六祖壇経(ろくそだんきょう)
(要約)
その一
一行三昧(いちぎょうざんまい)とは、どんなことに従事していようとも、無思考でいるということである。維摩経(ゆいまきょう)ではこう言っている。「マインドに雑念がなく、くつろいでいる時、他に何も為すべきことはない。それが涅槃である」。それゆえ、観念にとらわれず、無思考にとどまる状態は一行三昧と呼ばれる。
ものごとの表面しか見ない浅はかな人は、一行三昧とは、動かないで無理やり座って思考を抑えつけることだと思っている。彼らは、それが三昧(サマーディ)であると思っている。
無心とは、不動や無意識とは何の関係もない。そうしたことは生命エネルギーの自由な流れを妨げることとなる。命は自由に流れることを許されるべきである。生命エネルギーの流れを妨げると、締め付けを生むこととなる。
もしマインドがくつろいでいて、それでいて自然に注意深くあり、ものごとに執着していなければ、生命エネルギーはバランスがとれていて締め付けは起きない。もしマインドが張りつめていれば、不自然な状態となる。
もし、「座って動かないのが正しいことだ」というなら、あの舎利弗(しゃりほつ)が林の中で座禅していた時、維摩(ゆいま)に叱られたはずはない。
多くの教師たちは人々にあれやこれやの宗教的訓練を教える。そして人々はこうした種類の訓練を実践する。人々はこうしたことが何の役にも立たないということを理解しない。人々はこうした訓練に取りつかれるが、最終的にはまったく役に立たない。このような人が大勢いる。こうしたことを教えている人たちは大きな間違いをしている。
その二
釈尊の教えには、もともと頓教(とんぎょう:修行しないで、ただちに悟ることができるとする教え)と漸教(ぜんぎょう:長い修行のすえに悟ることができるとする教え)の区別はない。もし何か違いがあるとすれば、それは人々の天分の違いである。会得する人が早い人もいれば、遅い人もいる。
会得するのが早い人は即座に理解し、遅い人は徐々に理解する。もしひとたび自己の本性を理解したなら、早いも遅いも何の違いもない。頓教と漸教は便宜上の名にすぎない。
その三
私がこれから説く教えは、先人から代々受け継がれているものである。それは無心(ノーマインド)と呼ばれ、三つの原理から成り立っている。その根本的な原理は無念(無思考)である。無念とは、何かを考えていても、その思考にとらわれないで自由でいること。
そして次が無相である。無相とは形のないこと。すなわち、現象として現れているものごとにとらわれないでいるということである。そして三番目が無住である。無住とは、心の中の一切の束縛から自由であり、ものごとの本質と調和しているということである。
自身のマインドを見つめると、思考が際限なく次々とやってくる。しかし、そのすべては過ぎ去っていく。特定の思考が無期限に続くことはない。過去、現在、未来の思考が川の流れのように次から次へと続くが、もし思考に対して反応しなければ、あなたはその思考に束縛されることはなく、無条件の意識としてくつろぐことだろう。
反対に、特定の思考にしがみつけば、さらなる思考を生じさせ、それに縛られてしまうだろう。あらゆる状況において、やってくる思考に対して、しがみつくことも拒絶することもしなければ、あなたのマインドは常にオープンで、自然と注意深くあり、くつろいでいる。それゆえ、無思考がきわめて重要な原理といわれている。
無相とは、現象に対して執着、あるいは嫌悪がないということである。喜ばしいことが起こった時も、不快なことが起こって混乱した時も、その現象に惑わされなければ、あなたの本質は変わらずにバランスが取れている。それゆえ、無相が実体であると言われている。
無住とは、まわりの環境に惑わされないことである。すべてが空(くう)であると理解したなら、もう物にとらわれることはなくなる。どんな物が現れても、協調してやっていくことができるだろう。もし、多くのことを考えることをやめると、ものごとに悩まされることはなくなり、束縛のない意識の中でくつろぐことができる。
その四
あなたたちはこの教えの意味を正確に理解しなくてはいけない。それを理解できなければ、さらなる誤った解釈におちいることとなる。誤った解釈は、あらゆる種類の観念を生み、そこからまた誤った考えが生じ、貪欲と不快を生み出すこととなる。あなたは思考の性質を理解しなくてはいけない。
無とは、何がないことなのか。念とは何を念ずることなのか。無とは、主観と客観の対立がないことであり、人のマインドを迷わす煩悩がないことである。念とは、ありのままの本性を思うことである。ありのままであることが念(思考)の本性である。
思考を起こしているのは本性である。しかし、たとえもしあなたが、見たり聞いたり知覚したりしたとしても、本性と調和していて、現れるすべての現象にとらわれなければ、あなたは束縛されず、安らかでいられる。維摩経ではこう言っている。「現象として現れるものごとを区別していたとしても、内側の空がゆらぐことはない」
その五
この教えの本質とは、あなたがものごとを体験する時、現れてくるものごとに対して、執着も拒絶もしないということである。マインドがオープンでクリアーなら、六感は自然と機能する。あなたが、感覚の世界のただ中にいても、それにしがみつくことも拒絶することもなければ、あなたはそれとともに自由に流れていく。それが、般若波羅蜜多である。自己の束縛から自由でいることを無心(ノーマインド)と言う。
しかしながら、力づくで思考が起こってくるのを止めようとしたり、多くのものごとをさえぎろうとしたりすれば、自身を締め付けることになる。もしあなたが、完全にこの教えを実行するなら、最終的には束縛のない計り知れない平安を見つけるだろう。
その六
座禅とは、もともとマインドに執着することでもないし、清浄に執着するのでもなければ、不動でもない。マインドはもともと捉えどころのないものである。マインドは幻のようなものであるから、それに執着してはならない。清浄ということに執着すれなら、人の本性はもともと清浄であるから、妄想によってありのままをおかしくしていることになる。
座禅とは、常にオープンでくつろぎ、観念的な思考に束縛されないということである。外的には現象にとらわれず、内的にはマインドに動揺がないことが座禅である。無数の現象の中にいるときでさえ、内側が乱されていなければ、瞑想が自然と起こる。
外側の環境にとらわれてしまうことは混乱の原因である。外側の世界の現象にとらわれないでいることが禅である。内側の世界で乱されないでいることが瞑想である。それが座禅である。維摩経では、「あなたは一度も本性から離れたことはない」と言っている。梵網経(ぼんもうきょう)では、「あなたの本性は初めから同じままである」と言っている。
その七
本性はただあるがままである。いかなる欠点、混乱、無知もない。あらゆる思考はもともと内在する生命知性の輝きの放射である。無条件に意識の中でくつろぎ、ものごとの見せかけに固執しなければ、他に何をなすべきことがあろうか。自らにもともと備わっている本性に目覚め、目前の存在意識にとどまるなら、そこには段階的なものは何もない。そこには作り出されるべきものは何もない。
その八
目覚めたマインドと目覚めていないマインドの実体には何の違いもない。ただ一つの、もともとの本性があるだけである。愚かな人にそれが足りないわけでも、賢い人にそれが余分にあるわけでもない。目覚めた人にも目覚めていない人にも、それは同じようにある。それは見てわかるわけではないが、隠れているわけでもない。それは永遠のものでも、一時的なものでもない。それは、やってくることも、どこかへ行くこともない。それはには内側も外側も間もない。それは本性と呼ばれる。それは、不動、道と呼ばれる。
参考文献
参考サイト
禅と悟り
禅の視点 - life -
イーハトーブ心身統合研究所
Wikipedia 慧能
Wikipedia 六祖壇経
Wikipedia Platform Sutra
以下はPDF(六祖壇経の英訳版)
THE PLATFORM SUTRAOF THE SIXTH PATRIARCH by PHILIP B. YAMPOLSKY
On the High Seat of "The Treasure of the Law" The Sutra of the 6 th Patriarch, Hui Neng
The Sixth Patriarch’s Dharma Jewel Platform Sutra