私たちが見ている万物は実体のないものである。(上)
昨日、時間は私たちの思考の中にしかなく、実際には存在しないということを書きました。
もし時間が存在しないとなると、どういうことが起きるでしょうか?
例えば私たちは、A地点から別のB地点まで移動しようとした場合、時間がかかります。もし、その時間が実際には無いのだとしたら、移動に時間はかかりません。
つまり、私たちが立体的に距離を感じているこの世界そのものが成り立たなくなります。
私たちは、勝手にA地点、B地点という基準点を設定して、あたかもそこに距離があるかのように考えていますが、それは思考の仕業です。
話は変わります。量子物理学者たちの研究によれば、物質を構成する原子をさらに細かく見ていくと、quark(クオーク)という、ものすごく小さな構成要素にまでたどり着くそうです。
その小さな構成要素の大きさから考えると、その構成要素間の距離は、比例割合で言うと、宇宙空間の惑星の間ぐらい距離が離れているそうです。
要するに、私たちが物質だと思っているものの中味はスカスカの空間だというのです。
例えば、目の前の椅子(イス)に、ものすごく小さな乗り物に乗って侵入すると、そこは空間ばかりだというのです。
ではなぜ椅子に触れても手が椅子の中へめり込まないのでしょうか。それは、その小さな粒子がものすごい速さで振動しているからだそうです。ここまでは物理学者が突き止めているそうです。
要するに、私たちは、そこにある空間を見て椅子だと思っているだけにすぎません。
話は変わります。どうしてこうコロコロと話を変えるかというと、ボブがあの手この手を使って、私たちが見ているすべての物は実体のないものだと説明するからです。
ボブは、「この部屋の中にある物を、ラベル(概念・条件付け)無しで見てごらん」と言います。
部屋の中には、椅子、壁に掛かった絵、天井のライト、絨毯、戸棚、そこにいる人たちなどが見えます。
私たちは、子供の頃から、様々な体験を通して、椅子や壁にかかった絵、天井のライトというものが何であるか、それがどういう働きをするのかを学んでいます。
その学んだことがラベル(概念)となって、一つ一つのものに貼り付いているために、椅子や天井のライトを認識することができます。
もし、そのラベルをはがして、生まれて初めて見るような感じで部屋を眺めたら、一体どうなるでしょうか。
果たして私たちは、椅子を椅子として認識できるでしょうか。それが座る道具だと認識できるでしょうか。
もっと極端なことを言えば、部屋の中の立体感(奥行)さえも、経験的に学習したことなので、遠近感も消えてしまう。
そうなると、そこに椅子があるかどうかも認識できなくなって、単なる色が存在するだけのようにしか見えない。そうなると、椅子だけ浮き上がって見えることはなく、周りの色と同化して、何があるのかわからない。
話は変わります。ボブは言います。
「実在する物の定義は変化しない物です。あなたの体は生まれた時から細胞はすべて入れ替わり、毎日変化していて、昔の体はどこにもありません。そんな物が実在する物と言えるでしょうか。椅子でさえも年月が経てばやがては消えてしまう。人も自分もやがては消えてしまう。ところが実際には他のエネルギーに変化するだけで消えたりはしません。あなたたちは実体のないものを見ているにすぎません」
インドに古くから伝わるアドヴァイタ哲学では、「万物は、他には何もない一つのもの」と説きます。
「一つのもの」と言えば手っ取り早いのですが、一つのものという表現を使うと、他に何かあるという印象を与えるので、「他には何もない一つのもの」と表現するそうです。
万物は実は「他には何もない一つのもの」。椅子も壁に掛かった絵も天井のライトも、私も、あなたも、実は「他には何もない一つのもの」。
それがあたかも別々の物であるかのように見えるのは、人間の思考がそのように認識しているだけ。そこにあるのは実体のないもの。
ボブの教えでは、私たちの見ている世界を顕現または見せかけ、現象と言い、非二元の本当の世界を実在、実存と言います。
顕現、見せかけ、現象の世界は二元性の世界で、それはそのように見えているだけで、非二元性が本当の世界だと言うのです。
注:ボブは、万物は一つのもの(one without a second)だと言います。これは直訳すると、(もう一つのものがない一つのもの)もしくは(二つではない一つのもの)と言う意味ですが、それだとわかりづらいので、私の場合は、「他には何もない一つのもの」という表現で統一します。