2022/04/09

達磨(だるま)④

心の外に仏性なし

三界において多くの混沌とした出来事が起きようと、最後にはただ一つの心の中で完結する。古今の仏陀は文字に頼らず、心から心へと教えを伝えてきた。

弟子:文字によらないで、何によって、どのように心を思い浮かべるのでしょうか?

達磨:おまえが私に尋ねる時、尋ねているのはおまえの心である。私がおまえの質問に答える時、それは私の心だ。

心なくして、誰も仏陀を見つけることはできない。なぜなら、心の外に菩提や涅槃を見つけることは不可能だからだ。私たちの自性は真実で満ちている。そこにはもはや因果はない。あるがままの自己とは、自己の心であり、その心が仏陀である。そしてその心こそがすでに輝き、穏やかに光輝く涅槃なのだ。

心の外に仏陀や菩提があるはずだと主張することは重大な誤りだ。仏陀や菩提が他のどこにあるというのか。空っぽの空間をどうやってつかもうというのか? 空は単なる言葉であり、形も大きさもないため、つかむことはできない。あたかも空をつかむかのように、心の外にある仏陀を見つけようとしても無駄だ。

仏陀は心の産物なのだから、心の外では見つからない。古今の仏陀たちがそう語っている。心だけが仏陀である。仏陀だけが心である。仏陀は心の外には存在しない。心は仏陀の外には存在しない。

もし仏陀が心の外に存在するなら、それはどこだろう。もし仏陀が心の外には存在しないのなら、仏陀という考えはどこから来たのか。心の本性を見ずして、間違った意見を交換するなら、死んだ物質(仏像)に固執して、自由のない存在となってしまう。もしおまえがこのことを信じないのなら、自身を欺くことになり、何の役にも立たない。

仏陀に欺瞞はないが、混乱した不完全な者たちは自身がすでに仏陀であるということを理解することも気づくこともない。もし仏陀が自分の心だということがわかったら、心の外で仏陀をさがしてはならない。仏陀は仏陀によって解放されることはなく、そんなふうにして仏陀が見つかることはない。それは、仏陀が自身の心と何の違いもないと知らないこと、無知によって起きる。

おまえはすでに仏陀なのだから、仏陀たちを崇拝してはならない。仏陀のことを考えてもいけない。仏陀自身は経典を読めず、サンガの戒律を守ることも破ることもできない。仏陀は守るべきものも破るものもない。仏陀自身は善も悪も行わない。

真に仏陀を見つけたいのなら、自己の本性を見なくてはいけない。それが仏陀である。自己の本性を見ずして、どれほど仏陀の名を唱え、経典を読み、儀式で礼拝し、戒律を守ろうとも、得るものは何もない。

仏陀の名を唱えれば、次の生では幸せとなるだろう。経典を読めば賢くなって知識が増え、戒律を守れば天に生まれることができよう。他者を助けるなら富をもたらすだろう。しかし、そうしたことで仏陀を見つけることはできない。

もし、まだ自分のことがよくわからないのであれば、すでに大いなる目覚めを得ている師を見つけて、生死の本質に目覚めるべきである。自己の本質に目覚めていない人を師とは呼べない。それゆえ、経典のすべてを読んだとしても、三界の生死のカルマの海に落ちて、大きな苦しみから解放されることはない。

かつてある僧侶が万巻の経典を読んで習得したが、自己の本性を見ることなく、カルマの連鎖から解放されることはなかった。そして今、多くの人がいくつかの経典を学ぶだけで悟りが開けると思っている。なんと愚かなことか。どれほど大きな過ちを犯していることか。

自身の心を理解することなしに、根拠のないフレーズを暗唱しても意味はない。
仏陀を見つけるためには、自己の本性を知ることだ。

自己の本性は仏陀である。
仏陀は自らの中にいる。無為無作の存在である。
自己の本性を見ずして、昼夜懸命にさがしたとしても仏陀は見つからない。

もともと達成すべきことなど何もないと言えるのだが、もしそれが理解できないのなら、真摯な努力と働きによって、おまえの心を開いてくれる師を見つけなくてはならない。生と死は大いなる謎だ。無駄に過ごしてはいけない。いずれにせよ、自らを欺くことは役にたたない。

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問い:修行を積み、道を達成する者たちのうち、達成するのが早い者と遅い者の違いは何でしょうか?

達磨:そこには大きな違いがある。この心こそが道であると思っているものは進歩が早い。悟りがあると思い、それを達成しようと試みるものは達成するのが遅れる。

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四聖句

四聖句とは、達磨が残した言葉で、禅の特徴をあらわした言葉です。

不立文字(ふりゅうもんじ)
教化別伝(きょうげべつでん)
直指人心(じきしにんしん)
見性成仏(けんしょうじょうぶつ)

不立文字(ふりゅうもんじ)とは、文字を立てないという意味で、悟りは文字で示すことはできないという意味です。要するに、言葉で伝えることはできないという意味です。

教化別伝(きょうげべつでん)とは、教えることは、伝えられたもの(経)とは別のところにあるという意味です。要するに、経典ばかり読んでないで、自分で体験することが大切であるという意味です。

直指人心(じきしにんしん)とは、直ちに人の心を指してみよ、という意味で、心を今すぐに調べてみよ、という意味です。

見性成仏(けんしょうじょうぶつ)とは、性(自身の本性)を見れば、そこに成仏(仏陀)がいるだろ、という意味で、要するに、おまえの心が仏陀であるという意味です。

この解釈は私の個人的な解釈が入っていますので、以下の参考サイトの解説も参考にしてください。

達磨は、「仏陀はおまえの心の中にいる、おまえの心が仏陀なのだ、おまえはもともと仏陀なのだ」と言っているように思われます。それを心と呼んでもいいし、識と呼んでもいいし、意識でもマインドでもアウエアネスでもいい。私たちはもともとそれなのです。

参考サイト

禅の視点 - life -
コトバンク 達磨
禅 zen
長光山 陽岳寺

参考文献

世界の名著 禅語録
ダルマ (講談社学術文庫)
新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)
禅学入門