セイラーボブはミーティングで盤珪についてたびたび触れています。また、鈴木大拙は、鈴木大拙全集の第一巻が盤珪となっていることからもわかる通り、禅におけるもっとも重要な人物であると捉えていると思われます。
盤珪については、以前ブログに書きましたが、もう一度経歴などを掲載しておきます。
盤珪は江戸時代(1622年-1693年)、姫路市生まれの臨在宗の僧。
儒医(儒学者であり医者でもある人)の家の三男として生まれる。もともと頭が良く、十二歳の時に儒教の基礎経典である「大学」を学び、「大学の道は明徳を明らかにするに在り」という冒頭の一句に出くわして、「明徳」とは何かという疑問に取りつかれてしまう。
「明らかな徳」とは何であるかを知るため、17歳の時に出家。「明徳」の答えが得られず、20歳の時に寺を出て諸国行脚へ出発。断食、京の五条橋下での四年間の乞食など命がけ修行をする。24歳の時に寺へ帰るが、答えは見つけられなかったため、帰郷。
故郷に帰り、庵を建て、そこで決死の覚悟で修行に励む。数年間修行の後、大病にかかり、吐血するようになる。七日ほど粥しか食べられない日が続き、もう終わりだと思っていたところ、真っ黒な木の実のような痰を吐く。それをきっかけに、体調が快方に向かい、その途中、26歳の時に「明徳」とは、不生の仏心のことであると理解する。
その後、経典や公案に頼らず、平易な言葉で人々に語りかけ、多くの人に教えを広め、いくつかの寺を開き、たくさんの弟子を育て、人々の尊敬を集め、72歳で亡くなる。
中国から日本に伝わった禅は日本でさらに発展し、盤珪の生きた江戸時代初期までには多くの寺院が建てられ、座禅、公案、経典の研究がさかんになされました。
しかし、そうした学究的、修行的な禅に対抗して現れたのが盤珪の不生禅であり、座禅、公案、経典の研究に頼らなくても理解は可能だという画期的かつ反伝統的なものです。その教えは大変わかりやすく、多くの民衆の支持を集めました。
後世になって、臨在宗の僧として有名なのは、道元(1200~1253)、白隠(1686~1769)で、盤珪はそれほど有名ではなかったようです。それを掘り出して研究、発表したのが仏教学者の鈴木大拙(1870-1966)です。鈴木大拙によって、盤珪は世界に紹介されました。
さて、最初に謝罪しておかなくてはいけないことがあります。私がこのブログで過去に盤珪の不生の仏心について書いたとき、例えば用語集では、
unborn Buddha mind「不生の仏心」
「不生の仏心」とは生まれる前の状態のことをいう。そこには思考(言葉)がないため、問題もないという意味。
と書きました。でも、学問的にはこれはどうも違うようです。「不生」というのは、後天的に新たに生み出されたものでなく、もともと具わっているもの。という意味が正しいようです。(参考サイト:円覚寺横田南嶺老師ブログ)
英語の unborn には、(生まれる前)という意味と、(生まれることのない)という意味があって、この場合は(生まれることのない)という意味。生まれることのない仏心。つまり、もともと人は仏陀の心を持っているという意味が正しいようです。
生まれる前の心はもともと仏陀なのだという理解でも、それほど間違いではないけれども、そうではなくて、何もしなくても、あなたの心はもともと仏陀なのだ、修行をして生み出す必要はないという意味のようです。
人の心がもともと仏心であるというなら、達磨が、「マインド(こころ)は仏陀である」と言ったことが納得できます。
ただそれだけ―セイラー・ボブ・アダムソンの生涯と教えの中で(p119)、セイラーボブは、「彼(盤珪)が語っている不生の心とは、思考が起きる前のものです」と言っています。
後天的に作り上げたものではないマインドと、思考が起きる前のマインドとは同じと考えていいのではないかと思います。いずれにしても、もともとのマインドが仏心であるという意味だと思います。
今回、盤珪のことを書こうと思って、参考文献を調べてみると、盤珪については膨大な書籍があると知って驚きました。人気がある人なんですね。「盤珪」で愛知県図書館の本を検索すると、全部で22冊出てきます。その大半を実際に手にとって読もうとしたのですが、読めないものも多い。非常用漢字が多く、江戸時代の言葉で書かれていて、現代語ではない部分が多い。本を読むよりも、ネットで学んだ方がわかりやすいと思います。詳しく知りたい方は、参考サイトで見てください。
盤珪禅師語録 (岩波文庫 青 313-1)を読んでいて、とても興味深い一節をみつけました。p33、御示之聞書 十九にある一節ですが、そのまま転載しても、非常用漢字の江戸時代の言葉で書かれていて、頭にすんなり入ってこないので、私の現代語訳で書きます。
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盤珪禅師は聴衆に向かって説かれた。親が産み付けてくださったものは、仏心一つである。そのほかに余分なものは何一つない。その親に産み付けてもらった仏心は、不生にして霊明(れいみょう)なものである。不生の仏心、その仏心は不生であって、不生で一切のことがととのいます。
不生で一切のことがととのう証拠は、あなたたちがこちらを向いて、私の言うことを聞いている時、後ろでカラスの声、雀の声、それぞれの声が、聞こうと思わなくても、それがカラスの声、雀の声だと間違わずに聞こえている。それが不生というものです。同じように一切のことが不生でととのうのです。これが不生の証拠です。
その不生にして霊明なる仏心が正しいと思い、素直に仏心のままでいる人は、今生より未来永劫の活仏(いきぼとけ)活如来(いきにょらい)です。今日より活仏心でいる故に、我が宗を仏心宗と言います。
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この話は盤珪の十八番だったようで、この本の中で何度も繰り返し登場します。これを読んで私は、セイラーボブとの会話を思い出しました。
拓「どうしたら、マインド(思考)から抜け出せるのでしょうか」
ボブ「外を走るトラムの音に気付いていますか?」
拓「音がしているのは聞こえています」
ボブ「あなたはマインドから抜け出る必要も、マインドを止める必要もありません。マインドが動いていたとしても、知性エネルギー、アウエアネス(意識)は機能し続けています。トラムの音を聞いているのはあなたの思考ではありません。それはあなたの思考とは無関係に、トラムの音を聞き、あなたの心臓や呼吸をつかさどって働き続けています。それが本当のあなたです」(2015.1.18ブログ)
アウエアネスという言葉を仏心に変えてみてください。
参考文献
盤珪禅師逸話選 現代語で書かれている。これは読みやすい。
盤珪禅師語録 (岩波文庫 青 313-1) 非常用漢字、江戸時代の言葉で書かれているが読めないことはない。
鈴木大拙全集〈第1巻〉禅思想史研究第一・盤珪の不生禅 非常用漢字、漢文調でお手上げ。
名僧列伝(二) (講談社学術文庫)
空海たちの般若心経
「ただそれだけ」p.119
参考サイト盤珪 永琢(ばんけい ようたく/えいたく)Wikipedia
霊芝山 光雲寺「明徳」の意味を理解する様子はこのサイトが詳しい。
臨済宗妙心寺派大澤山 龍雲寺 blog 教えについては、このサイトがわかりやすかったです。