Q: 「そこには二元性があるという理解、その理解が生じるということ……」
U.G.: 理解そのものが二元性です。その分割がなければ、理解すべきものは何もありません。ですから、あなたが何かを理解するために使っている道具、それがあなたの持っている唯一の道具です。他に道具はありません。
直観について語ることもできるし、ほかにも千ものことについて語ることができるでしょう。しかし、それらはすべて、感度を高められた思考にすぎません。直観とは、感度を高められた思考以外の何ものでもない――それでもやはり、それは思考です。
だから、その道具を使って何かを理解したとしても、それによってあなたが何かを理解できたわけではありません。それは理解するための道具ではないし、ほかに道具もないのです。
もしそうだとしたら、そもそも理解すべきものが何かあるのでしょうか?
あなたが何かを理解しようとするのは、ただ、そこにあるものを変えるためです。そこにあるものを、あなたは変えたい。自分の思考の構造に変化をもたらしたい。だから、違ったように考え始め、違ったように経験し始める。
しかし、根本的には何も変わっていません。
つまり、あなたが何かを理解したいと思うのは、そこに変化をもたらすためなのです。それと同時に、あなたはその変化を望んでもいない。
それが、人間の神経症的な状況を生み出しています。二つのことを同時に望んでいる――変化を望み、しかも変化を望まない。
それが、いつもそこにある葛藤なのです。
Q: おそらく、その葛藤を見なければならないのでしょう。
U.G.: 「見る」ということ自体が、分割する働きです。二つのものがあることになる。
ほら、インド人はこのゲームにかけては昔からの大名人です――見る者と見られるもの、観察者と観察されるもの。
こういうゲームにかけては、彼らは大変な達人です。
しかし、いったい何を見るというのでしょう?
そして、見ているのは誰なのでしょう?
二つのものがあるのでしょうか?
あなたは「見る」とき、何をしていますか?
また同じ思考に戻っているだけではありませんか。
「私は誰なのか?」と自分自身に問いかけるのは、馬鹿げています。
それがラマナ・マハルシの基本的な教えになってしまった。「私は誰なのか?」と。
なぜそんな質問をするのでしょう?
その質問には、あなたが知りたいと思っている、もう一つ別の「私」が存在するという意味が含まれています。
私にとって、その質問にはまったく意味がありません。
その質問をするという事実そのものが、すでに二つのものがあることを意味しているのです。
あなたが知っている「私」と、そしてその本質をあなたが知らない、もう一つの「私」がある。
「私は誰なのか?」という質問には、もう一つ別の「私」が存在し、その本質をあなたは本当には知らず、それを知りたいと思っている、ということが含まれているのです。
私の言っていることが、うまく伝わっているかどうかわかりませんが。
そもそも、あなたは自分自身について何か知っていますか?
何を知っているのですか?
言ってみてください。ん?
Q: 彼が知っていることです。
U.G.: 彼が「知らされてきた」ことです。
どこに住んでいるか、自分の名前は何か、毎月いくら収入があるか、電話番号、これまでに出会った人々、30年の人生の中でどれだけの経験を積んできたか、そして読んできたすべての本。
それが、彼があなたに言えることのすべてです。
彼は、自分が集めてきた情報と、蓄積してきた経験を、機械的に繰り返すことができる。
そして、そこにあるのはそれだけです。
では、なぜあなたはそれに不満なのですか?
そして、なぜそれ以外の何かを探し求めているのですか?
あなたが集めてきた情報や、自分が知っていること以外に、自分自身について何か語ることができますか?
Q: 私がそこで見つけたものは、答えではありません。もし答えだったなら、質問が残り続けるはずがないでしょう。
U.G.: そこで何を見つけたのですか?
Q: ただの知識です。
U.G.: では、その馬鹿げた質問は、あなたがすでに持っている知識から生まれたものです。
「私は誰なのか?」という質問を投げかけたのは、そこにすでにある知識なのです。
だから、あなたは知りたいと思う。そして、その「知ること」を通して、あなたの持っている知識は勢いを増していく。あなたはそこに、さらに、さらに、さらに付け加えていく。
もし、そこに何か「知るべきもの」があるのだとしたら、あなたが知っていることのすべてが終わらなければならない。
ところが、その質問への答えを得ようと追い求めたり、答えを要求したりすることで、あなたは知識にますます多くのものを付け加えているのです。
だから、「私は誰なのか?」という質問がいかに馬鹿げているか、わからないのですか?
誰がそれを提案したのか、誰がその質問をあなたに投げかけたのか、誰がその質問を勧めたのか――そんなことはどうでもいい。
そこには、知るべきものなど何もありません。
そこにあるのは、あなたが知っていることのすべてです。
それがなくなったとき、あなたには何かを知る必要もなくなるし、そこにあるものについて何かを知る方法もなくなります。
Q: でも、「私は誰なのか」というのは、本当は質問ではありません。「私は誰なのか」は、指し示すものです。
U.G.: そうです。それはどこを指し示しているのですか?
いいでしょう。もしそれが「指し示すもの」だというなら、あなたはどうするのですか?
そこにじっと留まって、それに従う代わりに、自分の指をしゃぶっている。
その「指し示すもの」を、あなたはいったいどうするのですか?
Q: その指し示すものは、指し示されるべきものが何もないところを指しています。
それは、これらがすべて意味のない言葉にすぎないところへ、あなたを連れていくのです。
U.G.: それでいい。その質問そのものが、意味のない質問なのです。
Q: ええ。でも、それを「質問」として使った場合にだけ、そうなるのです。
U.G.: いいでしょう。それを「指し示すもの」として使ったとしても、その方向そのものが間違っている。
Q: それは指し示すものですらありません。
U.G.: いいでしょう。では、それはいったい何なのですか?
Q: それは、あなたが「ある」ということを示しています。
私が「ある」ということを示しています。
「私はある(I am)」ということが、基礎なのです。
U.G.: 「私とは何か」というのは、私が自分自身について持っている知識です。
Q: 「私はある」ということが、私なのです。
U.G.: しかし、「私とは何か」というのは、どういう意味なのですか?
Q: 何の意味もありません……。
U.G.: そうです。
Q: 「私はある」というのは、知識ではありません。
U.G.: 質問とは独立して存在するものなど、そこには何もありません。
Q: では、それが知識の終わりなのですね。