私たちが見ている万物は実体のないものである。(下)
ある日私はミーティングでボブに質問した。
「私たちが見ている物が実体のないものであるということがよくわかりません。今、エリザベス通りに建っているビルは実際にそこに建っているのでしょうか?それとも、それは私の意識の中にだけあって、私が朝起きた瞬間に現実となって現れ、私が眠ると消えるのでしょうか?私が眠っている間、そこにビルはあるのでしょうか?」
ボブは私の問いには直接答えず、いつもよく使う鏡の話で答えた。(ボブの家の部屋には、壁一面に大きな鏡がある)
「鏡を見てごらんなさい。その鏡を見ると、そこから向こうにもう一部屋あるように見えるでしょう。あなたの意識はその鏡のようなものです。あなたには、あたかもそこに椅子や壁掛けがあるように見えている。でもあなたはそれが鏡だということを知りません。でも実際は、すべてはその鏡に映っているものにすぎず、実際にはそこには何もないのです」
「鏡の例えはわかります。でも、エリザベス通りのビルはどうなんですか?」と私。
「あなたも時々夢を見るでしょう? その夢の中で、たくさんの建物が出てくる。そして朝、その夢から覚めると、その建物は消える。その建物が本当に存在したかどうか、あなたにわかりますか?それはどこにもありはしませんでした」とボブ。
夢の中では、夢の中の自分が基準点となって、あたかも夢が現実であるかのように見えている。夢から覚めると、その基準点が消え、すべてが消える。
私たちの見ている現実も同じで、私という基準点がなければ、すべては消える。ただ実際には体と思考があるために、体と思考が死ぬまでは現実という夢から覚めることはない。
ボブは、自分の話の本筋をそらさないように話すので、込み入った質問そのものには同調して答えず、例え話で答える時が多い。
「私は、エリザベス通りのビルが、私の寝ている間に消えているのかどうか知りたいのです」
すると、横に座っていたギルバートが言った。
「深い森の中で一本の大きな木が倒れたとする。そして、そこには人間が誰もいなかったとする。その場合、果たして木が倒れる音がするだろうか?」
あとで友人に教えてもらったのですが、これは哲学の授業などでよく使われる命題だそうです。
音というのは何かと突き詰めて考えると、それは空気の振動のバイブレーション。
もしそこに人間がいれば、人間の耳と脳はそのバイブレーションを(ドシーン)という音に変換して、木が倒れた音を認知する。
もしそこに、人間がいなければ、空気の振動はあったとしても、音はない。
エリザベス通りのビルは、私という人間の感覚器官を通して初めてビルとして認識される。
もし私がエリザベス通りのビルの前に建っていても、私が目を閉じた瞬間にビルは消え去り、そこにビルがあるのかどうかはわからない。
目を閉じたまま、手を伸ばしてビルに触れれば、触覚を通してビルは現れるが、手を放した瞬間にまたビルは消える。
木の倒れたあとの空気のバイブレーションを人間の耳と脳が(ドシーン)という音に変換しているように、単なるバイブレーションを人間の目と脳がビルに変換して見せているだけかもしれない。
人間が、すべての感覚器官を閉ざしたその時、そこにビルはあるのか?
人間の感覚器官を通してしか認知しえない物が、果たして実在していると言えるだろうか。
そして、それを認識している私という存在(基準点)がそもそも実在しないとすれば、その私が見ている万物は実体のないものなのではないか。
私は、万物が実体のないものであるということにどうしても納得がいかず、その後も内容を変えて何度も質問したが、科学的な説明はなく、納得できなかった。
ある日ボブに聞いた。
「万物がすべて実体のないものだということが、どうしても理解できません。科学的に説明していただけないでしょうか?」
するとボブは動ずる様子もなく、
「それは物理学者の仕事です」と言って笑ったあとで、体の例え話をした。
「あなたの五歳の時の体は今どこにありますか? すべての細胞は入れ替わり、他のエネルギーに姿を変えました。私たちが見ている物はすべて実体のないものです」
万物が実体のないものであるということを、誰かが科学的に証明する日が来ないことは容易に想像できる。私たちが見ている万物が実体のないものかどうかは、個人の理解にかかっている。
チベット仏教の最高の教えとされるゾクチェンでは、万物は空の中に現れているとされる。空の中に現れる物は空。私たちは幻影、すなわちマヤを見ているに過ぎないと言う。
人間の感覚器官を通してしか認知しえないものが、本当に存在していると言いきれるだろうか。
私の現実とは何かと言うと、私の意識(思考)が認識している世界だけが私の現実。その意識の外には現実は存在しない。私がビルを見た時、私の意識がビルをビルとして認識している。
私が夜ベッドに入って眠りに落ちると、私の意識は消える。そうすると、エリザベス通りのビルは私の意識から消える。つまり、私の現実から消える。
私が眠っている時、エリザベス通りのビルが建っているか消えているかというと、そこにビルは建っている。でもこの場合、ビルが建っているという視点は、その時点でまだ起きている誰かの視点から考えた場合であって、眠っている私の現実の世界では消えている。そういう意味でビルは幻影と言える。
私が眠っている間に、人に頼んで見に行ってもらえば、当然ビルは建っているし、中で守衛が働いている。でもそれは、見に行ってもらった人が認識した現実にすぎない。私の現実はというと、夢の中の、まったく別の現実を生きているか、深い眠りの中にいるかのどちらか。
朝、目が覚めると、突如として、私の現実の中へエリザベス通りのビルがまた現れる。そして歩いてそのビルの前へ行き、ビルを拳で殴ると、手が痛い。ところが、このビルも実は幻影。
私が、これがビルだと認識できるのは、生まれてから今までに、ビルというものを概念として学び、ビルというラベルを貼り記憶しているために、ビルと認識できる。もし、ビルというものを生まれて初めて見たなら、そこにある空や道路、すべての物のラベルを剥がして見たなら、それが何なのか認識できない。景色とビルの境界さえ定かではなくなり、幻影、実体のないものと化す。
また、私たちがビルだと思っている物質も、極微の世界では、そこには微粒子と広大な空間があるだけで、私たちが認知しているようなビルはどこにもない。そこには、エネルギーの波動があるだけ。
さらに見方を変えると、ビルというものも、例えば一万年前はどうだったかというと、そこは海の底かもしれないし、土の中かもしれない。もっと遡って100億年前はどうかと考えると、地球はまだ生まれていない。
もっと遡って200億年前はどうかといえば、宇宙さえもまだ生まれていない。そこには何があると言うのか。また、明日このビルに誰かが爆弾を仕掛けて粉々にしてしまうかもしれないが、ビルは消えたわけではなく、エネルギーの変換が起こったにすぎない。そいう意味においては、ビルといえども、実体のないものでしかない。
今度は角度を変えて。
例えば、テーブルの上にオレンジが一個あったとする。私たちは、その黄色いオレンジを見て「美味しそうだな」と思って眺める。そこへ、犬が入って来てオレンジを見た時、それはどんな風に見えるだろうか。犬の世界は人間が見る世界のようにカラフルではない。
ところが、犬の嗅覚は人間よりもはるかに優れていて、オレンジの臭いを認識できる。ひょっとすると、以前に食べた時の臭いを記憶していて、嫌いな食べ物だと認識しているかもしれない。
そこへ、一匹のコウモリが飛んできたら、そのコウモリにはオレンジがどう映っているだろうか。コウモリは目で見ている訳ではなく、超音波を出して、その反響で物を認知している。おそらく人間とは全く別の世界を見ている。
要するに、私たちが認知している世界は、私たちが認知して勝手に解釈をしているだけで、犬やコウモリはまた別の世界を見ている。彼らはオレンジなんて認識していないかもしれない。
ボブは「この部屋の being (存在)を、分割できるものなら分割してごらん」と言います。部屋には、人間(human-being) の他に、椅子やテーブルなどのbeing(存在)がある。それだけではなく、空気や湿気、さらに細かく見るなら、水素、酸素、血液、温度、光などがある。
それらの being は、極微の世界まで詳しく見たなら、粒子の間の空間があるだけで、それらの粒子は入り組んでいて、分割しようがない。つまりは一体の存在、一つの物なのだと言う。
月も惑星も同じことが言える。それらは、極微の世界まで細かく見たなら、空間でしかない。そして、月も星も、やがては消えていく。万物は、時とともに姿を変えてしまう。私たちが見ている物は、一時の幻影、実体のないものにすぎない。
ここまでは知的には何とか理解できる。
でも、「万物は、知性エネルギーが波動となって、現れ出たもので、それは他に何もない一つのもの」ということが、なかなか理解できない。
理解できたつもりでも一晩寝るとまた疑念や疑問が湧いてきて、同じ質問をボブに何度も繰り返したり、参加者に片っ端から納得のいく説明を聞いたりしてまわった。
科学的に納得できる説明をしてくれた人は誰一人いなかった。ボブの話も、言葉はあくまで言葉であって、真理を指し示すポインターの役割はするが、それですべてを理解できるわけではない。
ボブは言います。「あなたたちの持っている唯一のツールはマインド(思考)です。しかし、あなたは決してマインドではこれを理解できません。なぜならそれはマインドの外にあるからです」
最初にボブのことをブログに書いた時点では、まだ疑念を抱きながら、(たぶんそれが真実なんだろうなあ)程度の理解でした。それは、「知っている」レベルではなく、「信じている」レベルでした。
そして、週三回、四か月、ボブの講和に通ううちに、(そうとしか思えない)と確信するようになりました。ある時から、疑念や質問がやってこなくなり、その答えはもうどうでもよくなりました。
「それならちゃんと説明してみろ」と言われても、ここに書いた程度の説明しかできない。「それじゃあ事実として知っているんじゃなくて、信じているにすぎない」と言われるかもしれない。
でも、私たちは、例えば、地球は丸いと知っていますが、自分で宇宙空間に行って確かめたわけじゃない。学校で習ったり、NASAの撮った地球の写真を見たりして、地球は丸いと知っている。でもその写真だって、画像処理したものだし、実際の地球は厳密には楕円形だと言われると、驚く人もいる。わずか数百年前には、誰も地球が丸いなんて知らなかった。
いくら納得のいく説明を見つけたとしても、マインド(思考)はまた新たな疑問や疑いを生み出してくる。それが二元性のマインドの性質。そうした堂々巡りをやめること。Full Stop!
現実は、今ここにある意識(conscious, pure awareness)の中にしか存在せず、すべては今ここで起きている。