2015/01/25

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑱

長々とセイラー・ボブ・アダムソンのことについて書いてきましたが、一番良いのはボブ本人の話を直接聞くことです。
そこで最後に、ボブ本人の話を翻訳掲載します。

私が読んだ書籍の中では、カリヤニ・ローリー、ピーター・ローリーが編纂した書籍「A Sprinkling Of Jewels」のP7からP15までが、いつも行われるボブの講和の冒頭部分をもっともうまく再現収録してあるので、カリヤニ、ボブ両名の了解のうえ、ここに翻訳掲載します。

出典は以下の本のP7からP15までの、The Spielの部分。

A Sprinkling Of Jewels」Kalyani Lawry & Peter Lawry編纂

この本はボブの講和の冒頭の部分(私が翻訳する部分)に続き、厳選された短いボブの言葉とともに、ボブ本人と彼の自宅とその周辺を撮ったコンパクトな写真集になっています。非常に美しい写真集で、中の英語もわかりやすく、英語がそれほど得意ではないという方にもお薦めの一冊です。
上のサイトで購入すると、36ドル(本と送料込代金)でカリヤニがオーストラリアから送るそうです。

ボブは自分の話を、冗談まじりに、The Spiel(長い演説・口上)と言って話を始めます。

***
The Spiel

ここでは、あなたに何も教えはしないし、何かを伝えるわけでもありません。
あなたにポイントを指し示し、あなたが自分でそれを調べるようにと求めているにすぎません。

たとえあなたが何を信じていようが、何を言われていようが、誰かがあなたに何かを与えることもなければ、あなたが受け取ることもありません。
それは、あなたがもうすでにそれなのだという何かであり、あなたはそのことに気がつきさえすればいいだけのことです。

そのことは、あなたがもう知っていることなのですが、もう一度再認識する必要があります。なぜならそれは容易に見失われるものだからです。
このことは、信仰や宗教とは関係がなく、概念や知識とも違います。そしてまた目新しいことでもありません。

詳しく調べれば、このことはすべての偉大な伝統に含まれていて、その基礎となっているとわかるでしょう。それは明快かつ直接に、あなたの自然な状態を指し示すものです。

あなたは、もうすでに、あなたが探し求めているものなのです。探し求めることこそが問題です。なぜなら、探し求めるということは、将来に見つける何かがあるということを意味しているからです。

例えばヒンズー教では、彼らはそれをアドヴァイタと呼んでいますが、それは非二元性と翻訳される。非二元性を説明するために彼らは「他には何もない一つのもの」という表現を使います。それは、一つという概念でさえ、他にもう一つのものがあることを暗示しかねないからです。
「それ」以外のものがあるという考えを打ち消すために、彼らは「他には何もない一つのもの」と言います。

仏教の伝統の中にも同じことがあります。ゾクチェンはその究極の教えですが、その中で、それは非概念的で、常に新鮮、遍在する意識そのもので、それ以外のものではないものと言われています。繰り返しになりますが、「それ」はそこにあるすべてを指しています。

多くの伝承や聖典は、いわゆる真理や実存について伝えていますが、それは遍在、全能、全知のものであるといいます。それは三つのもののことを言っているのではなく、一つのものの三つの側面、完全な遍在性、完全な力、完全な知性のことです。

この完全性の他に何があると言うのでしょうか。そしてその完全性の中で、何を、そして誰が探しているというのでしょうか。

あなたは、私たちがそれぞれ分離した存在、個人だという誤った信念を抱いていて、その誤った信念のせいで、自分が完全ではないと感じているのに気づくでしょう。
その分離の感覚が起こると、不安定で傷つきやすくなり、そこから探し求めることが始まります。

それは、物事の道理がわかり始める二歳ごろから始まります。以降、人は安全を探し求め、そのことが問題となります。
分離した存在という二元的な考えから始めて、非二元性を手に入れようと試みますが、それは不可能です。なぜならもともと分離などないからです。

多くの文献や聖典では、このことを顕現と呼んでいますが、それは見せかけのことを言っているにすぎず、それはそのように現れるしかないのです。
もし詳しく調べるなら、それがバイブレーションとなって現象として現れなければ、どんな顕現も現れえないということがわかるでしょう。

夜無くして昼があるでしょうか、ざわめき無くして静寂があるでしょうか、静止無くして動きがあるでしょうか、夏無くして冬があるでしょうか、引き潮無くして上げ潮があるでしょうか。

すべての顕現は形作られ二元的に現れます。しかしそれは束の間のものです。それは常に変化し続け、定義づけできず、実在とは言えません。
実在の定義は決して変化しないものですが、顕現は常に変化しています。それはそのように見えているにすぎません。

私たちはそれが現実で確固とした実体あるものだと信じ込んでいます。それも詳しく調べれば、本当のことではないとわかるでしょう。
あなたはあれやこれやを信じているかもしれませんが、絶対的に確かだと言えることは何でしょうか?
あなたは、自分が実在すると信じているのか、それとも自分が実在することを知っているのですか?

信じているということと、知っているということでは微妙な違いがあります。あなたは知っていることを否定することはできません。「私はいない」と言える人は誰もいません。
そのことについて、あなたが何を信じていようと、実際にはあなたは自分がいるということを知っています。

しかしながら、自分が何なのかということを、あなたは知りません。あなたはある種の概念を身につけ、自分が知っているということと結びつけています。
そのことが現実を、あなたが一度も分離したことなどないという現実を直視するのをさまたげています。

あなたが探し求めているものについて言うと、あなたはもうすでにそれなのです。このことを調べたことのない人たちには酷なことです。というのも、あなたは探し回って、自分の周りにあるあらゆる分離を見るでしょうから。

そして言うでしょう。「えっ、どうして分離など無いと?」
そして私が言います。「じゃあ、あなたはその体なのか?心なのか?」

そしてもし一度も調べたことがなければ、「そうです」とあなたは言うでしょう。しかし本当でしょうか。
指し示すところをちょっと調べてみて、体の中に中心が見つかるかどうか見てください。

体のどこかに、ここからあなたが始まったという場所や、あなたがそこにいて、これが私だという場所があるでしょうか?
たいていの人は、頭か胸かもしくはその他の場所から始まったと言うでしょう。しかし本当でしょうか?

もし体を調べてみれば、ここから自分が始まった、もしくは、ここが私自身だと言える場所はどこにもないということに気付くでしょう。

体を調べてみれば、それが基本的な構成要素でできているのがわかるでしょう。空気、土、火、水、空間。あなたを取り巻く構成要素と同じように。
もし自分が分離していると思うなら、自分自身を空気と分離してみてください。水をあなたの体から取り除き、どれほど生きられるか見てください。

地面から離れ、空間の外へ出てみてください。体の熱、体温、火を取り除いてみてください。あなたは、それらの構成要素から、自分自身を分離できないことを知るでしょう。

そしてそれらの構成要素は原子よりもさらに小さな粒子、純粋なエネルギーへと分解することができます。
それゆえ、体は知性エネルギーの一様式そのものにすぎません。

私は神という言葉を使いません。それは混乱をもたらすからです。私たちは皆異なるバックグラウンドを持っています。
無神論者もいれば、不可知論者もいる。キリスト教徒、ユダヤ教徒、仏教徒、モスリム、ヒンズー教徒などなど。

神について話せば、あなたは自分の伝統的な信仰と私の話を結び付けて混乱してしまうでしょう。
私は知性エネルギーという言葉を使いますが、私が知性という時、それはあなたの知性のことを言っているのではありません。

自然を見てそれが、様式化され、形作られ、具現化されるのを見なさいと言っているのです。
銀河が形成され、地球や惑星が動き回り、季節が来ては去っていき、潮が満ちては引いていく。

それが意味するのは、自然界全体はもともと知性に満ち溢れているということ、そしてあなたもエネルギーの一様式にほかならないということです。
その知性があなたに呼吸をさせ、髪の毛や爪を成長させ、体の細胞を入れ替え、食べ物を消化させています。それはまったく自然に努力なく起こっていることです。

ではあなたは心(マインド)と呼ばれる物でしょうか?調べてみて、心という物を見つけられるでしょうか? あなたは正確にどこかの位置を示して、これが心だと言うことはできません。
私たちが心と呼ぶものを通して「私はいる」と翻訳される存在の感覚、振動するパターンのエネルギーがあります。

しかし、もしあなたが心なら、あなたは思考なのですか? 心はすべて思考です。そして思考は繊細なバイブレーション、エネルギーの動きです。

「私はいる」という思考がやってくる時、それは私たちが思考と呼ぶものを通して、あなたがいるという繊細な存在の感覚がバイブレーションとなって表れています。

繊細なバイブレーションとしての思考が振動しパターンとなってやってくるのはむしろ自動的です。過去に関しては記憶として、未来に関しては、期待や想像となって現れます。
それは常に反対に向かって振動します。 善と悪、快感と不快、幸福と不幸、愛と憎しみ、肯定と否定。自分の心を見つめ、それ以外のやり方で心が機能するかを見てください。

その原初の思考が「私はある」という思考です。さてあなたはその思考なのですか?「私はいる」という思考はあなたと一緒に一日中いる訳ではないことを理解してください。もしあなたがその思考なら、それを見失ったりしないでしょう。

一日中、たくさんの別の思考がやって来ます。あなたが眠っている時や、麻酔にかけられて無意識の時には「私はいる」という思考はありません。「私はいる」という思考が無い時、あなたは消滅したりバラバラになったりするでしょうか?それとも、知性エネルギー、生そのものが機能し続けているでしょうか?だとすると、どうしてあなたが思考でありえるでしょうか。

思考は言葉でできていますが、言葉はあなたの生得のものではありません。あなたが使ってきた言葉やこの先使いそうな言葉でさえ、すべては学んだものです。

赤ん坊は生まれてきた時、どれだけの言葉を知っているでしょうか。あなたは一体いつから始まったのか。誕生の時からとあなたは言うでしょう。しかし、誰が自分の誕生の瞬間を覚えていますか。
あなたは自分の誕生の瞬間を覚えていないこと、自分では二歳かそこらぐらいという一定の時期までしか遡れないこと、それ以前のことは覚えていないことに気づくでしょう

自分の始まりが出生だと思うのなら、どの時点でそれは始まったのですか。内在する知性が様式化し、形作られ、具現化する。その一つのパターンをあなたは父と呼びます。知性がそのパターンの中にあふれ、精子を作り出すことを可能にします。

その同じエネルギーが母親の中で様式化し、形作られ、具現化され、卵子を作り出します。卵子には知性エネルギーが宿っています。というのも、卵子は自分で子宮内膜に着床するからです。
精子の中にも知性エネルギーが宿っています。なぜなら精子は卵子に泳ぎ着くからです。このことは、精子もまた知性エネルギーに満ち溢れていることを意味します。

そして精子は子宮に入るためにはどうすればいいのかを知っています。卵子と精子は一つになり、その知性エネルギーが細胞を分裂させ、さらに細胞分裂を繰り返し、小さな胎芽、つまりは小さな胎児を形作ります。

あなたが分離した存在だと思うのなら、あなたの胎児の時はどうだったでしょうか。「今日は腕を成長させなくちゃ、肝臓か、たぶん脳かなんかを少し」と言ったのでしょうか。
それとも、それは何の努力もなく自然に起こったのでしょうか。

その段階では分離した個人という考えがないことに気づくでしょう。あなたが生まれ出た瞬間に、「さあ、最初の呼吸をしなくては」とは言いませんでした。
あなたは、生まれつき、どうすればよいのか知っていました。あなたは乳首にしゃぶりつくことを学んだわけではなく、生まれつき、どうすればいいのかを知っていました。

内在する知性は、あなたがあなたと呼ぶパターンを通して働きかけ、あなたを成長させました。そこには、何かをやったあなたという存在がいたわけではなく、内在する知性、生そのものが機能し、すべてを表現しています。顕現はあたかも本物のように見えますが、そこには何もなく、エッセンス(実在)があるにすぎません。

仏陀は空即是色と言いました。仏陀はそれを空と呼び、それでも真空や何もない空間ではないと言います。仏陀はそれを認識する空、知性または知ることそのもので満ちた空、認識そのものと呼びました。

仏陀はまた逆に、色即是空とも言っていますが、その意味は、様式化され形作られ具現化されるすべての物もまた本質は純粋な内在する知性エネルギーだということです。

私たちは見せかけを現実として受け取っているために、実在の本当の姿が見えなくなっています。多くの聖典の中でそれは無知と呼ばれています。それは頭が悪いとか愚かだと言っているのではありません。それは単に本当の姿を無視して、見せかけの姿を見ていると言っているにすぎません。

スピリチュアルな探究を10年、20年、30年と続ける人もいます。彼らは瞑想し、あらゆることを試みますが、自分が間違った場所を探していることに気付かないようです。
あらゆる瞑想、あらゆる探究、何かを達成しようとするあらゆる試みは、必ず失敗に終わります。なぜなら、あなたは、自分がもうそれである何かを達成しようとしているからです。

言っておきますが、あなたはマインドの中には決して答えを見つけられません。なぜならマインドは二元的で、常に変動しているからです。
二元的に揺れ動くマインドは、いつも反対の方向に動くということがわかれば、あなたはどうするでしょうか?

知性はあなたが間違った場所を探していると知らせるでしょう。どこへ行こうがそれがマインドの中だということに気づいてください。マインドから出る方法は一つしかありません。それはフルストップ。マインドにかかわらないこと。

自身にこう問いかけてみてください。「もし今そのことを考えなかったら、何の問題があると言うのか?」

ちょっと思考を止めて、何を話すことができるか、思考無しで何ができるか試してみてください。
その間、自分は消えたりバラバラになったりはしないし、呼吸が止まったり、心臓が止まったりもしないのがわかるでしょう。

機能は引き続き働き続けています。そこでは概念化は止まっています。仏教徒はそれを一つのセンテンスで表します。彼らは、大いなる完成は概念化されない意識だと言います。

思考は一瞬停止したあとに、また別の思考がやってきますが、それにもかかわらず、あなたは一瞥を得ます。

思考が停止したとき、あなたはばらばらになったり、消滅したりはしません。実在としてのあなたは思考以前に存在します。そこには、生そのもの、生のエッセンスがあり、思考が停止している間もそこにあります。そしてそれは次の思考がやってきた時も依然としてそこにあります。

次の思考がそこへやって来て、変化し続けます。しかし思考はその気づきを崩壊させたり、汚したりは決してしないでしょう?

外の自然を見てごらんなさい。自然は、その反対の極へと揺れ動きます。しかし、自然には参照点がない。昼は夜と張り合うことはありません、静寂はざわめきと戦いません、動きは静止と格闘しません。上げ潮は下げ潮とは争いません。

しかし私たちはいつも争っていて、それが恐れ、心配、ストレス、罪悪感、恥辱、後悔、意気消沈などをもたらします。すべての心理的苦悩は関係性が原因ですが、それは私たちが自分だと思い込んでいる参照点に関係しています。

「私」だけが恐れを抱き、「私」だけが心配します。「私」だけが不幸や意気消沈、すなわち自己憐憫を抱く。つまり、「私」がすべての心理的苦悩の原因なのです。その「私」というのは、自分自身に対して自分で抱いてきたイメージであり、そうあるべく努めてきたものです。

心配、恐れや意気消沈はそれが原因です。それがいわゆるカルマと言うもの、因果(原因と結果)です。もし、私が言うその「私」が、実体、つまりはなんら独立したものではなく、全くのフィクションだとわかったら、原因なくして結果がありえるでしょうか。

もしそれが、どこにも結びつく場所がないとしたら、結果はありえないとわかるでしょう。それはただそのままあるだけです。
すべての自分の問題の原因が、自分は分離した一個の存在であると信じていることにあることを、あなたははっきりと認識することができます。

さて私たちは、ここに分離した一個の存在がいるかどうかを調べてみる必要があります。私はくだらない考えの話をしているわけではありません。というのも、そういう心理的な概念や、心理的なたわごとは、ここではもう昔に置き去りにされているからです。

かつて私はそういうことで手いっぱいでしたが、ずいぶん前にそれはなくなり、私が言っていることを理解する人たちが現れました。
玉ねぎの皮むきのように、この感覚やあの感情というふうに働きかける必要はないし、今日はこの情動で明日はまた次などと働きかける必要もありません。

それがしがみつく物が何もないとか、関連付けるものが何もないなどと確かめる必要もない。それはひとりでに自然に消えていきます。

そしてそれは、この自己の中心がフィクションであるということを調べることによってできます。

今みなさんにお尋ねしますが、今みなさんは見ていますか?
そう、みなさんは今この瞬間見ていて、改めて見ることを始める必要はないとわかっています。

今朝起きたときに、あなたは見ることをわざわざ始める必要はありませんでした。見ることは即座に起こり、聞くことも同様でした。

あなたが目覚めた時、聞くことを始める必要はありませんでした。
聞くことは起こっていて、そのままずっと一日中続いています。

もしあなたが眠っている間に誰かが呼びかけたとしても、あなたは依然として聞いています。聞くことをわざわざ始めたわけではないのに一日中ずっと続いています。
それはあたかもあなたの呼吸、心臓の鼓動やその他の生理機能のようなものです。

見ることはあなたの目を通じて起きますが、目はあなたに、「私が見る」とは言いません。それは、それを通して見ることができる器官に過ぎません。
それから、あなたは思考を使って、「私は見る」という思考に変換します。

思考が「私は見る」と変換すると、あなたはその存在が「私」が見る能力を持っていると信じてしまいます。
物事を良いとか悪いとか判断することも、すべてこの架空の存在と関係しています。

そのように、見ることは目を通じて起こり、思考によって、「私は見る」と変換されます。
聞くことは単に耳を通じて起こり、「私は聞く」という思考に変換されます。

しかし、「私は見る」という思考が実際に見ることができますか? 思考が聞くことができますか?

あなたが意識しているという思考が意識なのですか? あなたに思考がやって来る以前にあなたの意識はあります。
あなたが選ぶという思考が実際に選ぶのですか?

私たちが非常に重要だと考えている、この思考でできた存在には、見たり、聞いたり、考えたりする能力はありません。
考えることは自然に起こり、思考によって変換されます。その思考でできた存在はそれらのどれをする能力も持っておらず、実体や独立した性質を持つものではありません。

すべては一つのエッセンス、一つのエネルギー、それと同一の認識する空が、すべての顕現を様式化し、形作り、具現化する。そこには驚くべき知性が宿っていて、あらゆる姿や形となって、常に現れています。

ニサルガダッタは言いました。「自分ではない物のふりをするな、また、本当の自分を拒絶するな」
私たちは、本当はあの純粋なる知性エネルギーだということを認識しないで、見せかけを本当だと信じて、分離した存在として振る舞っています。

エネルギーのパターンが具現化し、パターンがあちこちに現れ、パターンが消えて行くが、本質は変わらないままです。その本質は崇高で遍在、それがあなたです。

さて今ここで話したことをちょっと調べてみましょう。そしてこれは限られた人だけのものではなく、自分自身で本気で調べてみようという人たちのものです。

誰もあなたにこれを与えてはくれない。あなたは自分でこれを調べなければなりません。さあ今、このまま続けて、始めてください。 

Sailor Bob Adamson 

A Sprinkling Of Jewels」Kalyani Lawry & Peter Laery編纂から翻訳転載:著作権者了解済み)