相応部(サンユッタニカーヤ) 因縁篇II 以上 片山一良
佐々木閑先生のYouTubeで、阿含経相応部の素晴らしい話が続いていますが、非二元的な話はひとまず終わり、修行の話に移ったようです。修行の話は私のブログには合わないかなと思います。そこで、もっと非二元的な話はないかと、佐々木先生がネタ元にしてみえる原典を読みたくなったので、私の手におえるものかどうかを愛知県図書館に行って見ることにしました。買えばいいのですが、高い本なので。
これは、パーリ語(古代インド語)の経典を日本語に翻訳したものですが、出版が2014年~2016年ということもあって、わかりやすい現代語で書かれています。私でも読めます。ただし、読めるからといって内容が簡単に理解できるかというと、そうではありません。経の中の仏教用語が、いちいちわかりやすく解説されているわけではないので、それは別に調べる必要があると思われます。
また、用語を調べたとしても、今度はその経を正しく理解できるのかという問題が出てきます。各巻500ページ以上ある分厚い本で、これを読んで理解するのは相当骨の折れることですし、その中から非二元関連だけをピックアップするのはさらに骨の折れることのように思われました。
また、仮にそれができたとしても、著作権の問題があるので、おいそれとはブログに転載するわけにはいきません。ここはやっぱり佐々木閑先生のYouTubeを見るだけにしておいた方がよいという結論に至りました。ただ、最初期の仏教の経典の中に非二元の教えがぎっしりと詰まっているとわかっただけでよしとします。
「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤 (講談社現代新書) 下條信輔
2022年6月14日の当ブログ、「人は自己を変えることができるのか」の中で、横田南嶺老師は、「(佐々木閑先生は)最後に無我ということは、今日の脳科学でも証明されていると教えてくださいました。下條信輔先生の説を紹介して、「私」という固まった確固としたものはないというのであります。例えば、記憶というものを積み重ねることによって、私たちは自分というものを形成していますが、記憶というのはほとんど後付けでできているというのです。自分の都合のよいように作り変えているのだそうです。これという固まった自我がないことは脳科学でも実証されているということでありました」と述べてみえます。
そこで、下條先生の著作をあれこれ読んだのですが(参考:読書日記 視覚の冒険 サブリミナル・マインド サブリミナル・インパクト)、この本はまだ読んでなかったので読むことにしました。確かにこの本の中には「記憶は作り変えられている」というくだりがあります。また「意識(心)は他者との関係性の中で作られる」とも言ってみえます。
ただ、それが非二元的な文脈の中で語られているかというとそうではなく、「私はいない」とか「無我」というフレーズはどこにもありませんでした。この本から、下條先生が無我を説いていると解釈するのはちょっと無理があるような気がします。佐々木閑先生の講義を直接聞いたわけではないので、どういう文脈で語られたのかは不明ですが、おそらく、下條先生が翻訳された、「マインド・タイム」(ベンジャミン・リベット)の実験と、この本とを合わせて読んで、無我を説かれたのではないでしょうか。
私が下條先生を知ったのは佐々木閑先生経由ではなく、前野隆司先生のYouTubeを見て、ベンジャミン・リベットの実験を知り、前野先生の本(脳はなぜ「心」を作ったか・錯覚する脳)を読み、そこからリベットの実験のネタ元である「マインド・タイム」を読んだからです。その後で、円覚寺の横田老師のYouTubeで佐々木先生の講義の話の中でも下條先生を引用されていると知りました。
非二元と仏教、科学の接点は、ここらあたりが最先端なのではないかと思います。今後とも佐々木閑先生、下條信輔先生はフォローしていきたいと思っています。前野隆司先生は「幸福学」の方へ行ってしまわれたのですが、一応フォローしていきたいなと思っています。