条件付けの解除、参照点と瞑想
私たちは、大人になる過程で、周りの大人から様々な条件付けを植えつけられます。
それはそうせざるを得ないのです。それがなければ生きていけませんから、それは避けられません。
そうした条件付けのせいで、自分が分離した個人ではないことを忘れてしまいます。分離した個人という視点から、他者も同じように分離した存在であると考えるようになります。
これがおじさん、あれがおばあさん、これが椅子、あれが机で、あれが電車、という具合に様々なラベル貼り(概念の植えつけ)が行われるせいで、物事を初めて出会った時のような視点から見ることができなくなります。
本当は個人など存在しないのですが、私たちは、人に貼りつけたラベルをいつまでもひきずって、その人を勝手に概念づけて見ています。
また、自分自身にもたくさんのラベルを貼りつけて、それに縛られています。私は臆病だ、私はシャイだ、私は勤勉だ、私は誠実だ、私は自尊心がない。
本当の私は、そうしたラベルとは関係なく、度胸のある時もあれば、社交的な時もあるし、怠惰な時もあるのに、ラベルに縛られた人格を演じることになる。
また、過去に人に傷つけられた記憶や、自分が犯した過ち、悲しかった出来事なども基準点となって残り、時々思考となってやって来ては、私たちが伸び伸びと生きるのを妨げたり、本当はそれほどの問題でもないのに、そうした基準点と結びつけたりして、大問題かのように見えて、私たちを困らせます。
成長する過程で身につけたいくつもの条件付けやラベルが基準点となって残り、物事の本質を見えなくしてしまいます。
そして人々は、そうした条件付けを解除するために、セラピー(療法)や瞑想が必要なのではと考えがちです。
しかし、そうした行為(セラピーや瞑想)は、ボブに言わせると、玉ねぎの皮むきのようなもので、むいてもむいても後から皮が出てきて無駄だと言います。
では、どうしたらいいのでしょうか?
What is wrong right now unless you think about it? 今、そのことを考えなかったら、何も問題ないじゃないか?
ボブに言わせると、解決は瞬時だそうです。そもそも、問題自体がもともとありはしない。問題を生み出しているのは自分の思考。あたかも問題があるかのような見せかけの基準点にしがみついているのは、そこにいるはずのない私です。
さて、瞑想とは一体何でしょう?
私は何年にもわたって、様々な瞑想をやりました。呼吸を見つめるものから始まって、飛び跳ねたり踊ったりするもの、テープを聞いて変性意識に働きかけるものなどなど。
そうした瞑想は、心(マインド)を静めるのには役に立ちます。でも、瞑想が終われば、またやかましいマインド(思考)は帰ってきますし、瞑想している最中にだって、思考が消えるわけではない。
ボブに言わせると、マインドがガヤガヤ騒いでいる状態も、静まっている状態も、どちらも同じだというのです。
人はよく、心(マインド)の平和と言いますが、マインドそのものの本質が平和ではありません。マインドの本質は二元性だからです。
私たちの本質である「他にはなにもない一つのもの」「知性エネルギー」「純粋な意識」はマインドが騒いでいようが静まっていようが、ビクともせずそこにある。
そして、私たちは、そこから一歩も踏み外したこともなければ失ったこともない。私たち自身がそれなのです。
それは探究をしたり瞑想をしたりして探さなければならない何かではありません。私たちの日常にある普通の意識のことです。
ボブの教えでは、探究したり、瞑想したりすることこそが問題なのです。そこに、探究する人もいなければ、瞑想する人もいない。悟りを開かなければいけない人もいない。
それを探し求めなければいけない自分がいるという思いこそがつまずきの始まりです。
ある意味、問題はもともと、どこにも存在しなかったのです。私たちは「他には何もない一つのもの」「知性エネルギー」「純粋な意識」(便宜上私は勝手にこの三つの表現を採用していますが、ボブはケース・バイ・ケースでもっと多様な表現を使います。全知、全能、遍在の存在、空間的意識、認識する空、永遠に新鮮なもの、存在意識、気づき、意識、それ、などなど)です。
それはもともとそれ自体で完全なものであり、どこにも問題などありません。問題があると思い込んでいるのは、そこにいるはずのない私です。
私は長年にわたって、様々な瞑想をやってきました。確かに中には一時的に心を静めてくれる瞑想もありました。でも、瞑想は物事の根本的な解決にはなりえませんでした。瞑想こそがゴールへの近道だと説くマスターもたくさんいます。でも今ははっきりとそれが間違いだったとわかります。
ボブは言います。
人々は何年にもわたって探究や瞑想を続ける。彼らは、探究の道という山登りをやっていて、ふもとから山頂を目指して登り続けるが、決して山頂にたどり着くことはない。それはスタート地点が間違っているから。山頂から始めてください。私たちは、もう山頂にいて、どこへも行く必要はありません。自分たちはもうそこにいるという事実から始めてください。