2022/04/16

僧璨(そうさん)信心銘

信心銘

ものごとを区別しなければ、道は易しくも難しくもない。

ものごとにしがみついたり拒んだりすることをやめれば、ものごとはすべてありのままである。

しかし、それを見失うと、あなたは天と地ほども分割される。

道を理解したいのなら、ものごとを区別してはいけない。

想像上で好き嫌いをつくると、心は分裂する。

もし道を理解しないのなら、自身の心の平和を乱すこととなる。

心はすでにあるがままで完全である。何も欠けておらず、何もつけ加えるべきものもない。

執着と拒絶によって、そのものの本質の一体性を見失う。

何も手に入れようとしてはならない。何も取り除こうとしてはならない。

非分割性の中で安らげば、どこに非二元性が見つかるというのか。

もしあなたが統一性を達成するために動くことをやめようとすれば、逆にあなたの努力は動きで満たされる。

もしあなたが何かにしがみつこうとすれば、どうやって非分割のものを見つけられるだろうか。

非分割を理解しなければ、あなたの心は粉々に分割される。

存在するものを拒絶すれば、ありのままを見失う。空を主張すれば、空を見失う。

あなたが話せば話すほど、あなたが手に入れようとしているものは遠ざかる。

観念化することをやめなさい。そうすれば、あなたではないものなどどこにもない。

非分割の中で安らぎなさい。そうすれば、為すべきことなど何もない。

自身を分割すれば、絶え間なく忙しい。

現象の世界とは、ものごとをありのままに見ない世界のことである。

実在を探すな。実在に対する観念を捨てなさい。

あらゆる概念は制限されたものだ。それならなぜそれを追いかけて時間を浪費するのか。

肯定、否定をするなら、心は分裂している。

二つは一つゆえに存在する。しかし、一つの存在を確かめようとしてはならない。

心が分割されていない時、一万のものごとは障害とはならない。

しかし、区別をすれば、一万のものごとが障害となる。

心が分割されていない時、見つけるべき心は存在しない。

客体に関連した主体が消える時、主体と客体は混ざり合って一つとなる。

客体は主体があるがゆえに客体である。主体は客体があるがゆえに主体である。

二つの関係性を理解しなさい。もともとは不分割のものである。

両方とも不分割の中で生じ、一万のものごととなって現れる。

高い、低いを区別するな。そうすれば、あなたが好き嫌いをすることはない。

道はすべてを含んでいる。それは易しくも難しくもない。

狭量な心はいつも不自然である。急げば急ぐほど、歩みはゆっくりとなる。


追いかければ追いかけるほど、それを手に入れることは遠ざかる。

自然に起こってくるものを調べなさい。どこからもやってくるところはなく、行くところもない。

あなたの本質を道と調和させなさい。心をくつろいだままにしなさい。


考えすぎることはあなたを分裂させる。半分眠りこけていることもまた役には立たない。

人為的に区別を作り出して、自分を疲れさせることに何の意味があるというのか。

もし不可分のものを知りたければ、感覚を遮断しようとしてはいけない。

感覚の領域は、それ自体が知性の機能に他ならない。

賢者は不動によって行動する。愚者は自らを困難で縛り付ける。

ものごとは違ったように現れるが、不可分のものである。見ようとしない者はこれに気づくことがない。

自分自身を見つけるために自身の心を使うには馬鹿げてはいないか。

不動の中に自身を見つけようとしてはいけない。ただ。生命知性が働くのを許しなさい。

二元性の世界は、あなたのでっちあげにすぎないということを理解しなさい。

夢、幻影、空の花。どうしてそれをつかもうとするのか。

獲得と喪失、正しいと誤り、これらをすべてきっぱりと終わりにしなさい。

明るい日の光の中では、あらゆる夢が自然に消える。

もし心が区別しなければ、一万のものごとはありのままである。

不可分の中で安らぎなさい。未生の不動の中で。

もしあなたが一万のものごとを手放せば、あなたの心は安らぐだろう。


相対的な思考の外に出なさい。そして不可分の中で安らぎなさい。

変化は無変化であり、無変化は変化であるということを理解しなさい。

分割されたものを放棄するなら、一つのものに思いをめぐらす必要はない。

ものごとの本性は、計ることも言い表すこともできない。

心にとって、それは分割されたものではない。あらゆる骨折りは徒労に終わる。

疑念が無くなるとき、あなたは不可分性と調和する。

すべては理解することができないものであるということを理解しなさい。あなたがしなければならないことは何もない。

意識の不可分性の中では、あなたの心を使う必要はない。

意識を客体化することはできない。観念によってそれを理解することはできない。

ものごとの本性の領域では、自己もなければ、自己以外もない。

もしあたがそれと調和したいのなら、「二つではない」ということを思い出しなさい。

非二元性の中では、すべては不分割である。そこには何も残されていない。

目覚めている人は誰しも、このことを理解している。

不可分性は時空を超えている。一瞬がまた千年でもありえる。

ここもあそこもない。そうでない場所などどこにもない。

境界がないとき、小は特大と同じぐらい大きい。

制限がないとき、大は極小と同じぐらい小さい。

存在は非存在である。非存在は存在と違わない。

理論的に考えようとして、時間を浪費しないように。それは全くあなたの助けにならない。

一つはすべての中にある。すべては一つである。

自身を完全なものにしようとしてはならない。この真理を理解しなさい。

真の心は不可分である。心を信じるのは不可分の心である。

道を言葉で言い表すことはできない。そこに時間はない。

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信心銘は禅の三祖、僧璨(そうさん)の作と言われていますが、はっきりしたことはわかっていません。

信心銘というタイトルの意味を文字通り解釈するなら、「心を信じる」ということになるかと思います。では、その心とは何か。心には二種類あると思います。一つは思考のことで、もう一つはその思考の背後にある意識のことだと思います。この題名に使われている心は、意識の方であり、それを信頼するということだと思います。思考は分割します。でもその背後にある意識は分割されることはありません。

ボブ:信心銘はあなたに、「何に対しても賛成、反対の意見に固執するな」と教えています。禅の三祖は、意見を持つなと言っているわけではありません。意見は起こってくるでしょう。好みも同じです。でも、それに固執しないでください。それをやって来させ、去らせてください。それをあなたのものとしてはいけません。

あらゆることが、何らかの視点から判断されます。それが、自己の中心、すなわち基準点、「私」、「私の」となります。さて、このボブの体と心の中には、固定された信念や、固定された意見はありません。私は意見を持つことができますが、それは石の中に固定されたものではありません。同様に私は、「私」や「自分」と言うことができますが、それもまた固定されたものではありません。それは去っていきます。SAILOR BOB: Bags of pointers to nonduality p243より

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【禅とこころ / 禅の思想に学ぶ】第3回 無分別 | 花園大学総長 横田南嶺

31分ぐらいから、信心銘の解説があります。