前回に続いて、初期仏教の基本概念について。
無我説(むがせつ)
ここでいう我(が)とは、自己の存在の中心に意識されている「われ」という観念であり、わが生存の主体と考えらるものであり、さらに具体的には、身体の内部に潜む唯一で不滅な魂、霊魂を意味している。無我とは、その我は存在しないという意味です。
「およそ自分の所有とみなされるものは常に滅するから、永久に自己に属しているものはない。またわれわれは何ものかをわれわれであると考えてはいけない」。人間はいろいろな要素から構成されているわけですが、「われわれ人間の具体的存在を構成している精神的または物質的要素ないし機能は、いつでも自己と解することはできない」(中村元の仏教入門)
仏教では、ウパニシャッド(ヴェーダ)でいうような、認識主体としての自己であるアートマン(我)を認めませんでした。そうなると、主観と客観という対立は克服超越される。それが無我説です。私はいないということによって、「私のもの」からの執着を捨てさるのです。無我説は非二元そのものです。
なぜ無我なのかということを初期の仏教では、我(が:自己)には自性(じしょう)がないから、つまり、自己は実在ではないからと説明しています。詳しくは、後述の中村元先生のYouTube(ミリンダ王の問いの解説)を見てください。
五蘊説(ごうんせつ)
五蘊(ごうん)とは、個人の身心を構成する五種の要素のことです。初期仏教では、「私」という存在はどこにも存在しないといういうことを説明するために、「私」と呼ぶものが何でできているのかを分析することによって、そのどこにも「私」は存在しないということを説明します。その「私」を構成する要素のことを、五蘊と呼びます。
「五陰(ごおん)とも。仏教で人間存在を構成する要素をいう。また人間存在を把握する、色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)の五つの方法をいう。色蘊は物質要素としての肉体。受蘊は感情、感覚などの感受作用。想蘊は表象、概念などの作用。行蘊は受・想・識以外の心作用の総称で、特に意志。識蘊は認識判断の作用または認識の主体的な心。また宇宙全体の構成要素ともされ、絶えず生滅変化するものなので、常住不変の実体はないとするのが、仏教の根本教説の一つ。」出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
以下は、中村元の仏教入門 P63から引用
「五蘊説」というのがあります。古くから言われていますが、個人存在を、変移しつつある五種の構成要素の群れに分解してしまう考え方です。「五蘊説」の蘊とは、集まりということです。古い訳では、「五陰(ごおん)」と訳しています。その五つとは何かというと、色・受・想・行・識です。つまり物質性と、感受作用と表象作用と形成作用と識別作用の五つに分解してみたものです。
「色」というのは、感覚的・物質的なもの一般、「受」というのは意識のうちに何らかの印象を受け入れる、ほぼ感覚と感情とを含めた作用。「想」というのは、心の内部に像を構成する、ほぼ知覚や表象を含めた作用。「行」というのは、能動性または潜在的形成力。「識」というのは、対象それぞれを区別して認識する作用。
個人存在はこれらに五蘊から構成されている。この五つはわれわれの存在の特殊は在り方を示している。それをダンマ(dhamma, サンスクリットdharma)と言っているわけです。ダンマというのはいろいろな意味がありますが、人間の生存の特殊な面、特殊な在り方という意味です。
つまり、われわれの存在は、これら五蘊、すなわち五種類の法の領域において保持され、成立している。そこに成立しているすべてのものの集まりを総括して、まとめて、世俗的立場から見て、それをかりに「われ」「自己」と呼んでいる。しかもわれわれの中心主体は、そのいずれの法の領域のうちにも認めることができない、と教えるわけです。
われわれの存在を構成する一部として、たとえば、物質的なもの、物質的側面がありますね。それについては、「これ(色)は無常である。無常であるものは苦である。苦であるものは非我である。われならざるものである。非我なるものはわがものではない。これはわれではない。これはわがアートマンではない」、こういう文句で説いています。
さらに五蘊の他の四つ、つまり受、想、行、識のそれぞれについても同じ文句が繰り返されているのです。世の人々は、この色、受、想、行、識のうちのどれか一つをアートマン、自己であると解するかもしれないけれど、いかなる原理あるいは機能も実は本当の自己ではない。また自己に属するものでもはない、このように考えていたのです。
五蘊の説明は佐々木閑先生がわかりやすいです。仏教では、魂、自己の存在を否定しています。自己は五蘊という構成要素でできているが、そのどこにも自己は存在しないということを、五蘊を調べることによって証明しています。