2021/10/16

理解することがゴールではありません。

私はセイラーボブの教えを、正しく正確に理解したと思っています。
セイラーボブの教えを正しく理解するとは、私が、「私」だと考えているものは観念のかたまりにすぎず、実体のないものであるということ、私が実在だと思っている世界は実在ではないということを理解することだと思います。

それは、ある時何かが起こって、瞬時に悩みや問題が消えて、そのあとは幸せ、あるいは至福に包まれた状態が続くという、いわゆるエンライトメントとは全く関係のないものです。また、理解したことによって何かを手に入れたり、生活が物質的に豊になったりということでもなければ、生活上の問題がたちどころに解消するということでもありません。

私はそれを理解しました。そして、生きていくことがかなり楽になりました。問題が起こっても、出来事は以前のような強烈さを失い、以前ほど私を悩ませることはありません。起こっていることのすべては観念にすぎず、やがてそれも去っていくものだと理解したからです。

もう何が起こっても大丈夫だという思いがあります。
セイラーボブの教えを完全に理解してから三年経ちました。たった三年です。
でも、まだ何かが足りないと感じています。

過去には、肉親の死、人との別れ、介護、経済的な問題、対人関係、精神的な問題で非常に苦しい時期もあり、毎日毎日生きていくこと自体がつらい日々の連続だった時期もありました。

でも、とりあえず今は、衣食住には困らず、贅沢にとはいきませんが、普通に暮らすことができていて、日常的なストレスをほとんど感じることなく暮らしています。今のところ体も健康で、対人関係で苦しむということもありません。何も問題はないのです。セイラーボブの教えも理解しました。将来に対する不安は特にありません。でも、何かが足りないのです。

ストレスのない状態で暮らしているにもかかわらず、基準点は時々やってきて、私を困らせます。ずっと以前に傷つけてしまった人たちのこと。過去のあやまち。愚かなふるまい。あんなことをしなければよかった。ああすればよかった、こうすべきだった。そんな思いがやってきて、私を苦しめます。もちろん、それは以前のような強烈さはないのですが、それでも時々やってきます。

少し前に、熱海で土石流によって、たくさんの人たちが犠牲になりました。天災はたびたび起こり、そして今でも、毎日多く人たちがコロナで亡くなっています。

そうしたことは、いとも簡単に自分の身に起こることです。
そうしたことが起こった時、私は非二元の教えを理解しているからと、平気でいられるだろうか。

現象世界で起こっていることは現象であり、実体のないものだ、と平気でいられるだろうか。私は約30年前に母と弟を亡くしました。それは本当につらい出来事でした。30年前に非二元の教えを知っていたら、それは単なる現象であり、実体のないものであると平気でいられただろうか。

今、親しい友人や身内を失って、それは単なる現象にすぎないと平気でいられるだろうか。不治の病にかかって、体は私ではないといって平気でいられるだろうか。

コロナのせいで食べていけないような状況になって、それでもこれは現象世界のことだと平気でいられるだろうか。

今、何も問題がなく、ストレスのかからない状態にいてさえも時々基準点に悩まされている私が、何かもっと負荷のかかる事態におちいった時に、それは実在ではないと平然としていられるだろうか。

人一倍心配性でメンタルの弱い私は、セイラーボブの教えなどいっぺんに忘れて、泣き叫ぶに違いありません。おろおろして、何も変わっていなかったと思うにちがいありません。まだ何かが足りないのです。

その何かが何なのかを仏教に触れて理解できた気がします。

仏教で教えていることの本質は、世界は実体のないものであるということ、すなわち諸行無常であり、私は実在ではないということ、すなわち諸法無我です。それは、非二元で教えていることと本質的に同じことです。それを理解することはそれほど難しいことではありません。

でも仏教は、それを理解したら終わりではありません。そこからが始まりなのです。それを理解したら、それを生きなくては意味がない。いくら私はいない、世界は実在ではないと理解したとしても、それを生きなくては意味がないと思うのです。

お金、財産、家族、地位、名誉、体、そういった物が実在ではないと理解するのはそれほど難しくありませんが、お金、財産、家族、地位、名誉、体といった物に対する執着を超えて、そうしたことに翻弄されずに生きていくのはそれほど簡単ではありません。そのため、仏教は修養や修行を説きます。

同様に、非二元の教えを理解したとしても、それで終わりでは意味がありません。それを生きなくては意味がないのです。セイラーボブの教えを理解しても、何年もミーティングに通っている人がいます。何年かおきに話を聞きにやってくる人もいます。

ギルバートのように、絶えず Facebook に非二元のコメントをのせている人もいるし、カリヤニのように非二元を教える講座を続けている人もいます。そしてセイラーボブは何十年もミーティングを続けています。

彼らが何をやっているかというと、非二元を生きようとしているのだと思います。人間は忘れやすい動物です。どうかすると、すぐに忘れてしまいます。彼らは非二元の教えを忘れないようにと、ある意味修養を続けているのではないでしょうか。

私の場合、修養といっても、瞑想をするとか、座禅を組むとかいうことではありません。そういう体験は、もううんざりするほどやりましたが、気休め程度でしかなかったような気がします。
私にとっての修養とは、マインド(思考)に気づいていること。悩みや困難が起こるたびに、それは実体のないものだと気づいていて、マインドがどう反応するかに気づいていること。

マインド(思考)をコントロールすることはできません。でも、思考に飲み込まれないようにして、思考に対する反応をコントロールすることはできると思います。思考に翻弄されないよう、心のありようは変えられる。それが仏教でいう修養・修行ではないでしょうか。

そうして修養・修行を続けるうちに、ゆるぎない心が完成します。それが悟りなのではないでしょうか。修行をして何か自分ではないものになろうということではなく、何度も何度も思い出すことによって、自然とものの見方が変わっていくということではないでしょうか。

非二元の教えを理解したら、それで終わりというわけではなく、そこからがスタートであり、そこからの道のりの方が長いのではないでしょうか。いまだに時々やってくる基準点に悩まされている私は、まだまだだなあと思っています。

ちょっとここでセイラーボブの言葉を引用します。

私たちは、「私」、分離した存在、個人であるという催眠にかかっています。それは繰り返し繰り返し学ぶことによって強化されてきました。名前、性別、自己の役割…、そうしたことは繰り返しによって学んだものです。それが一夜にして消えることはありません。それを理解することは瞬時にできますが、習慣化された古いパターンは繰り返しやってきます。というのも、パターンは繰り返しだからです。それから抜け出すことも同じようにして起こります。何度も何度も再認識してください。SAILOR BOB: Bags of pointers to nondualityp262より)

あなたはその体であると、何度言われたことでしょう? もっとも効果的な学習方法は繰り返しによって学ぶことです。今、あなたは真実を見抜き始めていますが、世界全体があなたを幻影の中に連れ戻そうとしています。真実を見抜き続け、それを繰り返すことによって、それはあなたのものとなるでしょう。今、幻影があなたを明晰さから連れ出すかわりに、幻影を明晰さの中へ引き込めば、真実があなたの中で強化されるでしょう。SAILOR BOB: Bags of pointers to nondualityp263より)

どんなに理解しても、「私」はいるように感じるし、世界も実在のように思える。基準点は繰り返しやってきます。悩みや困難は次々に起こってくる。それに翻弄されないように、何度も何度も思い出し、マインドに気づいている以外に手はないと思います。それこそがセイラーボブの教えの本質ではないでしょうか。

多くの人が非二元の教えを厭世的な虚無主義だと誤解しています。そうではないのです。世界も現実も簡単には変えられないのは事実です。でも、それに対する自身の反応は変えられる。そうしたことに翻弄されないでいることはできる。だからこそ救いがあるのではないでしょうか。そしてそれは、即席でできる簡単なことではないと思います。長い長い修養を必要とすると思います。仏教もそのことを教えてくれています。

(私は非二元の教えを理解した。「私」も世界も実在ではないと理解した。もう何が起こっても平気だ。)それで終わりではないのです。人間である以上、身内が亡くなれば悲しいし、困難なことが起こればおろおろするのは当たり前のことです。でも、その時、非二元の教えを心底理解して生きていたなら、また違った心持ちでいられるのではないでしょうか。

そして、仏教に触れたことで、もう一つ大きく納得できたことがあります。
私は、非二元の教えを学んだ人の多くが、その教えは前向きではない、虚無主義だと判断して去っていくのを知っています。

「私はいない」「世界は実在ではない」という教えを理解すると、次にくる問題は、では私たちの生きる目的はなんだろうということになります。通常、人は幸福になるために、お金、財産、家族、地位、名誉、健康という外側の幸福を求めて日々努力します。でも、それが実体のないものだという教えは、人から向上心や意欲を奪うことになりはしないのか? 

そうした疑問に対する答えを、佐々木閑先生の YouTube の中に見つけました。「仏教は万人のための教えではなく、社会の中で、社会的な幸福を追求することに喜びを見いだせない人、社会的欲求を追い求めることに息苦しさを感じる少数の人たちを救うための教えだ」というのです。例えて言うなら、仏教は病気になった人を癒す薬であり、病気から治ることが悟りだというのです。

もし、あらゆる人が仏教で教えている無我・無欲を追い求めるなら、社会は進歩、発展することはなくなります。でも、別の価値観があって、社会的に良いと認識されている生活を求めることを放棄することで幸福になる道もある、一般社会とは違う生き方もあるというのです。

私はこれを聞いて、妙に納得しました。非二元の教えも同じような側面があるような気がします。非二元の教えも、万人を救おうという教えではなく、社会的欲求を追い求めることで幸福を見出そうということに息苦しさを感じている人たちを救うという一面があるような気がします。進歩、発展だけを追求することとは別の価値観、生き方があるということです。

進歩、発展、前向きな態度はもちろん大切なことですし、豊かな生活を求めることも必要なことだと思います。そうしたことを全部放棄するような、出家僧のような生き方が正しいとは思いません。問題は、そうしたことに囚われてしまって、本当の幸せは何なのか、自分とは何なのかを忘れてしまうことにあると思います。

私の半生は、社会的な幸福を求めることが主たる目的ではありませんでした。心の奥底でエンライトメントを探していて、社会的な幸福を犠牲にして生きてきた一面があります。エンライトメントなどないとセイラーボブに教えられ、解放された一方で、なんと無駄なことに半生を浪費したことだろうと後悔しました。

でも、佐々木閑先生に出会い、社会的な幸福を追い求めない生き方も、何ら後悔すべきものではないと思うようになりました。

佐々木閑「仏教哲学の世界観」1-(9)

佐々木閑「仏教哲学の世界観」1-(19) 仏教を学ぶ目的