死・過去生・輪廻転生
私の理解する範囲では、セイラーボブは死・過去生・輪廻転生についてはそれほど多くを語っていません。それは一つには、死という概念そのものに未来という時間が含まれているので、時間などないというボブの世界に相容れないからだと思います。
いくらボブの教えに死はない、と言っても、実際死んだらアウエアネス(意識)はどうなるだろうかとか、人間は生まれ変わるのかとかは、みなさんが興味あることだと思いますのでテーマとして取り上げてみました。
セイラーボブに、死んだらどうなるかという質問をすると、たいていは「ただそれだけ」p.171 からp.174までに載っているように、酵素が死体を分解し、微生物が死体を食べ、そこから新たな命が生まれ、命が命を食べ、命は引き継がれていくという話になってしまいます。
セイラーボブはミーティングで、死んだあとに個人のパーソナリティは残るのかという質問に答えて、(2018.10.21ミーティングYouTube、1:18:54あたりから)パーソナリティは思考であり、それは死ぬ時に消えて無くなり、それが引き継がれることはないと明言しています。
私たちが「私」と思っているのは、マインドです。それは記憶や条件付けの塊のようなもの。名前、記憶、思い出、パーソナリティ、嗜好などがマインドに条件づけされています。死と同時に、それが消えて無くなると言っています。
私たち東洋人は仏教の影響もあって、過去世、輪廻転生を信じているため、たいていの人は人の魂は転生すると信じています。でもセイラーボブの世界にはそれはありません。これは多くの人にとって受け入れがたいことではないでしょうか。
多くの人は過去世を信じています。私も過去世を見るグループセッションに参加したこともあるし、バーバラ・ハリスや立花隆の臨死体験など何冊もむさぼるように読みました。生まれ変わりや死後の世界がないとなると、エドガー・ケイシーやスウェーデンボルグ、イアン・スティーヴンソンの話は何だったのかと思います。ついでに丹波哲郎の話も。
でもセイラーボブを学んでから、転世はないと思うようになりました。私が「私」だと思っている存在は思考であり、マインドであり、それは実体がないものだと理解したからです。
私はセイラーボブに出会いう前は、人間は生まれ変わりを繰り返すものだと信じていましたが、それでもいくつかの疑問を持っていました。
①地球誕生は約46億年前と言われています。一方、人類の誕生はアウストラロピテクスまで遡ったとしても、せいぜい数百万年前です。昔テレビでやっていたカール・セーガンの科学番組コスモスの宇宙カレンダー(宇宙の誕生から現在までを一年のカレンダーにしたもの)でいうと、ホモ・サピエンス(現生人類)の誕生は12月31日午後11時58分です。
では一体それまでの間、われわれの魂はどこで何をしていたのでしょうか?
②現在の地球人口は約75億人。どうして人数が増えていくのか?人間になる前は動物だったのか? だとしたらどんな動物だったのか? ゴキブリやカエルも人間に生まれ変わることがあるのか?
③今までに生まれて死んだ人の累計は膨大な数になる。その人たちはどこにいるのか。生まれ変わるまでどこで待機しているのか。その場所は魂で溢れているのか。
④臨死体験で語られる死後の世界はどうしてあんなに多様で、それぞれの宗教色の強いものなのか? あの世では、仏教徒がクリスチャンの天国には行けないほど閉鎖的な世界なのか?
脱線しすぎました。話をセイラーボブに戻します。
以下は(What's Wrong with Right Now? p.85)から引用。
ボブ:マインドは何かを理解しようとします。マインドは概念やイメージをそれに貼り付けようとする。だがマインドはそれを理解できません。そうすると今度はあらゆることを作り出す。マインドは次の生さえ作り出してしまう。「もしいい子にしていたら将来、という思いが神と天国を作り出し、そこへ行けるだろう」と考えます。それが東洋だったら、「私は帰ってくる。輪廻転生する」となります。それはいつも、今ここにいることではなく、何者かになることです。何かになることは未来に物事が起こるということ。何かになる未来の時など来ません。実在はたった今です。それが生きるということ。あなたはこの瞬間をもう一度生きることはできません、そうこの瞬間、たった今を。
質問:私たちが死ぬ時、エネルギーはどこへいくのでしょうか?
ボブ:一つの波が海に戻る時、それはどこへ行きますか?
質問:わかりません。
ボブ:また同じ波がやって来るでしょうか? ノーです。
セイラーボブは大海をアウエアネス(意識)に例え、そこに立つ一つ一つの波を人間一人一人に例えます。私もあなたも一つの波。別々の波に見えても実は同じ海の一部。波が静まればまた海に帰っていく。その波がまた帰ってくることはない。
以下は(What's wrong With Right Now? p.88)から引用。
質問:肉体が死に、マインドが死ぬ時、それは死なのですか?
ボブ:そうです。あの「私はいる」という思考が生まれたものであり、それが死にます。聖フランチェスコの祈りでは「私は死ぬことによってのみ永遠の命を得ることができる」と言っています。彼は肉体の死を言っているのではありません。「私」という自己の感覚が死ぬのです。聖パウロは「私は毎日死ぬ」と言いました。死ぬのはマインドの思考のことです。このことは理解されなければいけません。ニサルガダッタは「理解がすべて」と言っています。
以下は(Living Reality. p.214)から引用。
ケリー:死について話しましょう。この聖人たちは「私は5分後に死んでもかまいわしない」と言っています。どんな体験が彼らにこう言わせるのでしょうか?
ボブ:それは単にエゴ、「私」という思考、すなわち偽の自己中心であり、それが生まれたものです。そしてそれは常に死を恐れている。なぜなら人々は思考よりも以前に機能しているものを理解しないからです。見ること、聞くこと、触れること、匂いをかぐこと、そして味わうこと、それは自然に起こってくることです。人々は死を恐れます。人々はマインドがそこにあるすべてだと考えていて、それがリアルに思える。あなたのマインドは単に本質の上に現れた概念の束にすぎないということを理解し、あなたは本質であり、本質は生まれたこともないと理解すれば、恐怖は消えます。そしてあなたは、あなたが死ぬ時が来るということはできません。あなたは何か概念化されたものが去るのを想像できるだけです。それはすべて観念的なものです。あなたが生まれたことはありません。何を恐れているのですか。誰が恐れているのですか。
以下はLiving Reality .p.134から
マーチン:転生はありますか?
ボブ:転生は何か分離した存在がいて、いつか将来に生まれ変わることを意味しています。もし存在が他には何もない一つのものなら、もしそれが非二元なら、もしそれが偏在、全能、全知のものなら、誰が、いつ生まれ変わるというのですか? すべてあるのは今この瞬間だけです。エネルギーのパターンが現れ、エネルギーのパターンが消えるだけです。
私たちは輪廻転生があって、来世があると思っているから救われているというか安心しているようなところがあります。ですから、来世がないとなると、寂しいし不安になってしまいます。
いくら死ぬのは思考だけだと言われても、思考が死ぬのだって怖いし、嫌です。聖パウロみたいに、毎日死ぬなんて考えられません。そりゃあ夜寝る時は、「私」はどこかへ行くわけで、毎晩死んでいるようなものですが、次の日の朝には「私」は帰ってくると知っています。私なんて最近は年のせいで明け方の早いうちに帰ってきます。
また、いくらアウエアネス(意識)は死なないといわれても、人間としての感覚器官が停止した瞬間から、私たちは認識機能を失うため、もう何も感じることができません。いわば、コンシャスネス(意識)から知性エネルギーへと戻るわけですが、それがどんな状態なのかは誰も知りません。
ギルバートが言うように、死を理解しようとすること自体が無意味なのかもしれません。いくら死のことを考えても、すべては想像にすぎません。死のことを考えること自体が意識を今ここから遠ざけてしまいます。あるのは今ここであり、未来は存在しません。
よく人は、アドヴァイタの教えは、私はいないという教えで、それが人を厭世的にするから嫌だという人がいます。でも私は逆なのではないかと思います。一つの波は一時現れてまた海に帰って、もう戻ってきません。人は転世しません。だとしたら、たとえそれはマインドが生きている一生であったとしても、マインドとして生きている間は一度しかない貴重な一生であり、前向きに懸命に生きるべきなのではないでしょうか。
以下は Living Reality .p.147から
ジェームズ:ニサルガダッタはこんなことを言っています。「人々は、世界は昔からあると思っている。それは違う。世界はあなたの意識に現れるのだ」と。
この体が死ぬ時、個体としての存在は消えてしまうのでしょうか?
ボブ:あなたは今、仮説を立てています。いつか未来の時へ。あなたは、世界は昔からあると思っています。その上にさらに時間を重ねています。
ジェームズ:私は今、概念上の話をしているのです。世界は私ゆえに存在するという言い方は正しいですか? 私がいるから、見せかけの世界は現れるのですか? つまり、「私」が源なのですか?
ボブ:それはいつ起こっていますか?
ジェームズ:今です。
ボブ:よろしい。では、世界は昔からあったのですか?
ジェームズ:いいえ。
ボブ:では、なぜあなたは「私が死ぬ時」と聞くのですか?
ジェームズ:世界はここにありさえしない。ちょっと待ってください。質問を最後までさせてください。私は意識、すなわち知る行為(knowingness)。この見せかけのジェームズが・・・。
ボブ:あなたが「の時」と言ったとたん、偏在から離れます。あなたはまた時間の中に戻ってしまいます。あなたはまた心的な概念の中に戻ってしまいます。
ジェームズ:私はこれを聞きたいのです。どうか最後まで聞いてください。いつか、この見せかけのジェームズは死にます。それはあなたも私も知っています。それが起きる時、見せかけの世界で、(笑い)いいですか、ボブ、あなたと私はここに、私たちはいて、そしてニサルガダッタはいません。それで私が言いたいことはわかりますか?
ボブ:ええ。
ジェームズ:例えば、ジェームズが死ぬほんの一瞬前、彼は知りたいのです。体が死ぬその瞬間に幻影の世界が消えて無くなるかを。
ボブ:幻影はいつ現れたのですか?その幻影は実在のものでしたか?
ジェームズ:いいえ。それは幻影です。
ボブ:あなたは幻影の中にいて、その中に現れる幻影について話をしていて、それがそのままなのか消えてしまうのか心配しています。
ジェームズ:心配しているとは言わないでください。
ボブ:あなたはまたマインドの中を探しています。マインドの中で答えを見つけようとしています。
ジェームズ:答えはそこにはない。
ボブ:あなたはそれを理解しなければいけません。
ジェームズ:答えはマインドの中にはない。
ボブ:そんなことを心配しても意味はありません。もともとあなたは存在しないのですから。
ジェームズ:ニサルガダッタはここにはいなかった。
ボブ:ええ。そしてあなたも。あなたはここにいなかった。
ジェームズ:それが問題なのです。私はここにいないのに質問するなんて狂っています。
ボブ:そのとおり。それが問題です。私たちは世界が幻影だということを理解しますが、私たちが幻影だということを理解しません。私たちもまた世界の中に現れています。
ジェームズ:(笑い)この幻影は現れてもいなかったのに、私はこの幻影が消えるのかどうか聞いている。
ボブ:そうです。
ジェームズ:私が尋ねた理由は、ニサルガダッタが、幻影は「私がいる・I am」から現れるだけだと言ったからです。
ボブ:存在の感覚、あの知る行為そのもの(knowing)ゆえにです。
ジェームズ:なぜ彼は見せかけの世界の話をしたのでしょうか? いまいましい、ありもしないものを。混乱してしまう。
ボブ:彼にかまわないで。結局、世界は存在しません。鏡の中の像のように。鏡の中に椅子が見える時、そこに実際に椅子はありますか? あなたは、そこに椅子がないとは言えないでしょう? そこにあるように見えるだけです。でもあなたが椅子に触れようとしてもそこには何もない。あなたはそれがそこにあるともないとも言えません。
ボブは「あなたが死ぬ瞬間、あなたはそれを知らない(認識しない)」と言います。
マインドが消えてなくなれば、自分が死んだのかも生きているのかも認識できない。そうだとすれば、私たちが死に対して抱いている恐怖や幻想はすべてマインドの想像でしかありません。マインドの死という意味では、私たちは毎晩死んで、毎朝生まれています。
死はありません。もともと私はいないのですから。
以下はLiving Reality.p.145から
ジェームズ:もし私の体が無くなったら、自分自身を認識できますか?
ボブ:知る働き(knowingness)はあるでしょう。でもそこにはそれを表現する方法がありません。そこには純粋な空(くう)があるだけでしょう。それは静的なものです。
ジェームズ:もし感覚がなかったら、どうやって自分の状態を知るのですか?
ボブ:もしそこに、表現したり、経験したりするためのエネルギーのパターンがなかったら、あなたは無です。いずれにしても、あなたの本質はそれなのですが。それは、知る働きが深い眠りにあるようなものです。あなたは自分が意識だということを認識しないでしょう。