非二元の世界と現象の世界の二つがあるという意味ではありません。二つの世界があるというなら、非二元ではなく、二元の世界になってしまいます。世界は一つであり、非二元です。では、現象の世界とは何なのかというと、私たちがマインドを通して見ている非二元の世界が現象の世界です。
そこにあるのは非二元の世界なのですが、私たちのマインドを通して見ると、現象の世界として現れているのです。非二元の世界は、私たちが見ることも体験することもできない世界です。それがどんな世界かと想像しても無駄な世界です。
仏教の唯識でも同じことを言います。唯識では、世界を認識するやり方には三通りあると説きます。詳しくは(三性説)を参照してください。簡単にいってしまうと、迷いの目で見る世界・縁起で見る世界・悟りの目で見る世界の三通りです。
迷いの目で見ている世界が現象の世界です。「『私』は実在する」「世界は実在である」という誤ったものの見方をしている世界であり、それが私たちが見ている世界です。そして、悟りの目で見る世界が非二元の世界(実在の世界)にあたるのですが、これは仏陀が見る世界であり、実際には見ることはできません。
ここで重要なことは、私たちが非二元の世界を見ることはできないということです。それができると主張する人たちは、エンライトメントある派であり、一瞥体験支持派です。このスタートラインでつまづくと、それを求めて終わりのない探求難民の旅が始まります。
そして私が時々違和感を感じる表現に、純粋意識という表現があります。書き手の方はおそらく、非二元の世界に広がる意識を純粋意識と呼び、現象の世界にある意識を単に意識と呼んでいると思われます。それはそれで、その使い分けを理解している人には問題はないのですが、それをはっきり理解していない人が読むと、普通の意識と純粋意識と二つの意識があるという誤解を生みます。そしてまた、それを手に入れなければならいないと思い始めます。
意識に二つの意識があるわけではなく、一つの意識です。私たちは純粋意識そのものなのですが、体とマインドがある限りはそれを体験することはできません。その純粋意識が体とマインドを通して普通の意識として現れています。私は単に「意識」(アウエアネス)とした方がわかりやすいのではないかと思います。
もし、純粋意識と普通の意識があって、純粋意識を手に入れなければならないと思っているのなら、それは非二元ではなく、二つの意識があることになります。
「森羅万象、あまねく宇宙の果てまで純粋意識が広がっている」。あるいは、「私たちは純粋意識の中にいる」「私たちは純粋意識である」という表現は可能です。でも、かえってわかりずらくしているような気がします。ただ単にアウエアネス(意識)と呼んだ方がいいような気がします。まあ、そもそも非二元の用語に統一されたものはないので、純粋意識と呼ぼうが意識と呼ぼうが、本質をわかっていればいいだけの話なのですが、どうも違和感を感じます。
私たちは現象の世界(顕現の世界)を見ています。そこには体もマインドもあるように見え、私もいるように見えます。私たちが持っている唯一の武器(道具)は体(五感)とマインドだけです。それを通してしか世界を見ることはできないのです。でも、実際にはそれは実体のないものであり、そこには何もない、あるいは、他には何もない一つのものだけがあるというのが非二元の教えです。それを純粋意識と呼ぼうが、アウエアネス、知性エネルギー、アートマン、ブラフマン、私は在る、神、何と呼ぼうがそれなのです。