2022/10/26

一瞥体験

日本人の書いた非二元関連の本やブログ(個人の体験を語っているもの)を読むと、「一瞥体験」という言葉が多く出てきて、一瞥体験というものをとても重要視している人がいるのがわかります。

私はこのブログの中で、一瞥体験というものがいかに意味がないかを書いてきましたが、もう一度書いてみようと思います。これはちょっと微妙なところですが、理解の瞬間を詩的な表現を使って、一瞥体験のように表現するのはありだと思います。ここで言う一瞥体験とは、自分がいない世界を、あたかも自分が実際に見てきたような体験をしたという意味での一瞥体験であり、それが非二元の理解の前提条件であるかのように語られる体験のことです。

なぜ人々が一瞥体験を重要視しているかというと、その背景にはエンライトメント、覚醒、悟りといったものに対する誤解があると思います。それを手に入れる前段階として一瞥体験をとらえているのではないでしょうか。

「私はエンライトメントした」「私は悟りを開いた」とはなかなか公言できませんが、「私は一瞥体験をした」というなら許されるだろうという思いがあるような気がします。一瞥体験をしたことで、自分を人より上位に置きたいのです。そしてその体験を非二元ビジネス・神聖ビジネスの客寄せ看板にするのです。

でも、そもそも非二元の世界とは、「私」がいない世界です。もし、「私は非二元の世界を一瞥した」「そこに『私』はいなかった」と言うなら、その体験を見た(あるいは記憶している)人は誰ですか? そこに誰かがいなければ、体験したことを思い出せないはずです。そこに自分以外の誰かがいたのなら、それは非二元ではなく、自分の他にそれを見ていた誰かがいたことになります。

非二元の世界は、何もない世界であり、それを体験することはできないのです。一瞥体験しようもありません。もし一瞥体験したというのなら、(そんな気がした)(あれがそうであるにちがいない)程度のものです。

鈴木大拙は、円覚寺で禅の修行をしているうちに、松の木と自分が一体であるという体験をします。でもそれは、大拙がアメリカへ行く予定が決まっていて、何かを体得したいと集中的に禅に取り組んでいた時に起こった体験です。

そして、それを見ていた大拙がそこにいて、あとでそのことを語っています。松の木と完全に一体なら、大拙は消えるはずですが、消えてはいないのです。松の木は松の木として、大拙は大拙として識別できる形で一体だったと言うのなら、それは一体ではなく、くっついているのすぎません。

U.G.クリシュナムルティが言うように、人間のマインドはどんなことでも作り出してしまいます。私たちが大拙と同じ体験をしたいと思って集中的に座禅に取り組めば、同じ体験をするかもしれません。でも、「私」が消えるわけではないのです。それはあくまでもマインドの中の出来事なのです。

私も以前は覚醒したいと思っていました。それだけを目指していたといってもいいくらいです。たくさん瞑想をやったし、人の一瞥体験にも耳を傾けました。でも今ではそうしたことに全く興味がありません。おとぎ話のカラクリに気づいてしまったからです。

私は、一瞥体験、覚醒、エンライトメントを説くマスターを全く支持していません。そうした人たちは、マインドの中の出来事に留まっているからです。そうした人たちは、覚醒した人と覚醒していない人という区別を作り出していて、非二元ではありません。

覚醒した人も覚醒していない人も何の違いもありません(そもそも覚醒などないと思っています)。一瞥体験した人も一瞥体験していない人も何の違いもありません。違うというのなら、それは非二元ではありません。非二元とは、体験の外にあるたった一つのもののことです。誰しもがそれなのです。それが非二元の根本思想です。

一瞥体験したい人はすればいいし、覚醒体験したい人はすればいい。でも、手に入れたものはいつかは失われます。それは単なる体験だからです。

いつまでも覚醒や一瞥体験を目指していたら、神聖ビジネスや非二元ビジネスのカモになり続けるだけです。「自灯明 法灯明」を胸に、自分で考えて生きていきたいと思います。