春琴抄 谷崎潤一郎
谷崎潤一郎の「文章読本」を読んだので、どんな文章を書くのか興味が湧いて読んでみた。まず文章について書くと、この小説は句読点を極端に省略した文体で書かれている。通常、文章と文章の間にある「。」が省略してある箇所がたくさんあって、最初のうち、とても読みにくかった。おそらく意図してそうしたものと思われる。
物語に関して言えば、大筋はなんとなく知ってはいたが、全然おもしろくなかった。なぜこれが名作なのか全くわからず。
日本語の作文技術 本多勝一
この本を買うのは三回目です。過去二回はずっと昔に断捨離。また読みたくなって買いました。吉川英治の「新平家物語」のブツ切りの文章を読んで、自分も最近同じ傾向があるのではと思い、もう一度この本を読み直そうと思いました。
句読点の打ち方や、長い修飾語の語順をどうすると読みやすい文章が書けるかについて書かれています。いくつかの原則を守るだけで、かなり読みやすい文章を書けるようになります。
なかテン「・」の打ち方について考えさせられました。私が文章を書く場合、「クジラ、ウマ、サル、アザラシなどは」というようにテン「、」を使いますが、本多さんは、なかテン「・」を使うべきだと言っています。なるほどなぁという理由が書いてあるのですが、市販の本では「、」を使った書き方が多い。
また、例えば「セイラー・ボブ」という表記も「セイラー=ボブ」としているそうです。その理由は納得できるものですが、一般的には「セイラー・ボブ」が多い。
今回特に参考になったのは、漢字とひらがな、送り仮名の使い方。漢字とひらがなについては、文章が読みやすくなるように、その場その場で漢字にするかひらがなにするのか決めているということが参考になった。また、送り仮名についても、送るかどうかは、読みやすくなるように、文章によって決めるということ。
また、私はこのブログに翻訳文も書いていますが、翻訳調になってしまうことがあります。なぜ翻訳調になるのかも書いてみえます。この本に書いてあるいくつかの原則を守るだけで、翻訳調を防ぐことができます。文章を書く技術の本としては、今のところこの本がベスト。もう断捨離はしません。
実戦・日本語の作文技術 本多勝一
この本では、句と節の定義が「日本語の作文の技術」と違い、読んでいて少し混乱するところがあります。「日本語の作文の技術」では、『節を先に、句を後に』となっていた箇所が、この本では『句を先に』となっています。「日本語の作文の技術」も『句を先に』に直すべきだと思います。
前半は「日本語の作文技術」の内容の延長ですが、後半は『日本語をめぐる「国語」的状況』となっています。そこでは本多さんがいつも主張されている言語帝国主義、植民地用語としての英語について書いてあります。
長年英語を学び、そして今でも学んでいる身としては考えさせらることがたくさんありました。なぜ英語だけが世界の共通言語であるかのようにまかり通っているのかという疑問。それは言葉による支配、西洋文化を自分たちの文化よりも優れた文化として妄信している卑屈さの表れではないかということを改めて考えさせらました。
その昔私は本多さんの大ファンで、かたっぱしから読んでいた時期があったのですが、途中からちょっとついていけないと思うようになって読まなくなりました。これを読んで、また読んでみようかと思うようになりました。
中学生からの作文技術 本多勝一
内容は「日本語の作文技術」の文章の一部をそのまま転載して中学生向けに編集したもの。基本的にはこれだけ読めばいいような気もします。
本多さんの三冊を読んで、あらためて自分の文章を読みかえしたみたが、本多さんの文章技術をそれほどはずしてはいないと思いました。そりゃあ過去に何回も読んでいるからそうなんですけど、詳しく見ると、不要な句読点を打っていたり、誤解釈されそうな箇所もある。これを機に気を付けていきたい。
天平の甍 井上靖
遣唐使として唐へ渡った僧・普照(ふしょう)が、二十年の歳月をかけて鑑真を日本に連れてくる話。おもしろかった。奈良時代の日本の仏教がどんな状態だったのか、当時の唐の様子や遣唐使たちの生活はどうだったのかがよくわかる。また、どれほど多くの報われない遣唐使がいたのか、どれほど多くの人が仏教を日本に伝えるために努力したのかがわかる。
風の果て(上) 藤沢周平
風の果て(下) 藤沢周平
とてもおもしろかった。ともに青春を過ごした仲間たちがどのような道をたどっていくのか。蝉しぐれよりもこっちのほうが良かった。
あい 永遠に在り 高田郁
実在の人物・関寛斎の妻・あいの物語。まったくすばらしい。こんなふうに一途に生きられたなぁ。
容疑者Xの献身 東野圭吾
う~ん。イマイチ。