2022/04/02

達磨(だるま)③

前回のつづき

根源としての本質は心であり、心は仏陀である。仏陀は道であり、道は仏陀である。しかし、驚くほど目覚めている知性を意味する仏陀という言葉は、普通の人にも聖人にも容易には理解できない。それゆえ、もし仏陀を見たいと思うなら、自らの根源的な本質を知らなければならないと言われているのだ。

あなたは高座に座して、一日中何千という経典や注釈書の解説をすることはできるが、自らの根源としての本質に通じていなければ、それは単なる無意味なおしゃべりとなる。道は深淵で神秘的であるが、言葉を通じてそれを理解することはできない。どれだけ読んでも、どんな説明も助けとはならない。

あなたがそれを十二支縁起のどこかで見つけることはない。あなたはそれを自ら経験しなくてはならない。あなたは、自分で飲んで初めて水がどんな味かを知る。それを人に伝えることはできない。

しかし人々は自身のまわりで朝から晩まで起きることに心を奪われているため、見せかけにだまされて取りつかれてしまう。彼らは自身の心がもともと完全なものであり、分割できないものであるということを理解しない。もしあなたがすべてのものごとは心から現れ、つかの間のものだということを理解すれば、初めからこうしたことに執着することはない。

あなたが執着したとたんにそれは起こる。あなたはもう正しくものごとを見ることができない。数千の経典はこのことを説明しているにすぎない。でももしあなたが、このことを理解して自らの本質に気づいた瞬間、そうした古びた書は必要ではなくなる。

道には形はなく、言葉もない。観念を生み出すのは言葉である。しかしそれは単なるあなたの思考にすぎない。それは夢と何の違いもない。夜、あなたは夢の中ですばらしい家、場所、森、庭、湖といって美しい景色を見るだろう。

あなたが夢から覚めると、そのすべてはどこへ行ってしまうのか。そうしたものにとらわれてはならない。自分自身を自らの想像や考えというわなに落としてはいけない。もしあなたがこのことを理解しなければ、あなたは永久に振り回されてしまうだろう。自由で束縛されたくないのであれば、ものごとに執着してはならない。

私以前の27代にわたるインドからの先達たちが伝えてきたことはたった一つであり、それがこの心のことである。私がここ中国に来た唯一の目的は、心が仏陀であると指摘するためである。

金言、苦行、禁欲、熱い炭の上を歩く力、水の上を歩くこと、剣を飲み込むこと、一日に一食、立って眠ること。こうしたことに私は興味がない。こうしたことに励んでいる人たちは誤解している。もしあなたがこうしたことのいずれかが有意義なことだと思っているのなら完全に間違っている。

道は何かをあれこれすることとは何の関係もない。あなたの心はすでに仏陀の心である。あなたのすべきことは、常にこの心に気づいていることだけだ。過去、現在、未来の仏陀たちはたった一つことを教えていて、それはあなた自身の心のことを直接指し示している。

あなたは非常によく学んでいて、一日中人に十二支縁起を説いているかもしれないが、もしあなたが自身の心について目覚めていないのなら、そうしたことはすべて無益なことだ。一方、あなたが読み書きできなかったとしても、この心に気づいているのなら、あなたは最終的に完全な自由を達成できるだろう。

仏陀とは目覚めた知性に与えられた名称である。この心には形がなく、原因がなく、筋も骨もない。それはちょうど空の空間のようなもの。あなたはそれをつかむことはできない。そしてまた、心は肉体と切り離すことはできない。この心無しでは肉体は機能しない。

心無しでは肉体は生気がなく、感じることができない。体は何も感じない。体は何もすることができない。心のおかげであなたは、見て聞いて歩いて話して考え、行動することができる。こうしたことは心が持つ生きた知性としての機能である。

つまり、この機能は心が動かしているということができる。動くことや機能することなしに心はありえない。そして、心なしに動きはありえない。それでも、動いているのは心ではない。というのも、知性は動かないからだ。知性としての心自体に動きはない。

同時に機能としての動きは心と切り離すことはできない。心は行動と切り離されてはいない。それゆえ経典の中では、心は動くことなしに動くと言われている。毎日毎日それはやってきては去っていくが、それはどこへも行きはしない。毎日それは物事を見て聞くが、それでも何かが見えることも聞こえることもない。

同様に、毎日それは笑い、泣き、喜び、悲しむが、こうしたことはどこにも見つからない。それゆえ経典ではこう言われている。
言葉や描写でそれを説明することはできない。
思考や分析でもそれに到達することはできない。

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「心の外に仏陀なし」は達磨の作だと言われていますが、おそらくそうではなく、後代の人の創作であるという人もいます。

心が仏陀である、と最初に読んだ時、いったいそれはどういう意味だろうと考えこんでしまいました。心というと、「思考」と考えがちですが、そうではなく、思考の背後にある「意識」をとらえて心と言っているように思います。心を、アウエアネス(意識)と読み替えてみてください。

いくつか別のバージョンが伝わっているので、次回別のバージョンを掲載したいと思います。