唯識の教えていることの本質は何だろうかと考えると、「私が私だと思っている私は実在ではない」ということであり、それは非二元で教えていることと同じではないかと思います。
「心があるだけ、物は存在しない」「人人唯識」「阿頼耶識、末那識」「刹那滅」「縁起」、こうした言葉の説明をちょっと聞いただけでは、トンデモナイことを言っているように聞こえます。
物は実在しているではないか。一人一人が別々の宇宙に住んでいるなんて、なんてバカなことを言っているんだ。阿頼耶識、末那識なんてものが本当にあるのか、誰も見たことがないじゃないか。時間は存在しないなんてトンデモナイことを言うな。あなたは独立した存在であり、体もあるじゃないか。
難しい言葉や、用語の定義はどうでもいいと思います。でも、唯識で教えているトンデモナイことは、非二元で教えているトンデモナイことと全く同じだと思います。もちろん、用語や細かい思想体系は違います。一緒にするなという人もいると思います。でも、考えれば考えるほど、同じではないかという気がします。
本当に阿頼耶識や末那識があるか、人人唯識は本当かといったことは別にして、そうしたことを生み出した背景にある思想が素晴らしいと思うのです。
私はこのブログで唯識の全体を書いたわけではありません。書いたのは、本当に基本的な中心思想だけです。しかもできるだけ難しい用語は使いませんでしたし、細かな理論的説明も書きませんでした。また、修養、修行的な部分には一切触れていません。
唯識の全体を書こうとすれば、唯識三年俱舎八年ですから、全体を学ぶのに最低でも十一年を必要とします。また、修養、修行的な部分について書こうとするなら、それなりの実践を必要とするので、宗教に入っていくことになってしまい、非二元をベースにしたこのブログの主旨からそれてしまいます。
表面上の用語や、その定義の違いはどうでもいいのです。唯識、そして仏教の教えていることの本質が、非二元で教えていることと全く同じであると思えてならないのです。
「心があるだけ、物は存在しない」。これは、非二元で言うところの概念のラベル貼りと同じだと思います。世界は概念のラベルでできています。言葉どおりに世界が存在するわけではありません。
「人人唯識」。一人一人はそれぞれの宇宙の中で生きている。非二元的に言うならば、一人一人は思考に閉じ込められて、個人的な基準点を持って生きています。私たちは、この思考の中に閉じ込められた存在であり、基準点から世界を見ています。
「阿頼耶識、末那識」。阿頼耶識という言葉を、アウエアネス、あるいは知性エネルギーという言葉に置き換えてみてはどうでしょう。もともとどちらも不可知なものであり、私たちはそれが何なのかをはっきりと知ることはできないのですが、すべてはそこからやってきます。末那識によって、いるはずのない「私」がいるように見えてしまう。
「刹那滅」。時間は「私」が作り出した創造の産物にすぎません。
「縁起」。万物は一体のものであり、互いに関係性で成り立っているもの。言葉を変えて言うなら、そこに独立した存在はなく、空(くう)です。もしすべての人々が、縁起の思想、非二元(ふたつのものではない)の思想を理解したなら、争いはなくなるのではないでしょうか。
時々、部屋の窓から、向いの家並みと、それに続く空を眺めながら、そこに広がるのは自分だけの宇宙で、その外には何もないということに思いをはせています。
参考図書
唯識の入門的な本として、以下の三冊をおすすめします。ブログを書くにあたり、以下三冊を主に参考としました。
阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)
唯識の思想 (講談社学術文庫)
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム