達磨に始まった中国の禅を大成させたのは、六祖である慧能(えのう:638~713)であると言われています。その理由は、慧能のもとからすぐれた禅僧がたくさん生まれ、後に中国において形成される5つの宗(潙仰宗・臨済宗・曹洞宗・雲門宗・法眼宗)と、臨済宗の2つの派(横龍派・楊岐派)、いわゆる五家七宗が生まれる起点となったからです。もちろん、日本の禅宗も、ルーツを辿れば慧能へとたどり着きます。
慧能の教えを学ぶ材料として、六祖壇経(ろくそだんきょう)という語録があります。内容は、慧能(えのう)が行った説法を弟子の法海(ほうかい)が書き留めたものです。語録は師から師へと直接伝授され、すぐには広まりませんでしたが、九世紀以降多くの人に読まれました。
六祖壇経には様々なバージョンがあって、内容も多少違うようです。参考文献やサイトを参考にして、慧能の生涯と教えをまとめてみます。
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第六祖・慧能(えのう)は唐の時代の人。慧能の父は范陽(はんよう)の出身だったが、左遷されて嶺南(れいなん)の新州に流され、慧能が三歳の時に亡くなった。慧能は母と二人で南海の地に移り住み、薪を売って極貧の生活をしていた。慧能は学問もなく、文字も読めなかった。
ある時、薪を配達した帰りに通りを歩いていると、一人の僧侶が経を唱えながら歩いていた。それを聞いた慧能は、たちまち内容を理解して強く惹かれ、その僧侶に、それは何という経であるかとたずねた。
僧侶は、それが金剛経であること、そしてそれは五祖弘忍(ぐにん)から学んだもので、金剛経を弘忍(ぐにん)のもとで学んで唱えさえすれば、たちまち仏になることができると言われていると教えた。それを聞いた慧能は、すぐにでも弘忍のところへ行って金剛経を学びたいと思ったが、母の面倒を見なければならず、すぐには行くことができなかった。
やがてその話を聞いたある人が、弘忍の母の衣食の費用にと銀十両の提供を申し出たため、慧能は弘忍のもとへと旅立つことができた。慧能は数十日歩いて、弘忍の住む黄梅山に到着し、弘忍に入門を願い出た。
「お前はいったいどこの者か。私のところへ何を求めて来たのか」弘忍は尋ねた。
「私は嶺南の新州の平民でございます。ただただ仏になりたくて、はるばるやってきました」
「お前は嶺南の人間で、そのうえ獦獠(かつりょう:南方の野蛮人)だ。どうして仏になることができようか」
「人間には南と北の区別がありますが、仏性にはもともと南北の違いも身分の違いもありません。仏性にはどんな差別がありましょうや」
弘忍は慧能を力量を認めたが、まだ出家していない慧能を他の修行僧と同じように扱うことはできず、寺の雑務を命じた。弘忍のもとには700人の修行僧がいたが、慧能は出家僧ではなかったため、僧たちよりも下の立場の雑用がかりとして、一日中薪を割り米をひいて暮らした。
そんな生活が八か月ほど続いたある日、弘忍が修行僧全員を集めてこう言った
「私は日頃、お前たちに教えを説いて聞かせた。世の人々にとって生死の問題こそが最も重要であり、生の不安や死への恐れという問題の解決こそが大切である。お前たちの修行がどれほど進んでいるのか、各々の悟った境地を一遍の詩に表現して提出せよ。もし、教えを正しく理解して悟っている者あらば、私の後継者として先祖伝来の袈裟を授け、第六代の祖師としよう」
修行僧なかに、他の修行僧の先頭にたって修行にまい進する神秀(じんしゅう)という修行僧がいた。神秀は、身の丈八尺、容姿端麗、儒教、老荘、仏教を修めた博学秀才。長年まじめに仏道修行した結果、五祖弘忍のおぼえも高く「神秀にわれも及ばぬ」と言わしめた逸材だった。
修行僧たちは口々に、「われわれは詩を提出する必要はないだろう。現に教授師という立場におられる神秀(じんしゅう)様が六祖となられるであろう。われわれが詩を作って提出しても無駄になるだけだ」と言って、詩を提出しなかった。
神秀は人々の気持ちがわかっていて、ぜひとも詩を提出しなければならないと思たったが、下手な詩を書いて出せば、弘忍の信頼を失うことになると躊躇した。詩を書きあげ、提出しようとしたが、何度も迷ったあげく、直接提出することができなかった。
そこで神秀は考えた。弘忍の目に留まるように弘忍の部屋の近くの廊下の壁に詩を貼りつけ、弘忍がその詩を良いと言ったなら、すぐに名乗り出ることにしよう。弘忍は誰にも見られないように詩を夜中に貼りつけた。
身は悟りの樹、心は澄んだ鏡台。
いつもきれいに磨きあげ、塵や埃を着かせまい。
体は悟るための木であり、心は澄んだ鏡のようなものであるから、いつもきれいに磨いてちりやほこりを付かせないように修行しなければいけないという意味である。
弘忍は神秀にはまだ悟りが開けていないことを知っていた。しかし、弘忍はこの詩を読んで、このように修行を続ければ確かに勝れた成果を得るだろう、皆この詩を唱えて修行するよにと言って褒めた。これを聞いた修行僧たちは、弘忍が神秀の詩を褒めたといって、弘忍の法を継ぐのは神秀で決まりだと思った。
修行僧たちはそれぞれ神秀の詩を唱えて歩いた。たまたま一人の僧が慧能がいる米ひき小屋の前を通りかかり、慧能はその詩を聞いた。慧能はすぐに、その詩がいまだ悟った人のものではないとわかった。慧能が尋ねると、その僧はことの成り行きを説明してくれた。
慧能は、その僧に頼んでその詩の場所へ連れていってもらった。そこで慧能は、自分も詩を書いて貼りだしたいと言い、文字が書けないから代わりに誰か書いてほしいと頼んだ。するとそこにいた僧が言った。
「獦獠(かつりょう)のお前も詩をつくるのか、それは珍しい」
「仏の知恵を学ぶ者なら、初学者の知恵をあなどってはなりません。ことわざにもあるとおり、最低の人にも最上の智慧があり、最上の人にも智慧の盲点があります。もし人をあなどれば、たちまちはかり知れない罪をおかすことになりますぞ」と慧能は答えた。
「それでは詩を唱えなさい。お前のために私が書いてあげよう。もしお前が悟りをえたなら、まず最初に私を救っておくれ。この言葉を忘れなさるな」とある僧が答えた。
そして慧能は詩を唱えた。
悟りにはもともと樹はない。澄んだ鏡も悟りの土台ではない。
あらゆるものは、もともと何ものでもなく、常に清らかだ。どこに塵や埃があるというのか。
貼り出された2つの詩を読んで、弘忍は慧能こそが自分の法をつぐのにふさわしい器であると見抜いた。しかし、そんなことになれば、他の修行僧らが黙っていないことも容易に想像がついた。
その夜、修行僧らが寝静まったころ、弘忍は慧能を自室に呼んで、慧能に金剛経を読んで聞かせた。すると慧能は即座に悟りが開けて言った。
「和尚様、何とまあ、自己の本性はもともときれいなものだとわかりました。何とまあ、自己の本性は、生まれることも死ぬこともありません。自己の本性はもとから完全なものでした。自己の本性は微動だにせず、あらゆる現象は去っていきます」
慧能に悟りが開けたことを確認した弘忍は、自分が受け継いできた袈裟を慧能に与え、自分の法を受け継ぐものはお前であると伝えた。
しかし、修行僧たちの先頭であり続けた神秀をさしおいて、まだ出家すらしていない米ひきの雑用係が弘忍の法をついだことが他の修行僧らに知れ渡ったら、どんな騒動がおきるかわからない。ねたんだやつが慧能の命をねらうかもしれない。
弘忍はその晩のうちに慧能を寺から連れ出すと、船を漕いで湖を渡って対岸へと送りとどけ、その身を逃がした。そして慧能に、弘忍から法をついだことをすぐには公にせず、数年は山の中で隠れ住んで、ほとぼりが冷めるのを待つように伝えた。
月日は流れ、慧能は南方(広州)で得度して僧侶となり弟子を育て、その後弟子たちが様々な宗派をたて、禅宗(南宗)として発展していった。一方神秀は五祖弘忍のもとを去り、後に唐の都で、並ぶ者のない天下の名僧として王室、貴族、庶民にいたるまで厚い帰依を受け北宗と呼ばれたが、北宗は先細りとなり、やがては消えてしまった。
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参考文献
六祖壇経 (タチバナ教養文庫)
世界の名著 禅語録
ダルマ (講談社学術文庫)
新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)
禅学入門
参考サイト
禅と悟り
禅の視点 - life -
イーハトーブ心身統合研究所
Wikipedia 慧能
Wikipedia 六祖壇経
Wikipedia Platform Sutra
以下はPDF(六祖壇経の英訳版)
THE PLATFORM SUTRAOF THE SIXTH PATRIARCH by PHILIP B. YAMPOLSKY
On the High Seat of "The Treasure of the Law" The Sutra of the 6 th Patriarch, Hui Neng
The Sixth Patriarch’s Dharma Jewel Platform Sutra