唯識では、世界を認識するやり方には三つがあると説きます。世界を三通りのやり方で見ることができるということです。それが三性説(さんしょうせつ)です。
三性説(さんしょうせつ)とは、おおまかにいえば、迷いの眼で見た世界、覚りの眼で見た世界、その両方に共通した縁起(関係性)で見た世界があるという、世界に対する三つの見方があるという教えです。
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)=迷いの眼で世界を見る見方
依他起性(えたきしょう)=縁起で世界を見る見方
円成実性(えんじょうじっしょう)=覚りの眼で世界を見る見方
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)
遍計所執性の文字通りの意味は、「遍く(あまねく)すべてのものを思い計り、それが実在であると執着すること」です。私たちの末那識、意識は世界を見て、そこにはものが実在すると思いこみ、それに執着します。私たちの世界に対する見方は、この遍計所執性です。唯識では、この見方は妄想であり、本当はそうではない、執着しているものは実在ではないと説きます。
私たちが誤ったものの見方をしてしまう大きな原因の一つは言葉です。例えば、「体」という言葉。体という言葉を思い浮かべた瞬間に、体が思考の中に登場します。その瞬間に存在の一体性は失われ、体が切り離されて物となります。そこへ、「私の」という修飾語がついて、「私」が登場します。
さらにそれを見て、「老けたな~」「もっとシェイプアップしなきゃ」と執着が生まれます。しかし、その体はこのブログで何度も書いたように実在ではありません。「見えているもの」は心の中の映像であり、心の外にあるものではありません。眼識、意識、末那識が認識した心の内側の像であり、実体のないものです。
私たちは言葉によって、存在しないものを存在すると思いちがえ、それに執着して生きているということになります。私たちがものごとを認識することができるのは縁起によってであり、物がそこにあるからではありません。
前回のブログげ書いたように、「私」は様々な縁起によって成り立っている存在であり、体もその縁起の中で成り立っています。ところが私たちの心は、その縁の方ではなく、物の外観にとらわれてしまいます。それが眼識、意識、末那識の持つ性質です。
依他起性(えたきしょう)
依他起性とは、「他に依って起こったもの」という意味です。原始仏教以来、「一切は縁起の法である」と説かれてきました、唯識では「縁起」を「依他起」と言い換えて、「一切は依他起の法」であると説きます。
縁も他によって起こるため、依他起(他に依って起こる)と縁起(縁によって起こる)は同じ意味となります。釈尊以来、「縁起の故に無我なり」というのが仏教の根本ですが、唯識では、縁起を依他起と言い換えました。前回のブログで説明したように、現象世界では、自らの力だけで生じたものはなに一つなく、すべては縁起によって生じており、つながった一体のものです。
私たちは、本当は一体のものであるものに名前をつけ、概念化して区別します。太陽、月、地球、私、あなた。それぞれが別々に存在していると思っています。しかし、太陽も月も私も地球も全部一つのものとしてこの瞬間に存在しています。
それに名前さえつけなければ、それは一体のもの、ただそれだけです。名前をつけたとたんにそこに実体があると錯覚します。そこにあるのは、別々の物ではなく、縁起としての関係性があるだけです。
円成実性(えんじょうじっしょう)
円成実性とは、「円となって全部が一つである完成した真実の世界」という意味です。遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)の世界も依他起性(えたきしょう)の世界も実在ではありません。それらは思考でとらえた世界です。
もし、「私」が消えたら世界はどうなるでしょうか。自分という基準点(視点)が世界から消えると、そこには一つの完成された世界、円があります。これは仏陀の見る世界です。残念ながら、私たちがこの円成実性の世界を見ることはできません。なぜなら、私たちは識(心)の外へ出ることはできないからです。私たちは常に識の内側にいて、遍計所執性、依他起性にとらわれています。
存在しないものに執着して生きるか、ものごとはすべて縁起によって起こっていると理解して生きるかのいずれかです。いずれにしても、そこには「私」がいて、無我ではありません。円成実性は、いうならば無我の世界です。
非二元でいうところの実在の世界と同じで、円成実性の世界を実際に見ることはできません。見ることも触れることもできない世界だけど、それが実在の世界であるということは理解でます。それが確信に変わる日まで、私たちは学び続けなくてはいけません。
三性説(さんしょうせつ)を知って、唯識の教えは非二元の教えそのものだと感じました。言葉や説き方はまったく違いますが、ある意味で仏教は非二元よりもわかりやすい。いや、先に非二元を学んでいるからそう思えるのかもしれません。
もし非二元の教えを学んでいなかったら、仏教で説く空(くう)、無、縁起という思想を理解できなかったかもしれません。
参考文献
阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)
唯識の思想 (講談社学術文庫)
唯識十章
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム
唯識の心理学
世親 (講談社学術文庫)
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫)