2022/03/12

華厳経・楞伽経(けごんきょう・りょうがきょう)

中村元先生の 『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典) を参考にして、非二元的な部分を要約して掲載させていただきます。

華厳経(けごんきょう)

事事無礙(じじむげ)

「事」とは現象、あるいは現象界の事実。「無礙」とは物質的に場所を占有しないということ。事事無礙ということば自体は華厳宗の言葉で、ものごとは一つ一つお互いに異なっているのではなく、溶け合っているという意味。

「じじむげ‐ほっかい【事事無礙法界・事事無碍法界】仏語。華厳宗でいう四法界の一つ。現象世界のすべてのものごとが相互に関連・融合し、そのままで真実の世界を完成していること。究極のさとりの眼から見た存在の世界のあり方。コトバンクから

私たちは通常、自然界において、物理的な空間に何か物があると、その場所を他の物が占有することはできないため、その物は独立した存在だと考えています。でも、実際には、例えばミクロの世界を考えた場合、その物体以外の物も存在していて、互いに共存していると考えることもできます。

そしてまた、物質と物質は様々な因果によってつながっています。例えば人間は、その体だけでは存在できず、空気が必要であり、適当な温度、空間などが必要です。もちろん、よって立つ地球が必要であり、太陽が必要です。

そうして考えると、人間は地球とも宇宙ともつながっていると言えます。このように、物と物が決して無関係ではなく、見えないところで結ばれている。それを法界縁起といいます。そう考えると、私、他人という区別がなくなります。

華厳経の根底にあるのは縁起の思想です。縁起の思想は仏教の中心思想であり、いかなるものも孤立して存在するのではなく、すべてのものは相寄って存在するという思想です。

この縁起のつながりは、人と人とのあいだに限りません。人と物もそうです。あなたの着ている服が綿であるなら、その綿は中国やインドとつながっていて、それを栽培した人、日本へ運んだ人、縫製した人とつながっています。

当然、綿は大地とつながっていて、太陽の光とつながっています。つまり、宇宙とつながっています。そう考えると、この世のあるゆる物がつながっています。

非二元的に解釈するなら、縁起ゆえに万物は一つのものと言えるのではないでしょうか。そこには独立した物は存在しない。また、独立した物が存在しないがゆえに空であると言えるのではないでしょうか。

さて経典に入ります。と言っても、経文を書くことができないので、(やればできるかもしれないけど、あまり意味がないので)経文の漢文書き下しを書きます。経典そのものを知りたい方は参考サイトで見てください。奈良の東大寺では、儀式の時に、この唯心偈(ゆいしんげ)を三回唱えることになっているそうです。

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唯心偈(ゆいしんげ)抜粋

心は工(たく)みなる画師(がし)の如(ごと)く 種種の五陰(ごうん)を画き
一切世界の中に 法として造らざる無し
心の如く仏もまた爾(しか)り 仏の如く衆生も然り
心と仏と及び衆生との 是の三に差別無し
諸仏は悉(ことごと)く了知す 一切は心從(よ)り転ずと

その意味は、

心は巧みな画家のようなものであり、あらゆるものを描きだし、
この世界の中にはそれ以外のものはない。
心と同じように、仏もそうであり、人々もそうである。
心と仏と人々も皆、この三者は同じように、心が描きだしたものである。
仏たちはこのことを知っている。すべては心から現れていると。

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世界はどこに現れているのか。心、意識です。巧みな絵描きが書いたように、心に世界は現れている。これはすでに書いた唯識の教えと同じことを教えているのだと思います。そして、心と同じように仏も人々もそうだと言っています。

中村先生は「心がなければ、外界のものも在るとは認められないわけで、心があってこそ、在るということができます。仏も同じです。衆生もまた同じです。心と仏と衆生のこの三つは区別のないものです。つまり仏は、私たち凡夫から遠く離れたものだと人々は思いがちですが、そうではなく、仏も本来は衆生であり、それをさらにつきつめて考えると心にほかならないというのです」と言ってみえます。

つまり、心が仏であると言ってみえます。

楞伽経(りょうがきょう)

楞伽とは、スリランカのランカを音写して漢字をあてたものだそうです。内容としては、釈迦がランカー島(スリランカ)を訪れて、ラーヴァナ王と対話するというものです。伝説によれば、楞伽経を中国に伝えたのは達磨であり、禅宗に大きな影響を与えました。

内容は唯識で教えていることと同じです。漢文書き下し文は長いし、掲載するのが大変なので省略して、書き下し文のみ掲載します。

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あるとき、仏は大勢の菩薩(ぼさつ:修行者のこと)とともに、大きな海辺のそばの摩羅耶山(まらやさん)の頂にある、スリランカの町の中にいらっしゃいました。「城」というのは城壁に囲まれた都市のことです。そのもろもろの菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)はことごとくすでに、五法(ごほう)、三性(さんしょう)、諸識(しょしき)の義に通達していました。

摩訶薩は「マハーサッドヴァ(mahasattva)」の音を写したもので、「立派な人」「偉い人」という意味です。また無我の義でふつういわれるのは法(ほう)無我と人(にん)無我ですが、法無我というのは、個体存在としての我というものは、そのとおりには存在しないで、もろもろの要素から構成されているということです。

そしてもろもろの対象は、自分の心の現し出したものであることをよく知っています。いかなる対象でも、自分の心に意識されているから存在するのだということをいっています。
(以上『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典) p180より)

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仏は修行の方法について尋ねられて、それに答えています。ここでも漢文は省略して、説明文のみ掲載します。

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ここでは(大修行)を説いているわけですが、それは苦行をしたり、特別の実践法を行うことではなくて、真理を観ずることにほかならないのです。それは四種類のしかたがあります。
(一)現象世界の種々なるすがたは、自分の心の現し出したものだという道理を体得することです。唯識の理(ことわり)を知ることだといってもよいでしょう。
(二)現象世界の諸事物が生起し、住(とどまり)、消滅するのは、仮のすがたである、と知ることです。
(三)外界の事物には実体がない、ということを知るのです。空の理を体得するのです。
(四)真理は自分で直観しなければならない、ということです。

(以上『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典) p210より)

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まとまりのないブログになってしまったかもしれませんが、全体をまとめるのは大変なので、非二元的な部分のみ抜粋して書きました。

こうして見ると、大乗仏教、禅というのは非二元そのものだという気がします。

参考文献

『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典)

参考サイト

Wikipedia 華厳経

Wikipedia 楞伽経

総本山智積院HP

名文電子読本・解説サイト(華厳経 唯心偈)

円覚寺 唯心の教え