2022/05/14

牛頭法融(ごず ほうゆう) 心銘(しんめい)

心銘

心は不生である。
それをどこかで見つけることはできない。

あらゆる物は空(くう)である。
それなのに、どうして純、不純と言うのか。

あちらこちらと探せば探すほど、
それは遠のいていく。

心が停止すると、
あらゆるものごとはあるがままで完全である。

それを理解したなら、
もはや教義は不要となる。

はっきりと識別することができ、
正しくものごとの本質を見ることができるだろう。

もし心の一体性が失われれば、
どんな教えも役には立たない。

果てしなくあれこれと思いをめぐらせ、
どうして自らを疲れさせるのか。

命は不生なのだから、
未分割のままで姿を現す。

もし心の平安を望むなら、
無心こそが道である。

心ででっちあげたものがないとき、
それが最良のものである。

あなたは不知によって実在を知り、
その不知が知るべきことを知っている。

心に働きかけても、
決して自身を解放することはできない。

執着を手放し、忘れることができれば、
あらゆるものごとが自然と完全になる。

最上の真理は言葉では言い表せず、
何かを為すことや為さないことでは達成できない。

命に対する理解、感応は、
いつもその時その場で起こる。

あらゆるものが空となり、
あなたは空に慣れ親しむようになる。

光明を追い求めなければ、
それは自然と現れる。

思考は自然と現れては消えるが、
それはどこからもやってこず、どこへも行きはしない。

思考を実在と思わなければ、
それは自然と消える。

三界には何ひとつ実在のものはない。
仏陀も心も見つからない。

あらゆるものごとは無心の中で自然と現れる。
無心なくしては何も現れない。

ものごとを神聖と世俗に分けても、
自身の心を混乱させるだけだ。

想像上の完全さを追い求めることは、
目の前のごちそうを無視するようなものだ。

二元的な観念を放棄すると、
ものごとはただ単にあるがままである。

そうならば、役に立たない修行や儀式に従う必要はない。

開放的な意識の中で心はくつろぎ、束縛を離れる。

分割されていない三昧の中では、何も見えない。
そこには障害となるものは何もない。

開放的な意識の中では、すべてはあるがままである。
三昧の中では心は分割されていない。

あらゆるものが、ありのままであり、
それはすべて同じ真如(しんにょ)として現れている。

あらゆるものが現れては消える。
あなたが掴めるものは何もない。

あるのはそれだけ。
それは来ることもなく、去ることもない。

あなたが達成しなければならないことなど何もない。
頓教も漸教もない。

それはただあるがまま。
言葉で言い表すことはできない。

無心の中でくつろぎさえすれば、
何もすべきことはない。

あらゆるものごとの本質は空であり、
障害は自然と消えていく。

純、不純というものはない。
表面的、深淵というものもない。

過去を見つけることができず、
現在は手の届かないところにある。

あらゆるものごとが真如の中を漂っている。
そしてそれが本性である。

もしそれを捕まえようとしなければ、
それは自然とそこにある。

実在はもともと、あるがままにある。
作り出さなければいけない何かではない。

般若は自ら輝く知性である。
あなたが何を創造しようと、すべてはそれである。

帰るところはどこにもなく、行くべきところもどこにもない。
執着を捨てて、野望を忘れよ。

大きな喜びと慈愛が自然に広がり、
自然の落ち着きが力強くそこにある。

六感が自然に働けば、
開放的な意識が概念化によって曇ることはない。

そうすれば、心が妨害されず、
あるゆるものごとが自然と調和するだろう。

心と感情は同じ源を共有し、
調和して混乱はない。

開放的な意識は現象を排除しない。
それらはともに神秘的に混ざり合っている。

目覚めた人と目覚めていない人は違うように見えるが、
それでも彼らは根本的に同じである。

達成と未達成、
どうして良し悪しをつくりだすのか。

あらゆるものごとは存在しているように見えるが、
それは存在でも非存在でもない。

観念化する心は真の心ではない。
真の心は改善を必要としない。

分割があれば手放しなさい。
実在においては不分割のみが存在する。

あなたが掴むことができるものなどないということを理解しなさい。
そうであるなら、何を取り除く必要があろうか。

物が実在であるかのように話すのは意味がない。
言葉はあらゆる種類の幻影を作り出す。

感情なしでいようとしてはいけない。
ただ、観念化することをやめなさい。

無心の中では、あなたの偏った考えは消滅する。
不動の中では心の状況は消えてなくなる。

それを見つけようとしても無駄である。
なぜなら、見つけようとしているものが見ているものだからだ。

二元的な考え方を捨てなさい。
それすればそれはそこにある。

体験する時には、あなたの五感を開きなさい。
すべてが流れ込むように。

もし何物にもしがみつかなかったら、
すべてが無心の中で漂う。

物事にしがみつかなければ、
物事はいかなる問題も引き起こさない。

心は広大であり、安らかである。
しがみつくものも、手放すべきものもない。

あらゆるものごとは現れては消える。
その時、心はどこにあるのか。

最終的には心も対象物もない。
ただ、広々とした無心があるだけである。

自身の本性を認識しようとするのは、
水の中で水を見るようなものである。

聖人を他の人が理解することはできない。
なぜなら彼は分割できないものを分割しようとはしなからだ。

彼は、他の人が考えていることには興味がない。
彼の心は流れる水のように漂う。

もしあなたがものごとへ執着を手放せば、
心配事から解放さるる。

もしあなたがものごとを分割しないのなら、
時間というものを見つけることはない。

あなたは愚か者のように見えるかもしれないが、
実在の中に根をおろしている。

周りの環境が変化すれば、
あなたは柳の枝のように曲がるだろう。

どんな固定した視点も持たなければ、
そこには主体も客体もない。

あらゆる方向へ漂っていくと、
不分割なものだけが広がっている。

ものごとを考え抜こうとすれば、混乱を生むだけである。
そして混乱は分裂をもたらす。

もし動揺を心で鎮めようとすれば、
心はさらに燃え上がるだけである。

あらゆるものごとは不変の実体を持たない。
それらは皆、同じ門よりやってくる。

それは到着の門でも、出発の門でもなく、
不動の門でも、活動の門でもない。

理解力の乏しい人たちは、
このことが理解できない。

実在の中で、あなたは決して何一つ見つけることができない。
すべてのものごとは空である。

このことだけが真実である。
あなたはそれ以外、何も見つけられない。

真の知識は常に不知である。
そして、真の空は決して空ではない。

過去、現在、未来の賢人たちは
みな同じことを言うだろう。

この真実は不変的なものである。
その他には何もない。

もしあなたが、何にも執着しなければ、
安らげるような環境を作り出す必要はない。

心はもともと安らかである。
それは広大で、それ自体が光である。

それは束縛されていないもの。
自然と現れる何かである。

何もなすべきことはなく、あなたは好きなようにしてよい。
活動していようと休んでいようと、それは一つの真如である。

般若は活力にあふれた生命知性である。
三昧の本質は不動である。

それらは同じものの二つの側面である。
それは、一つの言い表せないものを現している。

何をすると決めたとしても、
評判や利益をあてにしてはならない。

教えるために、いかなる教義も作ってはならない。
空の家の中でしばらく安らかに休みなさい。

あなたは道の中に満足を見つけるだろう。
そこには広大さと自由があふれている。

何もすべきことはなく、何も手に入れるべきものもない。
もともとすべては分割できない完全なものである。

至福、喜び、愛としての広大な生命の活力が
この全体性から流れ出ている。

混乱のない心によって、
あらゆるものごとが調和している。

すべては未生のものとして存在しているということを理解したなら、
それは永遠にあなたとともにある。

賢者は誰しもこのことを理解しているが、
あなたがそれを説明する方法はない。

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牛頭法融(ごず ほうゆう:594年~657年)は、牛頭宗(ごずしゅう)の開祖。牛頭宗は唐代の禅宗の一派。

心銘では、もともとあらゆるものが完全であり、何も探す必要はないし、手に入れるべきものはないと言っているように思えます。

参考サイト

牛頭法融とはーコトバンク

Wikipedia 牛頭宗

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牛頭法融 Niutou Farong (594-657)心銘 Xin ming

仏とは何か