U.G.: だから、その質問は終わらなければならない。
なぜなら、その質問そのものが――よく聞いてください――その質問そのものが、答えから生まれているからです。
そうでなければ、どんな種類の質問であれ、質問が生まれる余地などありません。
すべての質問は、あなたがすでに持っている答えから生まれるのです。
だから、すでに答えを持っている質問をすること自体が馬鹿げている。
答えなしに質問はあり得ないのだから、その質問は、「私」についてあなたが知らない何かがある、しかしそれを知りたい、ということを意味しています。
すでにそこにある「私」とは別の何か――つまり、そこにはもう一つ別の「私」が存在することを意味しているのです。
Q: あるレベルでは、そうですね。
また、質問をするということは、答えを知っているという意味だ、と言うこともできます。
U.G.: その通りです。
そもそも質問など存在しない。
知識なしに質問はあり得ません。
すべての質問は、あなたがすでに持っている答えから生まれる。
だからこそ、「私は誰なのか」というような質問は、それが自分自身によって発せられたものであれ、誰かほかの人によって発せられたものであれ、答えを求めているのではないのです。
どんな質問に対しても、答えはその質問の終わりです。
そして、質問の終わりということは、あなたがすでに持っている答えの終わりを意味します。
あなた自身の答えだけではありません。何世紀にもわたって蓄積されてきた答えのすべてが、そこにあってはならないのです。
その質問への答えを要求するということは――どのレベルであれ(レベルは一つしかありません。他のレベルなどありません)――質問している者が、知識を終わらせたくないということを意味しています。
Q: それはその通りです。
でも、もちろん、この過程の中で……。
U.G.: それは「最後に」起こらなければならないのではありません。
今、起こらなければならない。
なぜなら、時間など存在しないからです。
あなたが使っている道具――つまり、この「知識」という過程――は、終わることを望んでいません。
だからこそ、それ自身に向かって質問を投げかけているのです。
そして、その質問が答えを得るまで続いていくことを、よくわかっている。
つまり、あなたが使っているこの知識という道具は、時間の中で起こること以外の何かが起こり得る可能性を知らないし、想像することもできない。
なぜなら、それは時間の中で生まれ、時間の中で機能しているからです。
それは「時間のない状態」を投影してはいるけれども、時間という領域以外では何も起こり得ないという事実を受け入れることには関心がない。
質問するということは、答えを要求しているということを意味する。
そして、その答えは時間の中でしかやって来ることができない。
その間、つまり答えがやって来るまでの時間のあいだ、この「知識」は生き残る機会を持つことになるのです。
Q: あなたの言っていることは本当です。
しかし、「私は誰なのか」という質問への答えは、時間の中には入りません。
U.G.: そうです。
しかし、時間の中で生まれたものはすべて……。
Q: それは単なる装置です。
あなたの言うことには同意します。
U.G.: その通りです。
時間という領域の中で生まれたものは、すべて時間です。
質問も時間なのです。
Q: 質問は時間の中で生まれたものではありません。
U.G.: では、それはどこから来るのですか?
Q: 「私はある(I am)」から来ます。
U.G.: その「私はある」という前提そのものが、時間なのです。
もちろん、それは一つの前提です――この知識とは別の何かが、そこに存在するという前提です。
そこにあるのは、ただ知識だけです。
Q: あなたがおっしゃるように、すでに持っている答えから質問が生まれるのだとしたら、その「すでに持っている答え」というのは、おそらく心理学でいう「心(mind)」と同じものだ、という意味ですか?
U.G.: わかりません……。
私にとっては、そもそも「心」など存在しません。
「心」とは全体性です。
(私が「心」という言葉に独特な定義を与えているということではありません。)
あなたの経験の総体、そしてあなたの思考の総体、それが「心」です。
昨日も言ったように、あなた自身のものだと言える思考など一つもありません。
あなた自身のものだと言える経験も一つもありません。
知識なしには、いかなる経験も持つことができません。
私の言っていることが、うまく伝わっているかわかりませんが。
あなたが何かを経験するたびに、その経験を通して知識が強化され、さらに確固たるものになります。
これは悪循環です。
それは延々と続いていく。
知識があなたに経験を与え、そして経験が、あなたの持っている知識を強化する。
あなたがしている質問は、とても軽薄な質問です。
なぜなら、質問は知識から生まれるからです。
もしその質問に何らかの答えがあるとしても、それが必ずしも「あなた自身の答え」だとは限りません。
すべての答えは、何世紀にもわたって蓄積されてきた答えなのです。
蓄積されてきた知識の総体がある。
蓄積された知識、蓄積された経験がそこにある。
あなたはそれらを使って、自分自身とコミュニケーションし、また他人ともコミュニケーションしているのです。
だから、「あなたの心」と「私の心」というようなものは存在しません。
しかし、これまで存在してきたものすべての、すべての思考と経験の総体としての「心」は存在します。
だから、誰かがその質問に対してどんな答えを与えようとも、その答えはその質問に終止符を打たなければならない。
事実、他人から与えられた答えも、あなた自身が自分のために作り上げた答えも、そして今日、世の中にいる賢者たちが与えている答えも、過去に存在した賢者たちの答えも――本当の意味では答えではありません。
私があなたの質問にどんな答えを与えたとしても、それはその質問への答えにはなり得ない。
なぜなら、答えはその質問に終止符を打たなければならないからです。
もし、そこで質問そのものが粉々に砕かれるのなら、その質問を生み出した原因である知識もまた、すべて消え去らなければならない。
質問している者は、どんな答えにも興味がないのです。
なぜなら、その答えは全体を吹き飛ばさなければならないからです。
あなたがこの30年、40年の間に知ったわずかなものだけではない。
その時点までに蓄積されてきたすべてのもの――それまでに存在したあらゆる人間が考え、感じ、経験してきたすべてのものが、質問が投げ出されたその瞬間までに、すべて消え去らなければならない。
私の言っていることが、うまく伝わっていないかもしれません。
ともかく、わかるでしょう。
答えがあるのだとすれば、その答えはすべてを消し去るものでなければならないのです。
Q: 私は、真空(vacuum)が現実になろうとしている、あるいは一見すると現実になりそうな、その瀬戸際で生じる絶望について考えていました。
U.G.: そうです。
しかし、少しのあいだ、そこに絶望があると仮定しましょう。
(あなたは、自分がひどい絶望の中にいると言っていますね。)
では、あなたはその絶望から自分を解放しようとすることを、もう完全にやめたのですか?
あなたは、それを「絶望」と呼んでいる。
そして「真空」や「空虚」という言葉を使うのと同じように、その言葉を使っている。
しかし、そこには絶望などありません。
実存主義の哲学者たちは、彼らが「絶望」と呼んでいるものの上に、巨大な哲学体系を築き上げました。
宗教的な人々は、それを「神聖なる絶望」と呼んでいる。
しかし、これらはすべて意味のない言葉です。
あなたは、本当に自分が「絶望」と呼んでいるものと向き合ったことがない。
なぜなら、そこにあるのは、あなたが「絶望」と呼んでいる状況から、何とかして自分を解放したいという方向への動きだけだからです。
だから、あなたはその絶望を作用させない。
私が言っている「行動」とは、そのことなのです。
あなたはまだ、それについて考えている。
わかりますか?
その絶望は、どこにあるのですか?
それはあなたの思考の領域にはありません。
それは、ここに――あなたの身体という枠組みの中に――あるべきなのです。