非有非無(ひうひむ)、「有にあらず、無にあらず」という言葉は、唯識を理解するために重要な言葉です。「あるとも言えないし、ないとも言えない」、「あるようでない、ないようである」という意味です。また、非有非空(ひゆひくう)も同じ意味です。
私は、この非有非無(ひうひむ)という言葉が大乗仏教を理解する鍵であり、そしてまた非二元を理解する助けにもなると思っています。
釈尊の教えの一つに、中道(ちゅうどう)があります。中道とは、極端な道を離れて、真ん中を歩んでいきなさいという教えです。この中道の教えの一環として、非有非無があります。あるでもない、ないでもない。極端な見方をしないということです。
私はこのブログの仏教入門のところで、以下のように書きました。
『釈尊は、当時の哲学者たちが論争を繰り返していた、哲学的な形而上学的(けいじじょうがくてき)論争に加わることをしませんでした。哲学的な形而上学的論争とはどういう意味かというと、例えば、「世界は有限か無限か」「身体と霊魂は同一か」「悟りをえた人にとって死後の世界はあるのか?」「アートマンは実在か?」といったようなことです。こうした問題に関して釈尊は肯定も否定もしませんでした。』
形而上学的(けいじじょうがくてき)って、よくわからない言葉ですけど、その意味は、「よくわからないような難解な」という意味のようです。要するに、よくわからないような質問にはお答えにならなかった。
唯識の場合、「物は実在か?」と聞かれたら、非有非無です。有るとも言えないし、無いとも言えない。
私たちは、物は存在するかしないかで考えます。でも、答えは、有るとも言えないし、無いとも言えないというのが唯識の答えです。
このことについて、唯識の本では、「言葉どおりに世界は存在しない」という説明がしてあります。このあたりのことは、ナーガルジュナ(龍樹)①のところでも書きました。要するに、言葉どおりに世界はないのだから、有るとか無いとか言うことはできないという説明です。
私は、この非有非無(ひうひむ)を非二元的に解釈しています。例えば、「物がある、ない」ということを考える時、誰が考えているのかというと、「私」です。「物がある、ない」という問いを投げかけた瞬間に、主体しての「私」を作り出してしまうわけです。
もし、「私」という基準点(視点・参照点)が無かったら、物はあるのか、ないのか? もし、「私」という基準点がなかったら、質問そのものが消えます。そこには質問する人がいないので、そうなると、物があるのか、ないのかわからない。いや、「私」がいなくても物はあるでしょ、という人は、そう言うとき、「私」という基準点から判断しています。
もっとわかりやすい例を出すと、「私が死んでもこの世界は存在するのか」です。例えば、今この瞬間にあなたが死んだと想像してください。突然あなたはこの世界から消えます。そしたら、そのあと、この世界は引き続き変わらずにあるのでしょうか。
もちろん大多数の人は、「世界はある」と答えるでしょう。でも、よくよく考えてみてください。あなたがいなくなった世界を想像しているのは、今生きているあなたです。基準点(視点)は、今生きているあなたにあって、消えてしまったあなたにはありません。
もし、消えてしまったあなたに視点を置くことができるとしたらどうなるでしょう。消えてしまったあなたは、目もなければ脳もないので、考えることも見ることもできません。「いいや、空の上から見ている」とか、「あの世から見ている」と言うかもしれません。
でも、よくよく考えると、空の上にいる自分を想像しているのは、今のあなたなのです。それゆえ、あなたが死んだあとのこの世界は非有非無であり、あるともないとも言えないことになります。私が死んだあとの世界は非有非無であり、あるともないとも言えません。
そもそも、私たちは基準点(視点)のない世界がどういう世界なのかを全く知りません。このあたりのことはセイラーボブのところで何度も書いたことですが、主体が消えれば客体も消える。質問者が消えれば質問も消えるということです。仮定や質問自体が意味のないことであり、仮定や質問が消えれば答えも消えるということです。それこそが非有非無だと思います。
実在は、私たちという基準点(視点)とはまったく関係のないものであり、私たちの仮定や質問そのものがピントはずれだということになります。それゆえ、禅の公案に対しては、「お茶でも召し上げれ」という答えがくるのです。考えても答えの出ないことなのです。
私は輪廻も死後の世界もないと思っていますが、行ったこともないのに断定することはできません。死んでから帰ってきた人が誰もいない以上、死後の世界は非有非無、あるとも言えないし、ないとも言えません。
今朝見た夢の世界があったとも言えないし、なかったとも言えないように、今生きているこの世界が夢だとも夢ではないとも言えないのと同じです。
知性エネルギーも阿頼耶識も非有非無、あるとも言えないし、ないとも言えない。誰も見たことがないのですから。
同様に、釈尊が答えなかった形而上学的(けいじじょうがくてき)な問いに対する答えも非有非無、あるとも言えないし、ないとも言えないのだと思います。
大乗仏教の空の思想も同じで、非有非空であり、有るとも言えないし、空(くう)であるとも言えない。誰も空の世界を見た人はいないわけですから。
参考文献