心の外に仏陀なし
心は仏陀であり、仏陀は心である。心の外には仏陀はいない。そして、仏陀の外に心はない。過去の仏陀、現在の仏陀、未来の仏陀たちは、この同じ心のことを指している。
しかし、混乱した人々はこのことを理解しない。彼らは他を探し続ける。始まりのないほど遠い過去から、終わりのない未来まで、あなたがどこへ行こうと、何にかかわろうと、この心から離れることはできない。それゆえ、心は仏陀であると言われている。仏陀とは、それを理解している人のことである。凡庸な人とは、それを理解しない人のことである。
心はすでに光を放ち、静かに輝いている。それを完全なものにする必要はない。心の外で仏陀となるために何か達成すべきことがあると想像するのは重大な誤りである。その仏陀がどこで見つかるというのか。それがどこからやってくるというのか。
それを例えるために空(くう)の空間を考えてほしい。どうやってあなたは空の空間をつかむことができるだろうか。空の空間というのは名前にすぎない。実際それには形、大きさ、サイズがない。それを見ることはできない。あなたはそれをつかみあげて落とすことはできない。
同様に、想像上の仏陀をさがすということは、空の空間をつかもうとするのと同じである。それはできない。あなたが想像する仏陀は、あなたの心の投影にすぎないというのに、どうやってそれを見つけようというのか。あなた自身の心の外には、見つけるものは何もない。不幸なことに、自身のもともとの心を理解しない人たちは、あれこれと考え、自らの間違った考えにしがみつく。そのやり方では決して解放されることはない。
もし私の言うことを信じなければ、あなたはもっと深い穴に落ちることになる。私の言うことに耳を傾け、あなた自身の心がすでに仏陀であるということを理解しなさい。もし私の言うことに従うなら、あなたが心の外をさがすことはない。仏陀は仏陀によって解放されず、仏陀を心で見ることはできない。
あなたはもうすでに仏陀なのだから、仏陀像を崇拝してはいけない。イメージ上の仏陀に対して祈るような行為にかかわってはいけない。仏陀自身は経典で学ぶこともなければ、教えを守ることもない。仏陀は立派な行為には興味がない。仏陀が善意の原因となることはない。
もしあなたが本当に仏陀を知りたいのなら、一つだけ方法がある。あなたは自身の本質を知らなければならない。私は率直に言っている。もしあなたが自身の本質を知らなければ、仏陀の名を唱え、神聖な経典を読み、礼拝をして誓いを守るというすべての宗教的な行為は全く価値のないものとなる。自身を解放するということに関しては、何の足しにもならない。
仏陀の名を唱えることは将来あなたが何らかの幸福を手にいれるために役立つかもしれない。経典を読めば、知識を増やすのに役立つかもしれない。誰かを助けることはあなたに幸運をもたらすかもしれない。しかし、こうした行為のどれも、あなた自身の本質を理解する助けにはならない。たとえもし万巻の経典すべてを読んだしても、あなたは生と死の海を泳いで自身のカルマを作り続けるだろう。あなたがそうしたことから自由になることはない。
自身の本質を理解しない者は、仏陀に関して無意味なたわ言を言うにすぎない。それゆえ、もし彼らが十二縁起のすべての章を暗唱していて説明することができたとしても、それはたわ言にすぎない。もしそうした人々があなたに、いわゆる宗教的な行いや、あれやこれやを行うことによって何か達成すべきことがあると言うのなら、それは日常的な行いに関する伝統的な教えにすぎない。それは誕生と死の領域の中にあるもの。それはあなたの本質とは何の関係もない。
私の言うことをしっかりと聞きなさい。仏陀とは、主張したり拒絶したりすることとは関係ない。どのような考えや信条に執着していようと、それはあなたが道を達成することをさまたげる。もしあなたが物事に対して自身の考えに執着するなら、そこには仏陀のための余地はない。
自己の本質とは、本質的に空である。そこには純、不純はない。遵守すべきことは何もない。何かを完全にする必要もない。何かを達成する必要もない。仏陀とは、良いことや悪いことをすることとは関係ない。仏陀とは、あれやこれやをすることとは関係ない。仏陀とはまさしく何もしない者である。
あなたが、自分であれやこれやをしなくてはいけないとか、あれやこれやの観念を身につけるやいなや、もはや仏陀の余地は残されていない。あなたの心に仏陀という観念が浮かんだ時点で、それはもう仏陀ではない。それゆえ、仏陀について考えてはならない。観念化してはならない。
そしてまた、無為の意味を誤解している人たちがいる。そうした人たちは、無為とは休止して何もしないことだと思っている。なんという見当ちがいだろう。同様に、それは心を常に空の状態に保つことだと考えている人もいる。それも間違いである。こうした人たちは何もわかっていない。
そしてまた、すべてはもともと初めから空なのだから、自分の思い通りにふるまい、たとえそれが人を傷つけたとしても、自分のやりたいことをやるという人たちもいる。こうした人たちは愚かな酔っ払いのようなものだ。その結果は悪いカルマを積むことだけだ。私が言いたいのは、もしあなたが本当に無為を理解したいのなら、あなた自身の本質を理解することだ。
さて、この心は初めから今ある心と何の違いもない。それは生まれたこともなければ死ぬこともない。それは現れることもなければ消えることもない。増えることもなければ減ることもない。正しかったこともなければ間違っていたこともない。男性であったことも女性であったこともない。若かったことも老いていたこともない。
聖人であったことも普通の人であったこともない。それは原因と結果を超越している。それには形がない。それは空の空間のようなもの。それをつかむことも離すこともできない。心では理解できない。
私が心について話すと、人々はそれを見たがる。「わかりました。ではそれはどこにありますか。もしそれがあるなら見せてください」。彼らは心のただ中にいる。それは朝から晩まであなたの手足を動かし、あれゆる奇跡的な事をやっている。
心は計り知れないほど神秘的で、その機能には制限がない。もしあなたがそれを自身の目で見ようとさがしているなら、決してそれを見ることはない。それは見えるようなものではない。あなたがそのただ中にいても、それを見ることはできない。それゆえ経典では、如来だけがそれを完全に理解できると言っている。
もし仏陀に突然出くわしたとしても、少しも気にとめてはいけない。私は仏陀だったと興奮してはいけない。そうではない。それが何か特別なことだと思ってはいけない。それは単なる幻覚にすぎない。あなたの心がトリックを演じているにすぎない。特別な見せかけや現象が現れても、構わないでおきなさい。私は万一に備えて言っている。
人々は簡単にこうしたことに巻き込まれて、まったくあべこべに理解する。私が話をしている心には姿形がないということを理解しなさい。仏陀には形はない。仏陀にはどんな姿もない。本質には次元も時間もない。
霊や神を礼拝して助けを請うのをやめなさい。それをすれば、自らトラブルを招くことになる。それをやめなさい。形に執着してはならない。それゆえ経典の中では、形あるものはすべて一時的なものであり、究極的には幻影であると言っている。仏陀にはどんな性質も外観もない。
もっとはっきり言えば、仏陀は驚くほど目覚め、気づいている。それが機能として働いている。時々目をまばたきさせ、眉を上げさせる。腕を動かし、足を動かす。こうしたことはすべて、驚くほど目覚めた知性の働きである。
次回へつづく