2022/05/11

竜馬がいく・池田澄子百句・早わかり日本史 ・求めない・タオ老子・私のタオ・我慢の思想

竜馬がいく 司馬遼太郎
これを読むのはけっこう時間がかかりました。でも、読んでいる間、なるべくゆっくりとていねいに読みました。なぜかというと、読んでいて勇気が出るというか、元気がでる感じがして楽しかったからです。坂本竜馬は本当にすごい人だと思いました。臆するということがない。物事を大きく考えて、姑息な手を使わずに真正面から正々堂々とぶつかっていく。それでいて誰も考えないことを次々とやっていく。

幕末から明治維新という時代がそうだったのかもしれません。勝海舟、西郷隆盛、中岡慎太郎、徳川慶喜、松本良順、岩崎弥太郎、こういった人たちそれぞれが物語の主人公になりえる人たち。去年は渋沢栄一、今年になって関寛斎、胡蝶の夢と、幕末から明治にかけての本を読んでいるが、それぞれの登場人物がクロスしていて、同じ時代なのにそれぞれが違う視点で描かれていておもしろい。もっともっとこの時代のものを読んでいくつもり。
司馬遼太郎は感動の押し売りのようなところがなくていい。淡々と資料を調べて繋げて物語にしている。

池田澄子百句
真似できそうでできない池田澄子の句集。まったくすばらしい。
「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」
「ピーマン切って中を明るくしてあげた」
「想像のつく夜桜を見に来たわ」
「椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ」
「目覚めるといつも私が居て遺憾」
「蓋をして浅蜊あやめているところ」

早わかり日本史 河合敦
日本史の知識が不足していると痛感したので、高校生向けの参考書を読んでみた。これはなかなかいい。一回読んだだけでは頭に入らないので、またいつか読む。
もうちょっと網羅的でやさしい教材はないかとYouTubeで探したところ、まんが日本史というアニメを公開している人が二人いたので、全部通して見た。少しは日本史がわかるようになった。
それで思ったことは、NHKの大河ドラマを見ても、あまり歴史の勉強にはならないということ。参考書や本の方が勉強になる。

求めない 加島祥造
老子研究、タオイスト、加島祥造の詩集。タイトルにある「求めない」という言葉にあふれた詩集。まったくすばらしい。人間は求める生き物。だから求めないでいよう。日頃、「欲望を追わない」ことを実践しようと生きている私には響くものが多かった。冒頭部分を少し。

求めない
すると
簡素な暮らしになる

求めない
すると
いまじゅうぶんに持っていると気づく

求めない
すると
いま持っているものが
いきいきとしてくる

少ししか求めない
すると
その手に入った少しのものを
大切にする
ほんとうに味わう
そして、ほんとうに楽しむよ

タオ老子 加島祥造
「老子道徳経」の加島祥造流の翻訳本
私のタオ 加島祥造
「老子道徳経」と老子にまつわる加島祥造の遍歴の記録とエッセイ。

老子の言う「タオ(道)」とはいかなるものか、それがセイラー・ボブの言う「知性エネルギー」と同じものなのか、老子の教えは非二元の教えなのか、似たところはあるのか、そういったことが知りたくて読んだ。

加島さんによると、タオとは、万象万物の中に動くエナジーだと言う。
「宇宙に満ちているエナジーは、天地ををつくり、そこに生きるあらゆる生物のなかに働いている。彼(老子)はそのエナジーを仮に「道(タオ)」と読んだのであり、このタオが地球の生物すべてを生かしているーーこれが彼(老子)の思想なのだから、」・・・以上p37から引用。

これはセイラー・ボブの教えに似ていると思って読んだが、結論から言ってしまうと、「タオ(道)」と「知性エネルギー」が同じかどうかはわからない。でも似ている。そして、老子の教えが非二元の教えか、似ているところがあるかというと、同じではないし、似てもいないと思う。

大きな問題は、老子が残したと言われる書物は、「老子道徳経」のみがあるだけだということ。それは81章、5千数百字からなるもので、非常に短い。それが三千年近く前の古代中国語で書かれている。何が問題なのかというと、誰も正確に読み解ける人がいないということ。

これは加島さんの訳が悪いという意味ではありません。中国語に堪能な学者でも、西洋の研究者も、古代の中国語を正確には解釈できなのが現状らしいということです。これは中国の仏典を読む時にも同じハードルがあるのですが、仏典よりも千年以上前のものなので、もっとハードルは高くなっています。

そのため、いろんな人がいろんな解釈本を出している。「タオ老子 加島祥造」もその一つであり、氏はかなり自由な現代口語訳で訳している。

紹介のため第一章を載せる。

これが道(タオ)だと口で言ったからって
それは本当の道(タオ)じゃないんだ。
ころがタオだと名付けたって
それは本物の道(タオ)じゃないんだ。
なぜってそれを道(タオ)だと言ったり
名づけたりするずっと以前から
名の無い道(タオ)の領域が
はるかに広がっていたんだ。
まずはじめは
名の無い領域であった。
名の無い領域から
天と地が生まれ、
天と地のあいだから
数知れぬ名前が生まれた。
だから天と地は
名の有るすべてのものの「母」と言える。

こんな調子で始まるので、おお、これは非二元の教えかもしれないと思って読み進んでいくと、いつのまにか道徳的な教えにいきつく。

第44章から

君はどっちが大切かね
地位や評判かね?
収入や財産を守るためには
自分の身体をこわしてもかまわないのかね?
何を取るのが得で
何を失うのが損か、本当に
よく考えたことがあるかね?

名声やお金にこだわりすぎたら
もっとずっと大切はものを失う。
物を無理して蓄めこんだりしたら、
とても大きなものを亡くすんだよ。

なにを失い、なにを亡くすかだって?
静けさと平和さ。
この二つを得るには、
いま自分の持つものに満足することさ。
人になにかを求めないで、これで
まあ充分だと思う人は
ゆったり世の中を眺めて、
自分の人生を
長く保ってゆけるのさ。

そして、全部読んでも、非二元的な要素はあまり出てこなかった。読みようによってはそう読める箇所も随所にあるが、鮮明とは言えない。

ちなみに、この本では、老子が悟った人だとか、エンライトメントした人だとかいう話は微塵も出てきません。私はそういった方向から老子に興味を持っていたのですが、そういう話はありませんでした。

多くの人が、老子は悟った人だとか、覚醒した人だというようなことを言いますが、これはもう伝説の世界の話であって、その解釈となると、人によって様々な世界です。老子の思想としてではなく、加島祥造の思想として興味が湧いたので、もっと読んでいこうと思います。

我慢の思想 中野孝次
中野孝次のエッセイ集。内容は、「人が人となるためには最低限これだけの心構えは持ってほしい、とかねがね感じた心構えの五十章だと言っていい」と、「おわりに」にある。中野孝次の清廉な思いが詰まっている。身のつまされる思い。こんな心構えで生きていきたいもの。まったくすばらしい。