2021/10/30

初期仏教 無我・五蘊(ごうん)

前回に続いて、初期仏教の基本概念について。

無我説(むがせつ)

ここでいう我(が)とは、自己の存在の中心に意識されている「われ」という観念であり、わが生存の主体と考えらるものであり、さらに具体的には、身体の内部に潜む唯一で不滅な魂、霊魂を意味している。無我とは、その我は存在しないという意味です。

「およそ自分の所有とみなされるものは常に滅するから、永久に自己に属しているものはない。またわれわれは何ものかをわれわれであると考えてはいけない」。人間はいろいろな要素から構成されているわけですが、「われわれ人間の具体的存在を構成している精神的または物質的要素ないし機能は、いつでも自己と解することはできない」(中村元の仏教入門)

仏教では、ウパニシャッド(ヴェーダ)でいうような、認識主体としての自己であるアートマン(我)を認めませんでした。そうなると、主観と客観という対立は克服超越される。それが無我説です。私はいないということによって、「私のもの」からの執着を捨てさるのです。無我説は非二元そのものです。

なぜ無我なのかということを初期の仏教では、我(が:自己)には自性(じしょう)がないから、つまり、自己は実在ではないからと説明しています。詳しくは、後述の中村元先生のYouTube(ミリンダ王の問いの解説)を見てください。

五蘊説(ごうんせつ)

五蘊(ごうん)とは、個人の身心を構成する五種の要素のことです。初期仏教では、「私」という存在はどこにも存在しないといういうことを説明するために、「私」と呼ぶものが何でできているのかを分析することによって、そのどこにも「私」は存在しないということを説明します。その「私」を構成する要素のことを、五蘊と呼びます。

「五陰(ごおん)とも。仏教で人間存在を構成する要素をいう。また人間存在を把握する、色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)の五つの方法をいう。色蘊は物質要素としての肉体。受蘊は感情、感覚などの感受作用。想蘊は表象、概念などの作用。行蘊は受・想・識以外の心作用の総称で、特に意志。識蘊は認識判断の作用または認識の主体的な心。また宇宙全体の構成要素ともされ、絶えず生滅変化するものなので、常住不変の実体はないとするのが、仏教の根本教説の一つ。」出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア

以下は、中村元の仏教入門 P63から引用

「五蘊説」というのがあります。古くから言われていますが、個人存在を、変移しつつある五種の構成要素の群れに分解してしまう考え方です。「五蘊説」の蘊とは、集まりということです。古い訳では、「五陰(ごおん)」と訳しています。その五つとは何かというと、色・受・想・行・識です。つまり物質性と、感受作用と表象作用と形成作用と識別作用の五つに分解してみたものです。

「色」というのは、感覚的・物質的なもの一般、「受」というのは意識のうちに何らかの印象を受け入れる、ほぼ感覚と感情とを含めた作用。「想」というのは、心の内部に像を構成する、ほぼ知覚や表象を含めた作用。「行」というのは、能動性または潜在的形成力。「識」というのは、対象それぞれを区別して認識する作用。

個人存在はこれらに五蘊から構成されている。この五つはわれわれの存在の特殊は在り方を示している。それをダンマ(dhamma, サンスクリットdharma)と言っているわけです。ダンマというのはいろいろな意味がありますが、人間の生存の特殊な面、特殊な在り方という意味です。

 つまり、われわれの存在は、これら五蘊、すなわち五種類の法の領域において保持され、成立している。そこに成立しているすべてのものの集まりを総括して、まとめて、世俗的立場から見て、それをかりに「われ」「自己」と呼んでいる。しかもわれわれの中心主体は、そのいずれの法の領域のうちにも認めることができない、と教えるわけです。

 われわれの存在を構成する一部として、たとえば、物質的なもの、物質的側面がありますね。それについては、「これ(色)は無常である。無常であるものは苦である。苦であるものは非我である。われならざるものである。非我なるものはわがものではない。これはわれではない。これはわがアートマンではない」、こういう文句で説いています。

さらに五蘊の他の四つ、つまり受、想、行、識のそれぞれについても同じ文句が繰り返されているのです。世の人々は、この色、受、想、行、識のうちのどれか一つをアートマン、自己であると解するかもしれないけれど、いかなる原理あるいは機能も実は本当の自己ではない。また自己に属するものでもはない、このように考えていたのです。

五蘊の説明は佐々木閑先生がわかりやすいです。仏教では、魂、自己の存在を否定しています。自己は五蘊という構成要素でできているが、そのどこにも自己は存在しないということを、五蘊を調べることによって証明しています。



法(ダンマあるいはダルマ)

仏教では実体的な我、アートマンを想定することはなかったが、現実を成り立たせている法則、原理や真理、理法があるとして、それを法(ほう)と呼んだ。五蘊もそのうちの一つ。この真理や理法を悟った人がブッダ、仏。

業(ごう:カルマあるいはカルマン)

業とは、行為、行動という意味。業の法則とは、どんな行為も結果をもたらす、すなわち、善いことをすれば必ず善い報いがあり、悪いことをすれば必ず悪い報いがある。それを避けることはできないというもの。

業は、身体で行うこと、口で言うこと、こころに思うことの三種類があり、それを身口意(しんくい)の三業と言います。身体で人を殴ること、人を助けるのは身業(しんごう)。悪口を言ったり、ほめたりするのは口業(くごう)。人を殴ってやろうとか、人を助けようと思うことは意業(いごう)。善いことをすれば善い報いがあるため、善いことをしなさいということ。

中道(ちゅうどう)

釈迦族の王子として生まれた釈尊は、出家するまでは安楽な生活を送り、出家したあとは激しい苦行を六年間したあと、それを捨て去ったあと、瞑想して悟りを開きます。仏教では、そのような二つの極端な生き方はどちらも人間のためにならない、真実の益をもたらさないとしました。快楽と苦行、二つの極端を避けて、不苦不楽の中道によって真実の認識、悟りを達成する。この中道には、苦と楽のほか、有と無、断(断絶)と常(常住)とがあり、その両方ともを否定することにおいて中道が成立する。

有と無とは、何かが有るとも無いとも、極端な見解を持たないということです。断と常とは、例えば死後も自己が存続するとかしないとかという偏った見解を持たないということです。


四諦八正道(したいはっしょうどう)

釈尊が悟ったあと、最初に説いた四つの真理(四諦)と八つの正しい行い(はっしょうどう)のこと。

「四諦」とは仏陀の説いた四つの真理「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」のことをいう。
・苦諦(くたい) - 現世は生・老・病・死の四苦と、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五取蘊苦の四苦を加えた八苦であるという真理を説いたもの。
・集諦(じったい) - 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実。
・滅諦(めったい) - 物事への欲望と執着をなくせば悟りに至るという教え。
・道諦(どうたい) - 悟りに至るための修行法。

「八正道」
①正見(正しい見解) 四諦を正しく認識すること。
②正思(正しい決意) 「悩みや煩いから逃れたいという思い」「怒らない思い」「他者を傷つけないという思い」
③正語(正しい言葉) 「うそを言わない」「悪口を言わない」「人をからかわない」
④正業(正しい行為) 「生き物を殺さない」「盗みをしない」「淫らなことをしない」「酒を飲まない」
⑤正命(正しい生活) 
⑥正精進(正しい努力) 
⑦正念(正しい思念) 正しい思いをこころに浮かべること。
⑧正定(正しい瞑想)瞑想の修行のこと。

仏陀は、この四つの真理(四諦)を熟知し、中道(八正道)を実践すれば、一切の苦しみから解脱できる説いた。

 

 輪廻について
輪廻とは、五つの世界に生まれ変わる思想のことですが、これは仏教以前のインド社会では当たり前に信じられていた思想であり、当然仏教もその影響を受けています。



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こうして初期仏教を見てみると、大乗仏教のような複雑な教えではなく、どちらかというと、道徳的倫理的な教えの印象を受けます。「悪い行いをするな」「清いこころでいなさい」というような、わかりやすいもののように感じられます。四諦八正道を読むと、身につまされるようなことばかりです。

釈尊直接の教えとされるスッタニパータ、ダンマパダには、少しも複雑なところはありませんが、その後仏教は複雑な思想体系へと変化していきます。

「ミリンダ王の問い」
無我、縁起、五蘊の説明として、このYouTubeをぜひ見てください。セーラーボブの説明を彷彿とさせます。「ミリンダ王の問い」とは紀元前2世紀後半、アフガニスタン・インド北部を支配したギリシア人国家の王であるミリンダ王が仏教に興味を抱き、ナーガセーナ長老(仏教の僧)に対して仏教思想について尋ねた話。パーリ語の仏典として伝わっています。


参考文献