セイラーボブの教えそのものはそんなに難しいことを言っているわけではないので、ミーティングに数回出るか、本を一冊しっかり読めば何を言っているのかはわかると思います。ニサルガダッタ・マハラジは彼の話を6、7回程度聞けば十分理解できる話だと言っていて、セイラーボブも同じことを言っています。(Living Realityから)
つまり、セイラーボブの話は、6、7回程度聞けば十分理解できる話です。
私の場合は自由な長旅の途中だったことや、メルボルン滞在が楽しかったので、5か月も滞在してミーティングに出続けました。メルボルンの町は年末から春先(メルボルンでは夏)にかけては気候も良く、テニスの全豪オープンやオーストラリアデイ、F-1などの行事が目白押しで町全体が活気にあふれていました。また、ある調査によれば、世界で一番住みやすい都市だそうです。(メルボルンでミーティングに出ない時は何をしていたのか興味ある方はこのあたりのブログを読んでみてください。)
また一方でボブの英語がひどすぎて、何を言っているのかよくわからず、理解するためには本を買って読んだほうが手っ取り早いと思って図書館で本を読んでいた時間が多かったせいもあります。
ボブの教えを要約すると、
・私という存在は思考に植え付けられた条件付けにすぎず、実在ではない。
・万物は一つのものであり、分離した個人は実在ではない。
・世界は意識の中に現れる。
・私たちが見ている物は実体のないものであり、空(くう)である。
・エンライトメント(覚醒)はフィクションである。
・あるのはアウエアネス(意識)があるだけである。
というようなところです。
セイラーボブのミーティングに出てボブの話を聞いていると、(そのとおりだ)(それしかない)(理解できた)という気持ちになります。2015年に日本に帰って何日かたつと、何か釈然としない理解の浅い部分があることに気づきました。
それでまた2016年にもミーティングに参加しました。ミーティングに出ると、また、(そのとおりだ)(それしかない)(理解できた)という気持ちになりました。2018年にブログにコメントをいただいて、教えをはっきりとした実感をともなう当たり前の事実として確信していないということを思い知らされました。
そこから3か月ほど毎日ボブの本を読み、YouTubeを見て教えを学びなおしました。
毎日本を読みながら、ある時ふと、自分のやっていることはエンライトメントを探している人と同じではないかと気がつきました。
私は、「自分が自分だと思っている私は実在しない」「万物は一つのものであり、分離した個人は実在ではない」「世界は意識の中に現れる」ということを、実感を伴うあたりまえの現実として確信したいと思っていましたが、「エンライトメント」という言葉を「実感」や「確信」に置き換えただけで、エンライトメントを探す人と同じように、体験を求めているということに気づきました。
いくつかのヒントがきっかけとなって理解が起きました。その理解というのは、
「実感を伴うあたりまえの現実として確信することはできないし、実感や体験を得ようとしても無駄であり、それは不可能である」という理解です。
「自分が自分だと思っている私は実在しない」「万物は一つのものであり、分離した個人は実在ではない」「世界は意識の中に現れる」ということを、知的に理解していれば十分であって、実感を伴うあたりまえの現実として確信することはできないし、実感や何らかの体験を得ようとしても無駄です。そんなことは起きません。
最初にヒントをくれたのはギルバートでした。ギルバートの電子ブック "Who do you think you are"(現在入手不可)を読んでいて、こういう一説がありました。
すべてのものごとは、知ること(knowing)の中で起きる。あなたは「どうしてそんなことがわかる?」と聞くかもしれない。そしたら私はこう答える。「そんなこと知りようがないじゃないか」
知ること(knowing)とはアウエアネス(意識)と同じ意味で、この会話の要旨は、万物は意識の中に現れる。それに対して、あなたは「どうしてそんなことがわかる?」と聞くかもしれない。そしたら私はこう答える。「そんなこと知りようがないじゃないか」という意味です。
またギルバートはYouTubeにあるインタビューの中で、「アウエアネスを理解しようと思ってもそれはマインドでは理解できない。答えはマインドの中にはない。例えばそれは死を理解しようとするのと同じで、死がどんなものかは誰にもわからない。死ぬことがこのうえなくすばらしい可能性だってあるじゃないか。誰にそんなことがわかるかね」と言っています。
次にヒントをくれたのはカタリーナでした。ミーティングのYouTubeの中で、誰かが、「私はいないということに実感が持てない」と言った時や、類似の質問に対して彼女はこう説明しました。(正確にではなく、発言要旨の再現です)
「(私はいない)ということをいくら考えても、(私はいる)という思いは消えることはない。なぜなら、もし私という主体が消えたら世界が消えて何も認識できなくなって、(私はいない)という認識も消える」
「もし私がいなくなったら、体も消えて、世界を見ることも実感することもできない」
「空(くう)の世界を見ようと思っても、そこに何もないのなら、何も見えない」
「例えば金魚鉢の中の一匹の金魚が、ある日突然、(私とは一体何だろう)と思っても、自分の姿形を外から見ることはできない。金魚が、自分が金魚鉢の中の金魚だと認識するには、金魚の外、さらには金魚鉢の外に出ないとわからないが、それはできない。人間も同じで、もし自分が何者か知ろうと思えば、体の外に出て、さらにはこの世の外に出ないとわからない。でもそんなことはできない」
「ニサルガダッタ・マハラジは、この世は夢であり。私たちは夢の中に生きているという。でも私たちはその夢から醒めることはない。夢から醒めるためには、夢の外へ出なくてはならず、死ななければ出られない。同様に、(私)という基準点が完全に消えるのは死ぬ時である」
「私がいない、ということを体験しようとしてもそれはできない。あなたが、(私)という基準点を完全に無くすのは肉体を離れた時であり、死んだ時である」
「この世がマーヤー(幻影)だといくら言っても、実際には生きている限り世界は現われ続ける。(私)という基準点は生きている限り現われ続ける」
「思考を止めたいと思ってもそんなことはできない。それが起きるのは死ぬ時」
皮肉なことに私はセイラーボブからではなく、ギルバートとカタリーナの発言で、「自分が自分だと思っている私は実在しない」「万物は一つのものであり、分離した個人は実在ではない」「世界は意識の中に現れる」ということを、知的に理解していれば十分であって、実感を伴うあたりまえの現実として確信することはできないし、実感や何らかの体験を得ようとしても無駄であるという理解が起きました。
もし仮に、「自分が自分だと思っている私は実在しない」「万物は一つのものであり、分離した個人は実在ではない」「世界は意識の中に現れる」ということを体験的に理解できるような体験が起こったとしたら、それはエンライトメントではありませんか? 私は、「エンライトメント」という言葉を「体験」や「実感」という言葉に入れ替えただけで、結局エンライトメントを探していました。
セイラーボブは再三にわたり、「あなたはこのことをマインドでは理解できない。なぜなら答えはマインドの外にあるからだ」と言っていますが、エンライトメントの時と同じように、またしてもボブの言葉を素直に受け取ることなく何度も見逃し続けていました。
他には何もない一つのものを理解しようとするのは罠です。それを手放してください。
A sprinkling of Jewelsから
私たちが実際に生きている世界は二元性の世界であり、非二元性の世界ではありません。ですから、そこには「私」も「あなた」いるし、「空(くう)」でもない。どんなことをしたってそこには世界はある。
どんなことをしたって、「私」も「あなた」も消えない。万物が空(くう)から現れる瞬間を見ることもなければ、他には何もない一つのものを実際に見ることもない。それはあたりまえの事なのに、人はその不可能な体験を欲しがる。そして多くの人がつまずく。実感が持てないと。
セイラーボブは「海の水は実際には青くはないが青く見える。あなたにバケツ一杯の青い水を汲んでこいと言ってもそれはできない」というフレーズで、「私」は実在ではないが、実在しているように見えるということを説明する時に使います。これはほとんど毎回ミーティングで言っています。でも私は、青い海の水を探していました。
私はそのメッセージを全く理解せず、(私がいないという実感)(私がいないという体験)を探していました。そんな実感や体験をする日は永久にやってきません。それではエンライトメントを探している人と同じことをしています。もしその日がやってくるとすれば、死ぬ時かエンライトメントした時かトリップした時です。エンライトメントはフィクションです。
エンライトメントのところで書いたアポロの宇宙飛行士のように、一時的に(私がいないという実感)(私がいないという感覚)を体験する人がいることは私も否定しません。でもそれは、あくまで体験であって、去っていくものであり、実在ではありえません。そんな体験は不要です。ボブの教えているのはそういう体験ではなく、今ここにある意識です。それがすべてです。
(もしそういう体験が起きたら理解できるのに)という考えは未来を意味しています。ボブの教えに時間はなく、あるのは今ここだけです。ついでに書いておきますが、「未来も過去もない。時間はない。あるのは今だけだ」という教えも、二元性の世界の住人である私たちには、時間はあるよう見えます。海の青い水と同じです。実際に時間なんてないと実感できるのは、肉体を離れた時です。生きている間は実感することはできません。
セイラーボブを学ぶ多くの人がここでつまずきます。多くの人が「実感できいない」「知的には理解できるが実感、確信がもてない」。非二元の教えは、パラドックスであり、多くの矛盾を抱えています。ミーティングのYouTubeでも参加者の質問はこの点に集中します。そして皆、いくらセイラーボブが「答えはマインドの中にない」と言ってもメッセージをちゃんと理解しません。そして多くの人がそのまま停滞するかボブのもとを去って、また別の師を探しに出かけるのです。気づいてないだけで、理解はそこにあったというのに。
体験も実感も不要だとわかった時、不思議なことに本当の意味での理解が起きました。そして笑いました。あれほどあちこち探し回ったものが、「今ここにある意識」だったなんて。そんなシンプルな事だったのかと腹の底から笑いました。その瞬間から今まで抱いていた疑念は無くなりました。
私は今では、「自分が自分だと思っている私は実在しない」「万物は一つのものであり、分離した個人は実在ではない」「世界は意識の中に現れる」ということを理解、確信しています。もう揺らぐことはありません。
でも、実感や確信が持てないから自分は教えを理解できてないと思わないください。そんな実感や確信があってもなくても同じです。ボブは「答えはマインドの中にない」、考えてもわからないと繰り返し言っています。
もし無理やり信じ込もうとすれば、今までの概念を新しい概念に置き換えるだけになってしまいます。それは罠です。(わからない)(言っていることはわかるけど)(そうは思わない)いずれもOKです。そのままにしておいてください。
ボブは「マインドには実在を理解する力はない」と言います。私たちがいくら考えても理解できないし、そういう体験が起きることもありません。ではどうしたらいいのかというと、それが事実であるという信念(faith)と確信(conviction)を持って行動することです。これはセイラーボブの発言ではなく、ニサルガダッタ・マハラジの言葉です。(Living Reality. p.280から)
ジェームズ:ニサルガダッタの言葉の中に私の好きなものがあります。「解放というのは獲得するとかいう問題ではなく、あなたはずっと自由だったという信念と確信の問題だ。そしてその確信にもとづいて行動する勇気の問題だ」
マインドの中の「私」は実体のないもので、実在を理解することができません。人々は知的には理解できると言いますが、確信を持てないと言います。でも、知的な理解しかないのです。それ以上は何も起きません。そこからは、信念、確信、勇気が必要なだけです。そして機が熟せば、理解、確信は自然に起こってきます。
ボブの教えを妄信するのではなく、いつもそのことを心においておく。そうすると本当の意味での理解が起きます。
さんざん探しても見つからないので、あなたは思考を止めます。するとそこに意識があります。
必要な理解はたった一つ。今ここにある意識がすべてであり、それが私であり、私の思考が止まっていても、その意識の中に世界は現れているという理解だけで十分です。アウエアネスのところで説明したトラムの話を思い出してください。
多くの人がセイラーボブの教えはエソテリック(秘儀、秘教)の教えだと勘違いしていて、何か特別な体験が起きるのではないか、特別な理解があるのではないかと考えています。何も起きません。何の体験も不要です。そういう体験を求めることこそが落とし穴です。
以下はセイラーボブのホームページからの引用です。
真理や真実は蓄えたり、蓄積したりすることはできません。また、積み上げることもできない。どんな洞察、理解、認識であっても、その価値はこの瞬間の永遠に新鮮な今ここにしかありません。昨日理解したことは少しも役に立たない。それは、今はもう死んでいて生きたものではありません。そうした洞察や理解にしがみつこうとしても無駄です。なぜなら、そうしたものは生きた動きの中にだけ、永遠に新鮮で新しい真理や真実として現れるからです。エンライトメント、すなわち自己実現が一度だけの出来事として起きる、もしくは永続して定着するか経験として残るという考えは間違いです。理解する行為そのもの(understand-ING)すなわち、知る行為そのもの(know-ING)は直接の生きた体験であり、決して否定されることはありません。強調されるべきは、今直接の活動としての知る行為そのもの(know-ING)であり、「私は理解した」「私は知っている」といった死んだ概念ではありません」
Sailor Bob Adamson
これはちょっと蛇足ですが、ボブは私のようにマインドの納得を求める人に向けて、
肉体などないということを原子の話で説明します(「ただそれだけ」p.196.l.9)
ちょうどこの肉体が、要素、つまり、空気、土、火、水、空間からできている個体のように見えるのと同じことです。これらの要素は、原子より小さな粒子に分割でき、最終的には無ー非ー物性に至ります。
ボブは、物質の中へどんどん入っていくと、原子になり、素粒子なって、何もなくなる、という話をよくします。私はいつもこの話を聞くたびに、いくら小さくなっても、そこには何かあるのであって、決して無ではないんじゃないかと思っていました。最近このブログを書くために素粒子を調べて驚いたのですが、最近の素粒子研究では、素粒子には大きさがないとする理論があるそうです。(Wikipedia 素粒子)
セイラーボブは動物や自然科学のドキュメンタリー番組を見るのが好きだそうですから、きっとそういう番組で見たんでしょうね。
いずれにしても、こういう説明も不要です。私が、セイラーボブの教え(入口)で使った、森で倒れる木の音がするかどうかというような話も実は不要です。
どんなにマインドを納得させるような説明をしても、マインドはまた裏口から出て行って質問や疑問を探してきます。
セイラーボブは、理解はマインドのものではなく直感のものだといいます。例えば、
エリザベス通りを歩いていて、向こうから、いかつい男が猛スピードでこちら走ってきたら、あなたはとっさに避けるでしょう?
あなたは、頭の中で、(あの男は時速何キロぐらいでこっちへ向かっていて、私は何キロぐらいで歩いていて、もし避けないと・・・。なんて考えていないで、一瞬に理解して避けるでしょう?と。
以下は (Living Reality.p.173)から引用。
私は誰か?
ジェームズ:ラマナがかつて教えた技法に「私は誰か?」と自問するものがあります。人々は何年も何年も自問しました。
ケリー:彼らは答えなんてないということを理解しないで、答えが見つかるのを期待したからさ。
ボブ:質問する人が質問そのものなのです。もしその質問がなされなければ、質問する人も質問もない。質問する人、すなわち質問がなければ、あなたはこの瞬間、直感とともにあります。
以下は (Living Reality.p.212)から引用。
エメット:あなたがニサルガダッタのところに通っていた時、どこかの時点で「理解した」という時があったのですか?厳密に?
ボブ:彼は、私は体でもなければマインドでもないと指摘しました。そして私はそれを理解しました。でも、それがどこかの時点で起こったと言うことができるのでしょうか? そうすると、またあなたは時間にとらわれてしまいます。表面上は、それは最初に彼に会った時だと言えるでしょう。私は彼の言うことを聞く準備が十分できていました。でももし私がいつ理解したかをあなたが考える時、あなたはまた時間にとらわれてしまいます。そしてあなたは概念化し、考え始めます。「そうなるために、私はこれこれとこれをしなければいけない」と。私が彼の言うことを理解した時、私が理解したのは、私が(それ)ではなかったことなど一度もなかったということです。もちろん古い習慣はすぐには無くなりませんでした。でももし何かが嘘であると理解したら、もう決してそれを信じることはできません。昔の考えがやってきてもそれはすぐにゴミだとわかったので捨てました。それを放っておいたのです。固執することも執着することもありませんでした。
そしてそれに抵抗すること、すなわち、「こんなのは嫌だとか、ある状態にならなければいけない」はありませんでした。考えや習慣を変えようとしたり改めようとしたり修正しようとはしませんでした。それをすることは、ありのままを思考で変えようとすることです。習慣パターンがやって来た時、それはありのままです。それを変えようとする唯一の方法は思考によってです。もしそれを抵抗せず自然な状態のまま放置しておけば、それは自然になくなります。雲は空に張り付いているわけではありません。思考はあなたのどこかに張り付いているわけではありません。
セイラーボブは、自らの理解の体験をあまり詳しく語りません。聞かれても、多くの場合、「それはストーリーだ」と言って受け付けません。その理由は、もしボブが、あの時こうだった、ああだったと語ると、聞いた人はそれと同じことが起きないといけないと思い始めます。するとやがてマインドは同じストーリーをでっちあげてしまいます。
エンライトメントでも同じことが起こります。エンライトメントしたという人の話を読めば読むほど、マインドはそれを求め、エンライトメントというストーリーをでっちあげます。そうしてトリップが始まります。
以下は (Living Reality.p.271)から引用。
ボブ:答えはマインドの中にはありません。マインドがやってきたら停止(full stop)してください。停止すると何が残りますか?それでもあなたには意識があります。そしてそこにある意識はあなたに起こったことで汚されることはありません。その意識は思い出す限りあなたとともにありました。あなたの体は変化し、あなたの思考も変化し、そしてあなたの自分へのイメージも変わりました。変化しないものは何ですか? 決して変化しないのは「物ではないもの」、認識する空、すなわち純粋な意識です。それは鏡の中に映った像のようなものです。あらゆる種類の像が鏡に映りますが、鏡はそれに汚されることはありません。あなたはわかっているので、映った像が鏡ではないと言うことはできません。でも、鏡無しでその像が独立した実体を持つか理解しようとしてみてください。それはできません。あなたは映った像があるとも言えないし、ないとも言えません。それはあるがままです。それは見せかけです。それは私たちと同じです。そして私たちが映った像として現れていたとしても問題はありません。また映った像が擦り取られたとしても問題はありません。鏡は同じままです。
セイラーボブが教えているのは非二元の世界で、私たちの住んでいるのは二元性の世界です。じゃあ、その非二元というのはどこにある世界の話だということになりますが、私たちが見ているのと同じ世界のことです。
私たちは肉体を持っています。肉体を持っている私たちは、五感でしか世界を認識できません。もし、肉体がなかったなら、そこにはセイラーボブの言う非二元の世界が広がっているはずです。でも、私たちは肉体を離れるわけにはいかないので、その世界は私たちの理解を超えています。
セイラーボブは様々なポインター(ヒント)を使ってそれを私たちの伝えようとしています。そして多くの人が、非二元の世界と現実の世界をゴチャゴチャに考えて混乱しています。
ボブの教えを理解しても、体が消えるわけでもなければ、世界が消えるわけでもありません。またそういう体験をすることもありません。
セイラーボブが私たちの見えない非二元の世界を見ているとか、そういう世界を垣間見た経験をしたわけではありません。セイラーボブも私たちと同じように、二元的な世界にいて、二元的な世界を見ています。
セイラーボブの教えの肝腎なところは、「私はいない」とか、「世界は幻影である」というところではありません。セイラーボブの教えの肝腎なところは、「今ここにある意識だけが実在であり、思考は実在ではない」ということです。
以下は「ただそれだけ」p.227,l.3から引用。
それでも、それは依然として分離した身体、分離した実体として現れ続けるでしょう。物事は依然として起こり続け、対立物のペアとして現れ続けます。もしそれがなければ、世界には何も現われなかったでしょう。