2022/05/21

牛頭法融(ごず ほうゆう) 無心は心なり

この対話は景徳傳燈録(けいとくでんとうろく)四の中の、牛頭法融と太宗皇帝(唐)の太子の対話と言われているものです。

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太子:日常生活において、いつもとは違う環境を経験する時、それが自分の好むものなら気分が良くて、嫌なものなら動揺します。どうして私はいつもあれやこれやに悩まされるのでしょうか?

法融:あなたの気持ちや気分は外部の物とは何の関係もありません。

太子:ではどうして私はいつも動揺して安らぐことがないのでしょうか?

法融:違った環境を経験して、心地良いとか、不快だという感情を抱いた時は、その環境、あなたの思考、気分は完全に空(くう)であるということを理解しなくてはいけません。しかし、あなたは自身をその環境に抵抗する立場に置いてしまうため、好き、嫌いが生まれるのです。

その環境そのものは、「私は良い環境だ」とか、「私は悪い環境だ」とは言いません。それを観念化してしまうのは、あなたです。あなたはその環境を調べて、もしそれが好ましくないものなら、あれこれと理由をつけるのです。

そして、自身が信じているあらゆる種類の考えを当てはめるのです。そうやってものごとを現実のものとして具体化してしまい、あなたが客観性を与えた環境と、主体としてのあなたの間に大きな分離を生み出してしまうのです。

根底にある実在は、主体と客体とに分離してはいません。好まない環境を客観的な対象として、それを好まない「私」を作り出しているのはあなたです。それはすべて、あなたの創造的な思考の産物です。

あなたが理解しなければいけないことは、もし心の中で主体、客体という分離を作らなかったら、マインドは空であり、安らかだということです。私たちはそれを無心と呼びます。非観念の開放的な意識、心はものごとを追いかけません。

無心は空の空間のように、常にありのままです。しかし、あれこれ考えることによって、あなたはそれを主体と客体に変えてしまうのです。そうしたことによって、あなたの気分が生まれます。

環境にまつわるあなたの思考、気分が作られなければ、この無心は広大にして空であり、思考によって悩まされることはありません。こうした思考や気分はあなたの環境に対する反応なのです。私の説明をよく考えて、自分で直接理解するようにつとめてください。

太子:それはごもっともです。では、目を閉じている時はどうですか? 特別な環境を経験しなくても、私の頭の中でたくさんの思考や観念が動きまわっています。なぜですか?

法融:絶えずものごとを考えているあなたの習慣のせいです。あなたが目を閉じただけでは心は停止しません。こうした思考はあなたのあれこれの心配から生まれます。でも、もしあなたが、世界と呼ぶものに対する心配を解放すれば、やがては本性が現れます。それはあたかも、雲が去って、何もない青空が現れるようなものです。

太子:あなたは、私の習慣的な思考は実際にどこかで作られているわけではないので、それが消えることによって心の本質が明らかになると言ってみえるように思えます。でも、私の抱えている問題は、一つの思考が別の思考を生み、永遠に続くように思えることです。そのため、この過程から逃れることができるとは思えないということです。

法融:あなたはものごとを正しく見ていません。あなたの世界として作り出されているものは、あなたのメンタルの構築物です。あなたが住んでいるこの世界は観念的思考と記憶の産物であり、実在ではありません。それには全く実体がないので、あなたはそれに対して何もすることがありません。

あなたは、それがすべて空であると理解するだけいい。そうすることによって、あなたの心は分割することをやめ、あなたの心の中のイメージ化は自然と消えるでしょう。

これは、知識を得るということとは何の関係もないということを理解してください。私が話しているのは、根本的には何も知られていない知る働きの意識のことです。それが無心です。この開かれた意識の状態は、何かの知識のことではありません。

人の本来の性質は、ゆったりとして目覚めていて安らかです。外側に何かを探す必要はありません。もし私の言っていることに従うことができるなら、自分の思考を気にする必要などないということを、あなたは理解するはずです。

思考を追いかけないでください。いずれにせよ、思考は空です。そのままにしておきなさい。月影を見ても、月を見ることはできません。空(そら)に鳥が描いた軌跡をつかんでも、鳥をつかまえることはできません。

心も同じです。あなたが探せば探すほど何も見つかりません。あなたのそうした観念的な思考は、夢の中の出来事と同じように実体のないものです。それを去らせなさい。それは春の暖かい日差しで溶ける氷のように去っていくでしょう。

物の本質は空です。どんなにやってみても、空から逃れることはできません。というのも、それが真実だからです。どれだけそれを探しても、それは見つかりません。それは鏡の中の像のようなものです。あなたは像を見ることはできますが、鏡そのものを見ることはできません。

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太子:私は日々の雑事で忙殺されています。これは障害ではありませんか? どこかで静かに座って、心を鎮めるように集中した方がよいのではありませんか?

法融:どうして活動が無心の障害になるのですか? 無心は活動中も活動していない時もそこにあります。ものごとを複雑にしてはいけません。心を使うべきではないとは誰も言っていません。

太子:教師の中には、もし道を実践したいのなら、静かにして話をしてはいけないという人もいます。それは正しいのですか?

法融:話たり、話さなかったりすることは無心と関係ありません。あなたが話そうと話さまいと、もともとの本質はずっとそこにある。しかし、そのことのためにだけ話をしたり、その話が真実と調和しないのなら、黙っていた方がはるかに良い。無心は話すこと、話さないこととは何の関係もない。あなたが何をしようとしまいと、そこには偉大な、自ら生じる意識の知性があります。

もしあなたが、自身の思考の完全な透明性を理解するなら、もう思考に悩まされることはありません。あらゆるものは現れては消える。それがものごとの本質です。それはただ流れていく。あらゆるものごとは谷間に響くこだまのようなものです。

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太子:普通の人たちは、この世界を何か現実味があって触れることができるものとして経験します。しかし、光明を経験した人たちには、この世界が非現実のように見えると聞いたことがあります。それは正しいのですか?

法融:光明と、この世界が実在か非実在かとは何の関係もありません。もしあなたが憶測することをやめて、あなたの困惑した視点を捨て去れば、もうこのことについて尋ねることはありません。

太子:光明を達成するためには心を集中させなくてはいけないという教師もいます。

法融:無心と心を集中することとは何の関係もありません。心を集中することによって何かが向上するという考えは誤りです。最後には集中そのものが障害となり、ただ単に集中を練習することに執着するようになります。それは誤りです。もし誤った二元的な思考に固執するなら、集中した状態から出てきても、内側の不快や不安はそのまま続きます。

集中した状態から出てくると、しばらくは穏やかに感じるかもしれませんが、すぐに聴覚や視覚など、区別する心の作用がふたたび現れて日常生活の中で騒ぎ始めるでしょう。それではまったく役に立たない。そして最後には日常生活から完全に逃げ出したくなるでしょう。

それは、風が吹いたとたんに現れる波のようなもの。風がおさまったあとにあるのは、まったくの静寂。私があなたに説明しているのは、このことを理解できない狭量な人にあてたものではありません。

無心とは、誤った考えを暗闇から追い散らす炎のようなものであるということを理解しなさい。心は自然と思考のとらわれ、執着から自由となり、分割や制限がなくなります。マインドがそらのように広大で空になると、通りすぎる雲に悩まされることはもはやなくなります。

太子:光明を得ることを通してのみ物事の本質を知ることができるという人もいます。このことは、物事は人々の心にのみ現れていて、その知覚の対象となるものは実際には存在しないと暗示しているように思えます。

法融:知覚の対象となるものが存在するということが何を意味しているのか、あなたが深く考えているとは思えません。心の中に存在するものなのか、それとも知覚の対象として存在するものなのか、物を客観化しているのはあなただということを理解しなくてはいけません。

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太子:もし光明を得たいのなら、自己修練を積まなければならないと教師たちは言います。そのため私は、より良い結果を期待して、大きく前進するため精神修養を積んでいます。しかし、あまりよい感じがしません。

法融:人々は決して達成できないものを達成しようと考え、決して見つからないものを探しています。問題は、あなたが物事を観念化して、何か達成すべきことがあると考えていることです。もしあなたが自己の心を訓練して目に見えた大きな進歩や個人的に何かを達成しようとするなら、あなたは完全に的外れなことをしています。あなたはまったく逆のことをしています。

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太子:人生の浮き沈みの中で、どんなに努力しても、向上するのはほとんど不可能であるとわかりました。どうしたらよいでしょうか?

法融:もしあなたが道を達成したいのなら、物事の本質を理解しなくてはいけません。それは実際には簡単でもなければ、難しくもありません。

太子:説明していただけますか?

法融:あなたは心の性質を理解する必要があります。思考の構造を調べて、それがどう働くのかを理解する必要があります。注意して見ると、あなたは自身の心の中で創造された思考と観念で形作られているとわかるはずです。

そうしたものは、それ自体が不変の存在ではないということです。それらはすべて実体がなく、つかの間のもので、本質的にはでっち上げられたものです。あなたがものごとを体験するやり方は、自身が作り出した観念上の構造物に完全に影響されたものです。

ある日、思考がある方向へ動き、あるやり方で考えます。その次の日には反対方向へ動き、何か他のことを考えます。すべての構造物が空であることを理解することによって、あなたはそれから解放され、それは消えていきます。

これは、名前と形の観念、二元的主張の制限からの自由と呼ばれています。それは、存在と非存在、実在と不在、形と空、絶対と相対、輪廻と涅槃といった二元的な思考の超越です。でも実際に起こっていることのすべては、最初にこうした観念を作り出した心が創造された観念を信じることをやめ、追い求めることをやめるということです。

こうしたこと全体から自由になることが無心です。無心とは、心理的、精力的に動くことをやめた心のことであり、それゆえ自然と注意深くなります。それは命の自然な知性が障害なく働くことができる心のことです。

太子:あなたが説明されたことは聞いたことがありますが、どんな訓練をすればいいのかまだ知りません。

法融:あなたが探しているものは、何かを故意に否定したり、何かと意図的に訓練することによって得られるものではないということを理解しなくてはいけません。真の理解は、計算された意図のない完全な率直さと受容性から起こります。変容のために、あれこれを勧める人はまったく的外れです。それはまるで、鏡に映った像に対してあれこれするようなものです。

断定、否定、どんな態度もとらないでください。実在と空は異なる二つのものではありません。どこにいようと、出来事のただ中にいて、ただ自然で開放的で注意深くありなさい。道は、何かを手に入れようというあなたの思いや、意図的な行動を超えています。それは言葉では言い表せない不動のものであり、何にも依存していません。どうしてあれやこれやのもくろみでそれを理解できるでしょうか。

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太子:多くの教師たちが、長期にわたる静的な瞑想を勧めています。それは必要ですか?

法融:不幸なことに、静寂主義的消滅が道であると考えている者が多い。そうしたやり方は道とは反対のものです。真理は、その人自身の計算で作り出すことはできない。

太子:経典や注釈書を学ぶことは必要ですか?

法融:知識を蓄えることや、分析的な洞察を追求することはほとんど役に立ちません。そうした行いは脳を疲れさせるだけです。

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太子:正しい方向を示していただけるよう最終的な言葉をお願いします。

法融:物事の本質が一番重要です。しかし、物事に対して混乱しているなら、それはその本性とは異なるものとして現れます。実在の本質は不可分性にあるということを理解しなさい。不可分性が本性です。

あなたがそれをどう考えようと考えまいと、本性はそのままです。経験は主体と客体に分割されているように見える。しかし、それは単なる幻影に過ぎません。実在は常に一元であり、それは常に一元のままです。それが本性の特徴です。

それは、あなたが想像できるよりも、もっと身近にあります。あなたが、徹底的に空の原理を突き進んでいくなら、私の言っていることを理解するでしょう。

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生徒:目覚めた人と目覚めていない人の違いは何ですか?

法融:目覚めていない人は何かを達成しようと奮闘し、目覚めた人は達成すべきことなど何もないと理解したということです。

生徒:達成と未達成の違いは何ですか?

法融:達成という考えは誤りです。実際自分で何かを手に入れることはできません。

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参考サイト

Wikipedia 景徳傳燈録

Original Teachings OF CH'ANBUDDHISM

牛頭法融 Niutou Farong