わたしが人生について語るなら 加島祥造
この本は加島祥造が十代の人に向けて書いたもの。この中で、「好きなことをやる」ことをすすめる。
以下引用
****p56から
世間ではよく子どもや若い人に「自分の好きなことを見つけてそれにむかって進みなさい」と言う。しかし、私が言いたいのは、それとはちょっと違う。どこが違うかというと、「自分の好きなことに向かって進む」というとき、それは将来のことを言っている。「好き」なことは遠くのほうにあって、そこへ向かって歩いていくために目標になってしまっている。でも本当の「好き」は、「今、このとき」の感情だ。「今」したいと思うことを「今」する。それが「好きなことをする」ことの本来の姿だ。
「今、好きなこと」をやって、それに満足したら、次のところへ行く。何か別の新しいものに出会って、そっちのほうが好きだと思えば、そっちに行けばいい。好きな対象も変わっていくし、好きなものを追いかける自分も変わっていく。それが成長なんだ。
****p99から
私たち自身だって、呼吸しようとか、心臓を動かさなくちゃ、と思わなくたって、自然に生きていけてるだろう? これは、命そのものが持っている知恵やエネルギーのおかげなのだ。
老子が言った命というのは、知恵とエネルギーでいっぱいの、大きな働きのことだ。どんぐりから人間まで、すべての命の源になっている神秘的な大きなもの。私たち人間が手を加える以前から働いている宇宙エネルギーだ。
そして老子は、こういうふうに言う―ー私たちはみんな、とっても大きなもにつながっているのだ、ときにはその力を信じて、流れにまかせていればいいんだよ、と。
アー・ユー・フリー? 加島祥造
著者の22年にわたる27回の公演をもとにして書かれたもの。
「あなたは自由ですか?」と聞かれたら、何と答えるだろうか。そもそも自由とは何なのか。そうした問いに対しての答えを暗示してくれる本。
加島祥造(かじま しょうぞう、1923年1月12日 - 2015年12月25日)はもともとは英米文学教授、翻訳家。60代で教職を辞め、家族と分かれて一人で伊那谷で生活を始める。そこで英語版の「老子道徳経」に出会い、老子が説いたであろう本当の意味を自分なりに探求し、タオ老子(老子道徳経の加島流翻訳)を出版。その後、詩集 求めないがベストセラーとなる。
加島祥造の説く老子の教えは、非二元の教えなのではないかと思う。ただ、それは具体的には何かと読んでも、それほど鮮明ではない。それを知るためには、欲を捨て、一人自然の中に身を置くことによって体得するものなのだという。
*****以下本から抜粋p28
われわれはいつも、名のつくものでしか考えない。
これがタオだと口で言ったからって
それは本当のタオではないんだ。
これがタオだと名づけたからって
それは本当のタオではないんだ。
なぜって、それをタオだと言ったり、名づけたりする君自身が
タオにふくまれているからだ。
人間が名づけるすべてのものや
ものを知ったと思う人間たちのむこうに
名もないタオの領域が
はるかに広がっている。
その名のない領域から
まず天と地が分かれ
その天と地の間から
数しれぬ名前が生まれたというわけなんだ。
だからこの名のない領域
本当のタオを知るためには
欲を捨てなければならない。だって
名があればそこに欲が生じるからだ。
欲があったら、名のついたものしか見えないんだ。
名のない神秘の世界と
かぎりないほど数々の名のあるもの
このふたつは同じ源から出てくる。
ただ名がつくとつかぬの違いがあるだけさ。
****p104から
私たちは物が役立つと思うけれど
じつは物の内側の、
何もない虚のスペースこそ、
本当に役に立っているのだ。
老子と暮らす 加島祥造
エッセイ集。伊那谷で一人静かに暮らすことが、いかにすばらしいかを説いている。社会とある程度距離を置いて暮らすと、何が本当の幸せなのか、社会に合わせて生きることによって、どれほど自分を見失しなっているかについて説く。これを読んでいると、非二元の話を聞いているかのような錯覚におちいる。
p103から引用*****
「汚い」と「美しい」
名もない神秘の領域から、
天と地が分かれた。
この天と地の世界では、
ものに名がつくし、観念にも名がつく。
ところで、美しいものと醜いものがあるんじゃない
美しいと名のつくものは、汚いと名のつくもののおかげで
美しいと呼ばれるんだ。
おたがいに片っぽだけじゃありえない。
善だって、そこに悪があるからはじめて、
善として存在するんでね。
悪のおかげで、善があるってわけだ。
同じように、
いま存在しているものも、
存在しないものが裏にあるから、存在しうるんだ。
ちょうど、難しいことと易しいことが、
片っぽだけじゃあり得ないのと同じさ。
「長い」といったって、短いものと比べるから長いのさ。
「高い」といったって、低いものがあるから高いんだ。
歌だって、声とメロディーがあるから、歌なんだ。
「前」という観念だって、「後」があるからのことなんだ。
だから、本当に賢い人というのは、あまり手軽に判断しない。
こうと決めたって、ことは千変万化して、
絶え間なく動いてゆくからだ。
このタオの本当のリアリティを受け入れるとき、
君は何かを造っても、自分の腕を誇らなくなる。
よく働いて成功しても、その成果を自分のものにしなくなる。
仕事をし終わったら、忘れてしまう。
すると、かえって、
その人のしたことは、ほかの人びとに深く染み込むのだ。
(加島が訳した「老子」第二章から)
p213から****(加島の詩集『晩晴』より)
「年齢」抄
現在のなかに涙はない
涙は過去から浮き上がるのだ
現在のなかに恐怖はない
恐怖は未来からおりてくるのだ
現在の一瞬にあるのは
脈打っている命だ
それは
現在の一瞬が
白雪の山にむかって
つねに拓いてゆく道のなかにある
*****
加島さんのように一人伊那谷に住まなくても、都会にいても一人在ることは可能であるし、またそうでなければいけないと思う。それは、社会一般の既成概念に染まらないで、一人超然と在ることだと思う。
美のエナジー 加島祥造詩画集
どんな絵を描くのか、どんな書(言葉)が添えてあるのかと読んでみました。いわゆる文人画の画集です。絵も添えてある言葉も好きになれませんでした。
加島祥造詩集
もともと詩集というものをあまり読んだことがないので、評価が難しい。感動したとか、感銘を受けたということはなかった。
参考 NHKアーカイブ あの人にい合いたい 加島祥造
ETV特集 ひとりだ でも淋(さび)しくはない
ひとりたのしむ―熊谷守一画文集
熊谷守一の絵と書、短いエッセイが載っています。絵も書もエッセイもまったくすばらしい。熊谷守一は、自分のやりたいことだけをとことんやって生きた人だと思います。子供三人を貧しさゆえに亡くしますが、それでも絵を描かなかった時期があった。そして死ぬまで、描きたい時に描き、生きたいように生きた。
書は、おそらく練習など一切やっていない人の書だと思うのですが、それがまたすばらしい。人から認められようなどという下心はまったく感じられない。生き方そのものが表れている。
街路樹 公園樹 庭木図鑑
草花 雑草図鑑
私は花や木名前をほとんど知らない。図鑑を買って読んでみることにした。よく売れているらしいし、携帯に便利なのでこれにした。でも、読んでみてわかったけど、写真ではよくわからない。道で見たあの木は何?あの花は?と調べてみてもわからない。今時はネットで検索した方がわかるということが判明。