそうぐほう)を決意。1223年明全とともに宋へと渡る。

第四章 心身脱落

最初の寄港地寧波(にんぽう)での体験。
道元の船に椎茸を求めにやってきた典座(てんぞ:禅寺の炊事当番)の老僧と出会う。いろいろ聞きたいと申し出たが、老僧は炊事の準備があるからと断ろうとする。道元は聞いた。

「あなたのような高齢者がなぜ典座の雑用に追われなければならないのですか?」
「立派な若い外国人の客よ、あなたはまだ修行や求道がなんであるかも、文字の何たるかもお分かりではないようだ。」

さらにその老僧に教えを乞うと、
「すべてが修行であり、すべてが文字である」と答えた。
道元は思った。
(仏法を合理的にただ理屈でわかろうとするなら何も得られまい。問題と自分が一体になることだ。問いと自己が一つになるその人こそ文字を知り道を体得した人に他ならない)。

二か月後、目指した天童山天童寺に入る。
ある夏の炎天下、食事係の老僧が、傘もかぶらず椎茸を干していた。
道元は聞いた。
「なぜ行者(お付きの僧侶)や人工(寺男)にやらせないのですか?
すると老僧は答えた。
「他は是れ、吾にあらず!(他のものにやらせたとしたら、それは自分ではない)」
道元は驚きながらもさらに聞いた。
「わざわざ炎天下の中でしなくても、もっと陽が陰ってからにすればどうですか?」

答えて老僧曰く、
「さらに何れの時をか待たん!(今やらなくては、いつやるというのか?)」

道元は記している。
すべては仏道の実践である。つまりは、掃除も炊事も雑用ではない。禅者にあっては、本来雑用はひとつもない。

今ここ、われ。

行住座臥(ぎょうじゅうざが)(日常の立ち居振る舞い)日常の振る舞いの隅々まで気を配る道元禅の豊かな広がりが若き日の宋での体験からはぐくまれていった。

天童寺では最初、正師(しょうし:正しい師)に出会うことができず、疑問を解消することもできず、諸山を遍歴。日宋してから二年目の五月、再び天童寺に帰り、如浄(にょじょう)に会う。「目のあたり、先師(せんし:先生の意)を見る」とうとう正しい師を見つけたと、その日からはげしく座禅に励んだ。

道元は書いている。如浄はその座禅布団を体から離さず、時には岩の上でも座禅した。釈尊が修行された、かの金剛坐をも坐り破ろうと、尻の肉がただれ破れるときこそ、いよいよ座禅を好んだ。(正法眼蔵)

ある日、早朝に皆で座禅をしている時、一人の僧侶が居眠りをしてしまい、如浄がこう一喝した。
「座禅とは常に心身脱落(しんじんだつらく)でなければならない。居眠りをしていて、どうしてそのことが叶おうか!」(行状記より)

その言葉にはっとして道元はすべての迷いを解いた。心身脱落の瞬間でした。長年の疑問も何もかもが道元の中で溶け去った。

如浄のもとで求める仏法を得た道元は、1227年に日本へと帰朝する。それは仏典を持ち帰るでもない、様々な法具をたらすでもない、身一つの帰還。まさしく自分自身が仏法となったからだった。

「確かな仏法とはいっても、実は目は横に並び、鼻は縦にくっついているというようなあたりまえのことであった。毎朝、太陽は東からのぼり、毎晩月は西に沈む。雲が晴れあがると、山並みがあらわれ、雨がとおりすぎると、あたりの山々は低い姿をあらわす。三年が過ぎると閏年に逢い、鶏は早朝に鳴くものである。その他に何か特別な仏の教えがあるものではない。」永平禅師語録より

あるがまま 

帰国後そのことを広めようと苦難の道に乗り出す。

終章 あるがまま

1230年31歳、京都深草に居を定め、深く世に座禅を広めようとする。

「座禅は悟りをうるための修行ではない。座禅こそは大案楽の法門の手段ではない。座禅していることがそのまま大案楽の法門である。座禅の修行こそは悟りそのものなのである」道元 普勧座禅儀より

道元のもとには多くの弟子と在俗の信者が集まりだした。

道元は「あるがまま」の教えを広めようとした。
今ここに生きている自分に徹せよ。それこそが道元の禅の教えだった。そして1233年34歳の時に正法眼蔵を書き始める。

正法眼蔵
「仏道をならふというは自己をならふなり 自己を習うというは自己を忘るるなり」

仏の道とは自分自身とは何かということを追及すること。
仏道とは自己を忘れること。あらゆるものは生かされているということ。

心身脱落。

比叡山の圧力が念仏のあと、道元にも及んだ。道元は北陸へと逃れる。その一年後大佛寺(現永平寺)を建立。

道元の歌

「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 涼しかりけり」

道元は当たり前の自然に絶対の真実を見ていた。

1252年の秋、療養のため京都へ。翌年亡くなる。54歳の生涯。

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私は過去に、呼吸を見つめる瞑想を何年もやったことがあります。座禅のような姿勢で座って、鼻から入る自分の呼吸を見つめるという瞑想です。私は座禅はやったことがありませんが、やっていることは座禅と同じだと思ってやっていました。時間は、多い時は一日一時間。少ない時は20分ほど。これを何年もやりました。

これをやると、マインドがものすごく落ち着きます。ある種の精神安定作用があるのは確かです。当時の私は、この瞑想は覚醒(エンライトメント)を得るための手段だと思ってやっていました。でも、何年やっても覚醒は起きませんでした。何年やっても覚醒が起きないので、他の方法を試すようになり、いつしかすっかりやめてしまいました。

このブログの法然/親鸞のところでも書いたことですが、町田宗風先生が言われるように、座禅、念仏、千日回峰行など仏教における行はすべて、自分は体でも心でもないということを体得するための手段なのではないでしょうか。

道元も同じようなことを言っていて、座禅は心身脱落(体と心を落とすこと)、つまり、自分は体でも心でもないということを感得するための手段だと言っています。私たちはもともと仏なら、なぜ先人たちは修行の必要があったのか。それは心身脱落のため。自分は体でも心でもないと気づくためです。

ここで、仏教と非二元は同じゴールへとたどり着きます。理解による道、瞑想による道、修行による道。すべては同じゴールへとたどり着きます。すべては、「私」などいないということを知るためです。

呼吸を見つめる瞑想をやっている最中は、体もマインドも消えていました。その状態こそは心身脱落であり、悟りなのだと思います。でも当時は誰もそれを教えてくれなかったし、自分でそれに気づくこともありませんでした。今から思うと、もう十分に悟りを体験してきたし、空を見てきたのだと思います。そして、座禅や念仏、その他の行も有効なものだと思うようになりました。