縁起については、初期仏教のところで十二支縁起について書きましたが、唯識関係の本にも出てきますので、もう一度考えてみたいと思います。
一般的には、「仏陀は縁起を悟った」と言われるほどで、縁起は仏教の中心的な教えです。十二支縁起では苦しみの原因は無明(無知)であると説きました。ただ、釈尊の説かれたもともとの縁起の教えは、「原因があるから結果がある」、「執着があるから苦があり、執着がなければ苦もない」、「善いことをすれば楽がくるし、悪いことをすれば苦しみがくる」といったシンプルなものだったに違いありません。
それが十二支縁起へと発展し、アビダルマの「倶舎論」では、輪廻の説明として使われるようになり、中観(龍樹)や唯識(世親)においても同じような使われ方をしました。
一方で、縁起の教えは、単に輪廻にかかわることだけでなく、存在の法則として現象界のありようを説明するために用いられました。すべてのものごとは、縁によって起こっているということ。わかりやすく言うと、「あれをやったからこうなった」「AがあるからBがある」「他者があるから自己がある」という教えです。
この縁起は、龍樹のところでも書いたのですが、縁起ゆえに空(くう)であるという大乗仏教の根本的な教えです。私はこの、縁起ゆえに空であるという説き方が非常にわかりやすくて気に入っています。縁起の話を読むと、いつもセイラーボブの話を思い出します。
過去のブログからのボブの言葉。
『あなたは体ではありません。完全に調べるまでは信じられないかもしれませんが。あなたはいつ、私の体と言いますか? あなたは、私のコートと言いませんか? 私の車、私の家、私の靴。あなたはコートですか? あなたは車ですか? あなたは家ですか? あなたは靴ですか? いいえ。それは単に私たちが別々のものに貼ったラベルです。だとすると、あなたは体ではないでしょう。
体が何でできているか調査してください。あなたは、体が構成要素でできていると知るでしょう。それはすべて、土、火、空間、エネルギー、五つの要素、水、火、空間など、体は構成要素でできています。もしあなたは自分が分離した存在、個人、人であると考えているなら、自身を構成要素と分離してみてください。
自分が分離していると言うなら、呼吸を止めて、どれだけ長く自分が空気無しでいられるかやってみてください。できません。水を飲むのをやめてください。どれだけ長く水無しでいられますか? 体の80%は水です。体温、火を取ってください。構成要素無しで、どれだけ長くいられますか? 空間から外へ出てください。空(くう)の外へ出てください。できるものなら。』
これは縁起の思想に他なりません。空間と体は切り離すことはできず、空間ゆえに体があり、構成要素ゆえに体があります。私たちは、非二元の教えで、物は実在ではないということを理解しようとするとき、量子論などを用いて、何とかして物が実在ではないということを理解しようとしますが、そうではなくて、縁起による理解がわかりやすいし、合理的なのではないかと思います。仏教的に言うなら、縁起ゆえに空(くう)である。非二元的に言うなら、独立して存在する実在はない、万物は一つの物であるということになると思います。
そこで、どんな縁起が考えられるのかを、自分(私)を中心に考えてみたいと思います。人間関係のつながりから考えると、まず最初に家族があります。両親、兄弟、祖父母、子供、孫。会社の同僚。クラスメート。友人。町内会の人。仕事関係。人間関係をたどっていくと、おそらく地球上で今生きている人のほとんどとつながっているのではないでしょうか。
父と母から祖先をさかのぼっていくと、人類発生までさかのぼることができるかもしれません。そのうちの誰か一人が欠けても、私は存在しません。人類発生のころから、精子と卵子のレベルで考えるなら、そのどれかの精子か卵子一つが欠けてもあなたはここにいません。今ここに私がいることはほとんど奇跡にほかなりません。
体はどうでしょう。生まれてから、どれだけの食べ物を食べてきたでしょうか。ということは、どれだけの生き物を食べてきたことか。魚、動物、直物。どれだけの命の上に私の体は今ここにあることか。これもある意味縁起ではないでしょうか。
あなたを育ててくれた人。あなたを教育してくれた人。あなたに影響を与えた人たち。あなたの考え方はそうした人々の影響によってできています。そしてあなたもまた、まわりの人たちに影響を与えている。
体は60兆個の細胞でできています。そして、体の中にはたくさんのバクテリア、菌、ウイルスが住んでいます。そしてまた体は人類発生時点から、延々と蓄積されたDNA情報を持っています。人類発生よりさらにさかのぼれば、ホモサピエンス、類人猿となり、さらには単細胞の生物へと進化の歴史をさかのぼることになります。
進化の歴史をさかのぼるということは、人類誕生以前の地球の歴史をさかのぼることになり、さらには地球の誕生、宇宙の誕生へとつながっていきます。
私たちの身の回りはどうでしょう。例えば服。綿は大地とつながっていき、大地は雨とつながり、雨は海とつながっています。科学繊維は原油とつながり、原油は太古の生物とつながります。
電気は発電所とつながり、発電所も原油とつながり、中東へとつながります。水道の水はどうでしょう。多治見市の水道は木曽川水系とつながり、長野県の山々とつながっている。水は雲から雨となってもたらされ、雲は海からもたらされました。
あなたの住んでいる家はどうでしょう。その木材はどこからきたのか。どこで育ったのか。道路は何でできているのか。その材料はどこからきているのか。
そう考えると、私という存在は、単なる独立した存在とは言えない。たくさんの縁でつながっている。数えきれないほどの原因と結果のくりかえりの結果として私がいる。すべては縁起でつながっているのであり、「私」という個人がポツンと単独でいるわけではないといえます。
多くの人は、「私」という存在は、宇宙の中の孤立した存在だと思っていますが、そうではない。宇宙は全部つながっている。たまたま「私」という存在の中に基準点(視点)があるにすぎず、万物は一つのもの。その一つのものを分割しているのは「私」の思考。思考で分割しなければ、そこには何もない。空です。
そんなことを千五百年も前の人たちが考えていたとは、仏教とは本当に深い思想です。