2022/10/01

アウエアネス(意識)

セイラーボブの言うアウエアネス(意識)とは、純粋な意識や特別な意識のことではなく、私たちの普通の意識のことです。私たちの日常、思考の背景にある普通の意識のことです。

「あなたはアウエアネス(意識)である」と聞くと、何か特別な意識、変性意識のようなものがあり、それを手に入れなくてはいけないと思ってつまづきます。私もそうでした。そんなものはありません。もともと私たちにある普通の意識のことです。

普通の意識と特別な意識があるわけではなく、一つの意識しかありません。もし、普通の意識と特別な意識の二つがあるなら、その時点で非二元ではなくなります。一つの意識しかないから非二元なのであり、別の意識を手に入れる必要はないのです。

では、なぜつまずくのでしょう? それだけ私たちの条件付けが根深いからです。その条件付けはどこから来ているのでしょうか? インドのグル、全米人気ナンバーワンの教師、悟りの解釈の間違い。それはわかりません。おそらく、そうしたことの積み重ねかもしれません。

でも、人々はそうした特別な意識があると思っていて、「汝それなり」と言われても理解できません。「汝それなり」と言われて、「どうやったらそれになれるでしょう?」と探求を始めます。

「あなたは人間である」と言われて、「どうやったら人間になれるでしょうか?」と尋ねる人はいません。自分が人間であることに理屈は要りません。人間になろうと探求する必要もありません。

汝それなり! フルストップ!

それを理解するために、特別な理解や最終理解は必要ありません。そんなものはありません。普通の理解です。何か特別なことが起きたり、達成しなくてはいけないゴールとしての理解があるわけではないのです。段階的な理解も幻想です。登るべき階段はありません。もうそこにいるのですから。

「探求」は幻想です。あなたは北極点にいるのに、北極点を探して右往左往するようなものです。探求すればするほど遠ざかります。もうそこにいるのですから。

一瞥体験や覚醒を説くマスターには注意してください。「あるがままのあなたで完全なもの」「そのままでいい」と説く一方で、一瞥体験や覚醒を説くことの矛盾に気づいてください。

一瞥体験や覚醒を説くということは、今のままのあなたでは不十分だと言っていることになり、今のあなたではない別の何者かになることを説いているのです。それでは非二元ではなく、二つのあなたがいることになります。

一瞥体験や覚醒を説く人たちは、いまだに1970年代・80年代のスピリチュアル・ムーブメントの延長線上で探求ごっこを続けている人たちです。非二元は、一瞥体験や覚醒とは関係ありません。非二元は、70年代、80年代の、覚醒を説くグルやマスターが教えていたことと同じではありません。その辺をごちゃまぜにしている人たちに注意してください。

名前はあげませんが、けっこう有名な人や、本が売れている人の中にも、そういう人がいます。見分け方は簡単で、一瞥体験や覚醒を売り物にして、高額な金を取る人たちです。非二元は、無料もしくは、わずかばかりのドネーションで学べることです。

「意識」に余分は形容詞をつけないでください。「理解」に余分な形容詞をつけないでください。余分な形容詞をつけるグルやマスター、セラピスト、教師たちに気を付けてください。手に入れなくてはいけないものは何もありません。私たちはもうすでに持っています。体験しなくてはいけないことは何もありません。私たちはもともとそれです。

なすべきことは、その意識を見えにくくしている雲(思考)に気づいていることだけです。問題が起きるたびに、私は実在かどうかを何度も調べることだけです。