第二章からの抜粋
セイラーボブとバーブ到着
2004年7月14日
ボブとバーバラが、暖かいフロリダの夏の夜に到着する頃には、私と妻のヴァシティはとても興奮していました。およそ30数年前に探求を終えて、非二元の理解を持ち続ける師を我が家に迎えるという考えは、夢でも見ているに違いないという思いでした。
私は30年にわたってスピリチュアルの道を歩み、様々な活動に参加してきましたが、実際にグルと近くで接したことはありませんでした。またスピリチュアルの師の教えに対して、私がボブに感じたような心地良さを感じるのは久しぶりのことでした。現代における、あまりにも多くのいわゆる覚醒したマスターたちは、私の考えでは偽物でした。教師たちは活動を目立った愛と慈愛で始め、様々なスキャンダル、強欲、性的いたずら、権力の乱用で終えます。とりわけ、私が30代から40代の間の15年近くの間、エンライトメントは本当にあるのか、もしそうなら、あれほど多くのいわゆるグルたちが、ほとんど、もしくは全く不誠実で、時折とても悪い行いをするのはどうしてなのかと思っていました。
ボブに会った頃、行儀の悪いグルの問題は私にとって全く不満の種でした。21歳から27歳までの間、私は瞑想を教え、スピリチュアルのムーブメントに参加していました。やがて腹立たしい行いに幻滅するようになり、私は師のもとを去りました。それは悲しいできごとでしたが、その後数年間の悲しみを癒してくれるものはありませんでした。世界的に有名なグルたちがますます注目されるようになると、その出来事を何度も思い出しました。さまざまな悪行の間、その弟子たちの口づて、本、雑誌記事などによって、多くのグルたちが「排斥」されました。1980年代中頃までに私は、初めてヒンズーベーダ占星術の明確な本を書いたことで、形而学上のグループの間で有名になり、世界中の精神世界の探求者に対して占星術を始めました。そういうわけで私は、何らかの形でグルに幻滅を感じたり虐待を受けたりした人々から直接話を聞くようになりました。もちろん、どんな話にも二面性があり、誰もが長い間広まっている有名なグルの当惑させられる噂を信じているわけではないのですが、私は信じていましたし、今でも信じています。
私が信じるようになった大きな理由は別々の顧客から同じ教師の極めて似た話を繰り返し聞かされたからです。グルAに関して聞く話はいつも、性的な悪行でした。グルBに関する話ではたいてい嘘か金にまつわるごまかしでした。グルCに関しての話は、「エゴ退治」の名のもとにトラウマを負った弟子の間で飛び交っていましたが、その一方でその教師は弟子たちに彼を尊敬させ、神のごとくに崇拝させていました。
そんなふうに時間はすぎていきました。私が聞いた中で特筆すべきは、おそらく、私が聞いた、あまりに多くの出来事が、グルがかかわる中枢機関に長くかかわった側近の人からのものだったことです。私は、秘書、運転手、愛人、指導者たちの親しい友人たちなどから話を聞きました。私の知る限りにおいて、それほど多くの互いに無関係の人々が嘘をつくはずはないのです。
私はもはやいかなる教師も信奉していなかったので、私の主な関心は特定のグルにはありませんでした。私の関心は、本質と真の解放にありました。言っておきますが私は、非常に感動的な本物のテキストを書くために時折無作法な行いをしてしまう多くの教師たちを尊敬しています。言うまでもなく彼らは多くの探求者を助けるあらゆる種類の霊的テクニックや方法を提供しています。これらたいていのグルたちは、私の考えでは明らかに正しい知識を持っていました。同時に、誠実さや道徳においてはひどい話を聞いています。そういうわけで私は難問に直面していました。
自身の探求を通して、私は何度も人の意識の水準は彼らの振舞いでは判断できないということを繰り返し読み聞きしていました。しかし私は今まで、その事実を完全に理解したり、信じたりすることはありませんでした。私は解放された人は多かれ少なかれ完璧に振舞い、間違いなく利己的ではないと信じていました。また、解放された人は欲望や個人的な好みもないと信じていました。今はそれが大変な誤解だったとわかりました。顕現した人として存在する限り、肉体とマインドを持つ限り、そこに好みはあるでしょう。これは欲望や好みに執着があるだろうという意味ではありません。しかし、好みは必ず生じてくるでしょう。ある時は行動に移され、ある時はそうではなく。明らかに個人の選択と決定で。ところが実際には私たちは幻影の世界に住んでいるのですが。しかし、ボブが到着した時、このことを全く知りませんでした。当時私は、解放された人は正直さと誠実さをもって、最小限に振舞うのだと思っていました。そういうわけで、ボブに会った瞬間、彼が私の期待通りだとわかり、満足しました。何冊かの非二元の本で読んだように、ボブは「誰でもない人」を楽しんでいるようで、私は喜びました。彼は、表面上は人間の執着の普遍的な意味や、重要で個人的な進歩を探すことを手放し、非常に満足していましたが、それはもともと幻影であると理解されている世界でのことでした。セイラーボブが私にしてくれたもっとも楽しかった話は、彼の師であるニサルガダッタ・マハラジは、もし人々が彼のことを信仰や畏怖をもって扱おうとした場合は、その人々を部屋からたたき出したという話です。ニサルガダッタは、非二元は一つであることであり、「私は悟った。あなたは悟っていない」ということではないと理解していたからです。
セイラーボブは彼が30年前にニサルガダッタから学んだ知恵を人が理解するのを助ける以外の野心を持たない気さくな人だと私は感じました。彼はスキャンダルを起こしたこともなく、金持ちでもなく、権力欲もなく、75歳にもかかわらずこれから教え始めようとしていることを私は疑問に思いました。彼の誠実さと慈愛は、彼の手紙と電話の最後をしばしば「ラブ・ユー」で終わらせることからも明らかでした。さらに、もうすでに書いたように、私は彼の本を読み始めたとたんに強い共鳴する感覚を覚えたのです。そしてボブがとうとうやって来たとき、私は30年間の祈りが実ったのだと感じました。私は自分の幸運が信じられませんでした。
もちろん、ボブのアドヴァイタを無制限に利用できるのは幸せでしたが、それ以上に非二元をそれほど長く生きた誰かに会えることに興奮しました。私はCDなどで容易にボブの教えを手に入れる事は可能でした。でも、私が求めていたのは親密な交流でした。それに、ボブが本物かどうかを自分で確かめたかったのです。彼の本や講義の中の素晴らしい教えが、その男と一致するのかを知る必要がありました。実をいうと、彼が自己実現としばしば結びつけられる特別な「パワー」を何か見せるのか興味がありました。しかし今、水曜日の夜9:30、タンパ空港に座りながら、私はこの特別なカップルに会ったら、できるだけ早くベッドへ案内したいと思いました。メルボルンから、カリホルニア、シカゴ経由でフロリダまで、飛行場での待ち時間も含めると、合計37時間かかりました。どんなに大変だったことでしょう。
ついに、ボブとバーブが歩いて来るのが見えた時、彼らは笑顔でした。四人は互いにハグを交わし、私の目がついに、しばらくの間ボブを見つめると、私は平和な感じの広大な空間を感じました。彼の顔はまぎれもなくそこにあり、今ここにいました。それはたいていの人の雰囲気を醸し出す過去の痛みやコンプレックス、意見、地位、立場などに影響されることがないかのようでした。もちろんそれは私が予期したことでした。しかしそう反応したのは私だけではありませんでした。次の五週間の間、多くの人がボブの平和でとらわれのない外見についてコメントしました。私はすぐに、ボブが本や講義で話したとおりに生きているようだと感じました。
自身の探求を通して、私は何度も人の意識の水準は彼らの振舞いでは判断できないということを繰り返し読み聞きしていました。しかし私は今まで、その事実を完全に理解したり、信じたりすることはありませんでした。私は解放された人は多かれ少なかれ完璧に振舞い、間違いなく利己的ではないと信じていました。また、解放された人は欲望や個人的な好みもないと信じていました。今はそれが大変な誤解だったとわかりました。顕現した人として存在する限り、肉体とマインドを持つ限り、そこに好みはあるでしょう。これは欲望や好みに執着があるだろうという意味ではありません。しかし、好みは必ず生じてくるでしょう。ある時は行動に移され、ある時はそうではなく。明らかに個人の選択と決定で。ところが実際には私たちは幻影の世界に住んでいるのですが。しかし、ボブが到着した時、このことを全く知りませんでした。当時私は、解放された人は正直さと誠実さをもって、最小限に振舞うのだと思っていました。そういうわけで、ボブに会った瞬間、彼が私の期待通りだとわかり、満足しました。何冊かの非二元の本で読んだように、ボブは「誰でもない人」を楽しんでいるようで、私は喜びました。彼は、表面上は人間の執着の普遍的な意味や、重要で個人的な進歩を探すことを手放し、非常に満足していましたが、それはもともと幻影であると理解されている世界でのことでした。セイラーボブが私にしてくれたもっとも楽しかった話は、彼の師であるニサルガダッタ・マハラジは、もし人々が彼のことを信仰や畏怖をもって扱おうとした場合は、その人々を部屋からたたき出したという話です。ニサルガダッタは、非二元は一つであることであり、「私は悟った。あなたは悟っていない」ということではないと理解していたからです。
セイラーボブは彼が30年前にニサルガダッタから学んだ知恵を人が理解するのを助ける以外の野心を持たない気さくな人だと私は感じました。彼はスキャンダルを起こしたこともなく、金持ちでもなく、権力欲もなく、75歳にもかかわらずこれから教え始めようとしていることを私は疑問に思いました。彼の誠実さと慈愛は、彼の手紙と電話の最後をしばしば「ラブ・ユー」で終わらせることからも明らかでした。さらに、もうすでに書いたように、私は彼の本を読み始めたとたんに強い共鳴する感覚を覚えたのです。そしてボブがとうとうやって来たとき、私は30年間の祈りが実ったのだと感じました。私は自分の幸運が信じられませんでした。
もちろん、ボブのアドヴァイタを無制限に利用できるのは幸せでしたが、それ以上に非二元をそれほど長く生きた誰かに会えることに興奮しました。私はCDなどで容易にボブの教えを手に入れる事は可能でした。でも、私が求めていたのは親密な交流でした。それに、ボブが本物かどうかを自分で確かめたかったのです。彼の本や講義の中の素晴らしい教えが、その男と一致するのかを知る必要がありました。実をいうと、彼が自己実現としばしば結びつけられる特別な「パワー」を何か見せるのか興味がありました。しかし今、水曜日の夜9:30、タンパ空港に座りながら、私はこの特別なカップルに会ったら、できるだけ早くベッドへ案内したいと思いました。メルボルンから、カリホルニア、シカゴ経由でフロリダまで、飛行場での待ち時間も含めると、合計37時間かかりました。どんなに大変だったことでしょう。
ついに、ボブとバーブが歩いて来るのが見えた時、彼らは笑顔でした。四人は互いにハグを交わし、私の目がついに、しばらくの間ボブを見つめると、私は平和な感じの広大な空間を感じました。彼の顔はまぎれもなくそこにあり、今ここにいました。それはたいていの人の雰囲気を醸し出す過去の痛みやコンプレックス、意見、地位、立場などに影響されることがないかのようでした。もちろんそれは私が予期したことでした。しかしそう反応したのは私だけではありませんでした。次の五週間の間、多くの人がボブの平和でとらわれのない外見についてコメントしました。私はすぐに、ボブが本や講義で話したとおりに生きているようだと感じました。
次の日の早朝、私たちのプライベートトークが始まりました。ボブは、6:30から7:00ごろコテージを出て裏庭の果実の木の下の木製テラスに腰掛けるのが習慣になりました。最初の数日間の朝、私も彼に加わりました。真っ先に私のマインドに浮かんだのは、思い出せる限り昔からある一つの問題でした。なぜ世界はこんなにもひどくデザインされているのか? 拷問が行われる世界を誰が作ったのか? 死がすぐそこに迫っていることを知りながら、どうやって私たちは人生を謳歌したらいいのか? 毎日数千人のアフリカの人々が、殺され、手足を切り落とされ、または餓死していることを知りながら、どうして私たちは安眠できるだろうか? どうしてサダム・フセインは人々を煮えたぎる油に落としたり、大きな材木切断機に頭から放り込んだりするなんてことができるのか? どんな創造者がこんな世界を作ったのか、なぜそんな卑劣なことをしたのか?
こういう疑問が長く私につきまとい、今までどれほど私の精神やエネルギーレベルでダメージを与えたかわかりません。何年もの間、こうした疑問は眠りつくまでの間、ほとんど毎日やってきました。そしてそれは第三次世界大戦とも思えるイラク戦争以降ますますひどくなっていました。
もちろん多くの人は、自身が殺されたり、拷問などされたりしなければ、利己的な態度をただ受け入れてやりすごしています。でも私はそんなふうにはできませんでした。誰かが苦しんでいる以上、今後どうやって幸せに生きていったらいいのかわかりませんでした。同情は別として、他の人に起こっていることが、簡単に私にも起こると知っていました。そうして、2004年には世界の情勢は猛スピードで悪化していき、私のジレンマは悪化する一方でした。私はセイラーボブが何らかの答えをくれることを期待していました。
7月15日。一日目。
ジェームズ:あなたは、基準点は偽りであると言いました。マインド、つまり思考は基準点だといえますか?
ボブ:そうです。でも、思考には実体がありません。あなたは思考を捕まえることはできません。それには独立した実体はありません。あなたは意識(awareness) 無しで思考することができますか? 思考は独立したものですか?
ジェームズ:いいえ。
ボブ:思考は基準点であると信じられています。なぜなら、私たちはそれを調べたことがないからです。幼い子供に思考がやってくるやいなや、「これが私だ」と信じ始めます。彼は考えるようになり、もし学校でうまくいかないと、「私は良くない」「私は賢くない」と考えます。こうした思考をため込むことによって、観念的な像を作り上げていきます。しかし、その「私」という思考は自分自身を理解できません。それは存在しません。基準点、すなわち自己の中心は思考の集まりにすぎません。それは独立したものではありません。私たちは幻影に追い立てられているのです。
ジェームズ:アドヴァイタを学んで以来、こんなふうに思っています。もし私たちが物事をやってないなら、誰がやっているのか? 私たちは生かされているのなら、誰がそれをやっているのか?
ボブ:(笑いながら)ジェームズ、誰が知りたがっているのですか? それはまた偽の自己の中心です。あなたも私もとても優秀なので考える、すなわち、何か「そこにいるもの」が考えていると考えているのはまたエゴです。自然の中には一つのエナジーの動きがあるだけです。
ジェームズ:何がこの世界を作ったのですか?
ボブ:作られたのではありません。それは束の間のものです。私たちの基準点から、何十億年先の生命について考えて、それを概念化することはできます。でも、何も作られたわけではないのです。
ジェームズ:ということは、この会話は起こってないのですか?
ボブ:見せかけの上では起こっています。雲がやって来た時、それは空に張り付いていますか?
ジェームズ:いいえ。
ボブ:ええ、それは概念があなたのマインドに入ってくるようなものです。空の雲には何が起きますか? それはやって来て去っていきます。「空間のような意識」という例えを使ってください。それは空間のようなもの。空(くう)です。でもそれは、空間のように何もない空ということではなく、「認識する空です」。それは認識する能力を持っています。それは自然の知性に満ちています。それは、あれこれを知っているという知性ではありません。純粋な知性。その同じ知性が宇宙を動かし、星を軌道に乗せ、風を起こすなどしています。その純粋な知性が木を成長させ、あなたの心臓を鼓動させ、あなたの爪を伸ばします。それが、それらのことをこの瞬間に同時にやっています。それがあなたの思考を起こしています。でもそれは空の雲のようなもので、どこにも張り付いていません。それはやってきては去っていきます。そのエネルギーは絶えず振動しています。
ジェームズ:私はそこに意識、一つのもの(oneness)があるという概念を持っています。
ボブ:そうです。あなたは概念を持っています。
ジェームズ:この、一つのものから、見せかけが起こってくる、そうでしょ? それが創造者である意識を作る、違いますか?
ボブ:海と波を例にとりましょう。海では、さざ波、つまり波が起きます。その波は高まり、飛び散ったり、しぶきとなったりしますが、一体それは何ですか? それは水にすぎません。それは水以外のものではありません。見かけ上は違っていても。
ジェームズ:オーケー、ということは、今あなたと私の間で起こっているのは、意識が会話となって現れているということ。
ボブ:意識を概念化しないでください。それは貼り付けられたラベルにすぎません。空(くう)が認識する能力を持っているのです。あれやこれを知っているとか、知識のことを言っているのではありません。そうではなくて、あなたが今ここにいるという認識のことです。それは思考よりも前にあります。純粋な認識。あなたはそれを否定することはできません。
ジェームズ:ということは、空は認識できるということですか?
ボブ:何かができる何かということではありません。その二つは実は一つの同じものです。「認識する空」もしくは「空なる認識」それがすべてです。
ジェームズ:認識するとは何ですか?
ボブ:単に見ることです。
ジェームズ:そう、単に見ること。背後に知性はないのですか?
ボブ:認識することは知性だということもできます。認識することは知性です。認識する人でも、認識される対象でもなく、純粋な認識。ですからそれは、認識の活動です。今、その認識はあなたとともにありますね?
ジェームズ:はい。
ボブ:認識することは、認識する人でも、認識される対象でもありません。それは実際のところ、今起こっている認識です。つまり、今も進行中です。その認識は活動でありエネルギーです。ええ、純粋な知性エネルギーは認識の活動です。それがすべてです。世界は認識の中に現われ、認識の中で消えていきます。認識とは純粋に知ることです。現われ、消えることは基準点、つまりは偽の信念によって概念となります。例えば、見ることを例にとりましょう。あなたは今見ていますね。そして「私は見る」という思考が起きています。でも実際の見る行為は思考の前に起こっています。思考によって、あなたは偽の見る人を作ったのです。あなたが、「私は木を見る」と言う時、あなたは偽の対象物を作ったのです。それは主体と客体という形でです。でも、見る人と見られる物は、見るという行為なしで存在できますか?
ジェームズ:いいえ。
ボブ:それは単に私たちが貼り付けたラベルにすぎません。考える人と思考のように。ニサルガダッタが言ったことをいつも思い出してください。「あなたはそれを概念で理解しようとして失敗する。そうやって、あなたは必ず失敗する。なぜなら、あなたはそれを概念では理解できないからだ」。あなたは概念化することをやめなければいけません。
ジェームズ:ということは、すべてのことはただ起こっているだけですか?
ボブ:まさしく。すべてはひとりでに、あるように起こっているだけです。そして何も起こってはいません。
ジェームズ:何も起こっていないことはどう説明されるのですか?
ボブ:空間のような意識を使います。すべての顕現は空間の内容物です。あなたは、その空間の外には何も想像することはできません。ですから、顕現は空間の内容物なのです。もし空間が無なら、無から何かがやって来ますか?
ジェームズ:なぜそれはそんなにリアルなのですか?
ボブ:誰にとってですか?
ジェームズ:私の思考にとってです。
ボブ:ええ、そしてその思考もまた顕現の一部です。本質としては、顕現も実在です。なぜならそれは、いまここにある意識でできていて、それは実在です。蜃気楼がどんなにリアルに見えるか考えてください。もしくは海の青い色。知性エネルギーの中で、パターンは形作られ、顕現となって現われます。
ジェームズ:何年もの間私は、すべての恐ろしい戦争や拷問などを許すことができる神がどうして存在することができるかと考えていました。でももし顕現が見せかけなら、本当には何も起こってない、そうでしょ? 何も悲劇ではない、正しいですか?
ボブ:そのとおりです。人々は生まれたこともなければ、死ぬこともありません。彼らは単にエネルギーのパターンにすぎません。彼らは現われ、しばらくの間飛び回り、そして消えるのです。実は彼らもまた、一つの知性エネルギーにすぎません。それは決して変化しないのです。
ジェームズ:スポリチュアルな経験についての質問があります。時折、たいていは夜遅くベッドなかで、突然無限というか広大さを感じます。どんな境界も限界もないような。その翌日、私は妻か友人のケリーに言うのです。「私は経験した」と。でも実際起こったことは、いつも存在する感覚や思考が一旦消えてふたたび現れたものです。私が夜時々経験する無限の感覚は、実際はいつもあるものではないですか?
ボブ:そうです。でもあなたが経験というラベルを貼るやいなや、あなたはそれを基準点から受け取ることになります。
ジェームズ:ええ、それはわかります。
ボブ:起こったのは、ただ経験することです。そこでは経験と経験する人が現れています。もしあなたの感覚が十分に開いていて、すべてにラベルを貼らなければ、あなたはありのままを見るだけです。そうすればあなたは、「私」とは無関係に現われては消えるすべてを、すばらしい魔法の見せ物として見るでしょう。
ジェームズ:生活はあなたにとって興味あるものとして現れますか?
ボブ:興味があるとかないとか、それも基準点からのものです。時々沈黙の時があり、なお一層長い時があり、他の時にはおしゃべりが続きます。どちらかが好きということはありません。いわゆる、探求者が話している静寂については関心がありません。おしゃべりも同様です。それは両方とも経験です。私とは、その経験が起こってくる空間のことです。そしてそれはいつも必ず不変です。それは物ではありません。それはすべてのものを含んでいます。
ジェームズ:ニサルガダッタがそうだったように、今あなたが話す時、あなたはすべてが起こってくる空間の中にいます。それはわかります。でも、私はそうだとは言えません。私は絶えず、がらくたを受け取ってしまいます。あなたは、たくさんの思考があろうが無かろうがかまわないと言います。でも私はそれができないのです。
ボブ:もし私が基準点を受け取れば、私も同じです。「これをしなければよかった」「あれを言わなければよかった」と考えるでしょう。でも私は基準点を見抜いています。わたしにははっきり見えています。ですから、起こってくるものは起こってくるのです。「何とも思わない」と私が言うのはそういうことです。そこには私はいないからです。そこには、好みも偏愛も比較もありません。それはただあるがままなのです。変えることなく、修正することなく、正すこともありません。ブッダは「あるがまま」と言っています。ただ見ること、それが機能しています。あなたが変えたり修正したり正したりできるのは思考だけです。
ジェームズ:ええ、私たちには思考がやってきます。重要なのは受け取らないことですね。
ボブ:そうです。そしてそこには、それを受け取る人はいません。ただ、見ること、認識することがあるだけです。
ジェームズ:ええ。それであなたはこういう話をして本を書いて、人々はこれを聞いてこう言うでしょう。「ええ、セイラーボブはそれができる。それはすごいことだ。でも私はできない」と。私が思うのは、重要なのは確信だと思います。あなたの言うことは理解できるのですが、私にはまだ完全な確信がありません・・・。
ボブ:誰が確信を持てないのですか? あなたは自分という概念を抱いて、それがそうあってはいけないと考えている。あなたは今、見ていますね。あなたは今、聞いていますね。あなたである認識活動は今あなたとともにあります。そうでしょう? それは否定できません。
ジェームズ:そうですね。
ボブ:では、確信がないというそのがらくたは何なのですか?あなたは何か概念化されたものによって、わき道にそれました・・・。
ジェームズ:そうです。でもどうして、あなたはわき道へそれることがないのですか。
ボブ:なぜなら私はその基準点が偽りであると知っているからです。あなたは自分のやっていることがわかりますか? 私があなたに指し示すと、あなたは、「もし」「でも」などと言い出します。あなたはまたしても未来に行ってしまうのです。時間は心理的概念です。あなたは、いわゆる想像上の未来の中に入り込みます。そうでない時は過去へ。でもあなたは、未来も過去も生きることはできません。すべては今起こっているのです。それは太陽を覆う雲に似ています。それは、今ある意識を覆い隠します。「私にはこれがない」や、「私はいつか確信を得るだろう」という考えが、あなたを今から遠ざけてしまいます。
ジェームズ:ということは、今ここですね。
ボブ:そう、それは即時です。どこへも行くところなどありません。
ジェームズ:昨日私はある人にひどく腹が立ちました。ある人がとても困惑する手紙をよこしたのです。
ボブ:それは昨日でしょ。過去のことは気にしないで・・・。
ジェームズ:その時私は考えました。「ちょっと待てよ。ジェームズはいないのだ」と。でも、困惑したままでした。
ボブ:ええ、なぜなら、あなたが「私はいない」と言った時、それが基準点になりました。あなたは、ジェームズはいないと、先週か先月か昨日理解したかもしれません。でもそれは、他の思考同様、もう死んでいます。あなたそれを今理解しなくてはいけません。ただ単に「私はいない」と言うかわりに、調べなくてはいけません。調べてみて、自己の中心となる「私」が見つかるかを理解してください。
ジェームズ:ええ、困惑した時、ちょっと止まって「私は誰か? 私は、今ここにある意識だ」と言いました。でも困惑する思考は止まりませんでした。
ボブ:その時あなたは「私は今ここにある意識だ」という概念を与えたのです。その概念なしで、「私はいる」。ピリオド。
ジェームズ:私は、その瞬間を意識しようと努めました。私は部屋の中をラベル無しで見まわし、ただ意識として・・・。
ボブ:もしラベル貼りをしなければ、あなたは全体を受け入れます。あなたは、見ることが自然に起こっていて、聞くことが自然に起こっていることにすぐに気づくでしょう。
ジェームズ:ええ、いずれにしても、私は彼女に返事をしなくてはいけません。
ボブ:そうですね。すべきことはすればいい。起こるに任せてください。あなたはむかついたまま彼女に手紙を書くかもしれない。それとも、彼女に苦情を言うかもしれない。でもそこには、何かをする「あなた」はいません。何が起ころうとも、それはただ単にそのように起こっているだけです。
ジェームズ:わかりました。この、行為者はいないということについて話していただけますか? それは私にとって概念的です。
ボブ:ええ、説明しましょう。今あなたは見ていますね?
ジェームズ:はい。
ボブ:あなたは今、聞いていますね? あなたの目は「私は見る」と言いますか? あなたの耳は「私は聞く」と言いますか?
ジェームズ:いいえ。
ボブ:ということは、思考がやってきて、「私は見る」や、「私は聞く」と翻訳しているわけですね。でも、その思考の「私は見る」は見ることができますか?「私は聞く」という思考が聞くことはできますか?
ジェームズ:あなたは私があなたの本で読んだり、あなたが言ったりしたのを20回以上聞いたことを言おうとしています・・・。
ボブ:今一度聞いてください。「私は見る」という思考が見ることはできますか?
ジェームズ:いいえ、その思考はがらくた。単なる翻訳にすぎません。
ボブ:ということは、思考にはいかなる力もない。
ジェームズ:もし思考に力がないのなら、いかなる行為者もいないのですね?
ボブ:「私は意識している」という思考は意識(アウエアネス)ですか?
ジェームズ:いいえ、もちろん違います。
ボブ:「私は選ぶ」という思考は選択者ですか?「私は考える」という思考は思考者ですか?
ジェームズ:ということは、もし思考に力がないのなら、単にそこには行為者はいないのですね?
ボ:もちろんそうです。いいですか、思考は知性と密接に結びついてきました。でも実際は翻訳しているにすぎません。それは、私たちが会話で使う言葉やラベルに翻訳しているだけです。思考は純粋な知性エネルギーと密接に結びついているため、それが純粋な知性エネルギーだと信じるようになりました。今、あなたがマインドや思考には力がないと理解した時、あなたはバラバラになりましたか? あなたは消えて無くなりましたか?
ジェームズ:いいえ。
ボブ:あなたは、思考なしで、まったく苦もなく生活は続くと理解しましたか? もしあなたがそのことを考えなかったら、どんな問題がありますか? あなたが考えることをしばらく止めてもバラバラにはなりません。あなたは依然として聞き、見て、味わい、生活は続いていきます。あなたは思考に依存していません。
ジェームズ:ええ。ボブ、あなたのもとへ何年も通っている生徒たちがいます。彼らはどうなっているのですか? どうして彼らは「終止符」とならないのですか?
ボブ:ええ、なりません。今のあなたと同じように。(笑い)でも、やってきてすぐに理解する人たちもいます。
ジェームズ:今のところ私は「終止符」となっていません。私のマインドは続いていて質問しています。マインドは基準点を求めています。
ボブ:あなたはマインドを停止しようとしています。でもいったんあなたがそれは道端の蜃気楼のようにがらくたにすぎないと理解したら、あなたはもうそれにとらわれなくなります。
ジェームズ:ええ、何かが起こっています。昨日、その女性から腹立たしい手紙を受け取り、私の反応は馬鹿げていると思いました。それで、それは一時間かそこらイライラした後で消えたのですが、数年前だったら、丸一日、あるいはもっとかかっていたでしょう。それは良くなりました。
ボブ:ええ、そうなるでしょう。
ジェームズ:でも私は「なるでしょう」という部分が気に入りません。それは未来です。
ボブ:それは真実です。でもあなたはもっと早くそれを捨てるようになるでしょう。すべての物事を基準点から見るという習慣的なパターンを。あなたは一、二度それをやるだけではありません。いつも、来る日も来る日もあなたの全生涯でそれをやります。私たちは自信を催眠にかけています。しかし、あなたが調べて、その偽りを理解する時、もはやあなたはそれを信じられなくなります。それはちょうどあなたが蜃気楼の中に水はないと知っているように。
ジェームズ:以前私はあなたに生活が刺激的なのか退屈なのか聞きました。というのも、時折、私がはっきりと基準点から自由な時、突然すべてが新しく新鮮なものに感じて驚くからです。
ボブ:私は判断しません。でも判断は起こってきます。
ジェームズ:そしたらどうするのですか?
ボブ:それは私のものではありません。誰がそれを受け取るのですか? それは起こり、去っていきます。すべてそのパターンが続きます。
ジェームズ:ということは、思考を受け取っているように見える人たちも、実際には受け取っておらず、受け取っているように見えるだけなのですね。そうでしょう?
ボブ:そうです。
ジェームズ:つまり、非常に苦しんでいる人たちも私と違いはないということですね。目覚めているかどうかは重要ではないということですね。それを理解するのが時々難しくなります。「頭に入らない」と父が言っていた言い回しを思い出します。
ボブ:概念化しようとしないでください。経験することの中に留まるようにしてください。そうすれば楽しめるようになります。
ジェームズ:ボブ、私は考える過程が好きなのです。そのため、すべてを概念化したくなります。創造の偉大さを見てください。数学、科学、芸術、無数の生き物たち、心臓切開手術などなど。誰が世界を創造したのか、いつも知りたくなります。そしてその創造物は実在ではありません。
ボブ:それは鏡の中の像のようなものです。何がその像を作り出しているのでしょうか。なぜ一つの像は他の像よりも良いのでしょうか?(笑い)
ジェームズ:命は奇跡に満ちています。無数の体の細胞が常に生まれ変わっています。あなたはそれが、どうやって、なぜと思ったことはありませんか?
ボブ:どうやって、なぜはもう終わっています。それはそこから離れる動きです。
ジェームズ:なぜならすべてはもう起こっているから?
ボブ:ただ起こる事とともにあってください。そうすれば、わずかな洞察が生まれます。そしてあなたは満足のいく答えを得るはずです。
ジェームズ:あなたがニサルガダッタのところにいた時、あなたはいつ彼が言うことを突然理解したのですか?
ボブ:私は彼の言うことを理解し、「もうマインドにはとらわれないぞ」と思いました。そしてドアから出ると、すぐにまたもとに戻ったのです。(笑い)でも、それは決して以前と同じではありませんでした。もちろん、遅かれ早かれ基準点は再び戻ってきました。でも、「ちょっと待てよ。これは昔と同じたわ言じゃないか」と思って、それを見破ったのです。あなたが言ったように、時々それは少しの時間もしくは少しの日にちの間いて、去っていきました。
ジェームズ:いつニサルガダッタに会ったのですか?
ボブ:1976年です。
ジェームズ:1976年の生活経験と、それから10年後では大きな違いはありましたか? というのも、経験が深まっていったと思うのですが。
ボブ:経験が深まることはありません。しかし、今ここにある意識を覆っていたがらくたは落ちていきました。それが深まることはありません。なぜなら、それは純粋なそれであり、それしかないからです。
ジェームズ:もし例えば、1976年に昨日の私に起こったような腹立たしいことが起こったら、それが1986年に起こるよりも、もっといらいらしますか。
ボブ:もちろんです。でも1976年当時でもすぐに変化が・・・。