死は存在しない。
ボブは、私たちは分離したそれぞれの個人ではなく、それ(知性エネルギー、他には何もない一つのもの、純粋な意識)なのだと言います。
そしてそれは始まりも無ければ終わりも無い。
私たちは、生まれたことも無ければ、死ぬことも無い。
ボブは言います。
ここにいる人で自分の誕生の瞬間を覚えている人はいますか?
もし覚えている人がいたら、それはいつですか?
母親から生まれ出る時ですか?それとも精子と卵子が結合した瞬間ですか?
誰一人として、その瞬間を特定できる人はいないはずです。
そしてまた、死はいつ起こるのですか?
あなたの鼓動が止まり、肉体は土に帰り始める。しかしそれはエネルギーの態様が変わるにすぎません。
それは生まれたこともなければ、死ぬこともありません。
私たちは、もともとそれなのであって、それには始まりもなければ終わりもありません。
人が死ねば、肉体は朽ちていく。しかし、「知性エネルギー」は何の変化もない。
今まで、「私」だと思っていた思考はどうなるか。それはしがみつく場所を失い、どこかへ消えてしまう。
しかし、もともとそれはやって来ては消える実体のないもので、自分という存在がいないと理解している人にしてみれば、肉体の死以前に思考の死(自分がいるという思考の死)は起こっている。
死は存在しない。
輪廻転生はあるのか。
ボブが言うには、私たち一人一人が分離した個人だという考えそのものが、まわりが植えつけた条件付けにすぎず、もともと分離した存在ではないと言う。
そうであれば、死は単なるエネルギーの変換なのであって、そこから何かが消えたり、生まれたりすることもない。
私はある時ボブに、人間は転生するのか?と聞いた。
すると彼は「誰が転生するのですか?」と答えた。私が自分だと思っている自分は実在しない。だとすれば、誰も転生などしない。そこにあるのは単なる思考の消滅にすぎず、その思考がまた別の肉体に宿るわけではない。
自分という一人の人間がいると思い込んでいるだけ。
私たちは、もともと分離した個人ではなく、「他には何もない一つのもの」。私が私だと思っている存在は実在しない。
個人が幻想である以上、それが生まれ変わるということは成り立たない。
カルマはあるのか。
ボブの世界には時間は無く、始まりもなければ、終わりもない。原因がなければ結果はない。よってカルマはない。
非二元の世界では時間は幻影。あるのは今この一瞬だけ。私たちは、昨日のことや、10年前の出来事を思い出すことはできる。
でもそれは実際にはどこにもなく、私たちの記憶の中にしか存在しない。
あるのはこの瞬間だけ。私たちが生きているのは、この瞬間だけ。過去も未来も、時間もありはしない。
それらは、私たちの意識の中にだけあり、あるように見えているだけ。
ボブは時々冗談で、「今を生きていない人はいますか?」と聞きます。
みんなこの瞬間(今)を生きています。今以外に生きようがありません。昨日どころか、5秒前だって生きることはできません。生はこの瞬間しか存在しないからです。
死んだらどうなるのかという質問をボブにしたことがある。ボブが言うには、私たちは毎晩眠りに落ちて、次の朝には戻ってくる、それと同じだと言います。ただ起きてこないだけで。
体の感覚器官を失えば、実際には見ることも聞くこともできない。それでもそこには、意識(知性エネルギー、アウエアネス、認識する空、意識、それ)があるという。実際には肉体を離れないとそれはわからない。そのためボブは私たちの意識がその現われであるというポインターを使う。
私たちは、意識を個人のものだと考えています。でもそうではありません。あるのは一つの意識。そこに個人が現れ、私たちはその意識を個人の意識と錯覚している。
個人の意識も全体の意識もない。あるのは一つの意識(アウエアネス)だけです。